Written by へっぽこ
きっとこれは悪い夢。
時々見ちゃう悪い夢。
赤く塗り替わったフローリングの上で、ふとそんな事を考えた。
いつも通りの問題先延ばし。嫌な事は後ろ後ろに回してしまえ。
そうして。
回してしまえば楽になる。
回してしまえば、楽になる、のに。
知っていた。
ああ、僕は知っていた。
いつかこんな日が来るだろうって。知っていた。
それはある種の予感。
何もない日常をひたすら願ったのは、それが手に入らないものだと分かっていたからなのだろうか。
何もない日なんて、どこにも無いのに。
いつだって何か起きていた。
いつだって誰かが傍にいた。
いつだって手を差し伸べてくれていた。
それなのに僕は、見えないふりして堕落した。
まったく、どこで間違えてしまったのだろう。
あるいは、何を間違えてしまったのだろうか。
いや。
本当は始めから間違っていたのかもしれない。
本当は全部間違っていたのかもしれない。
ていうか。
これは全部自分のせいなのだと、わかっているけれども。
それでも隠し通せると思っていたんだ。
気付いていないふりをして、やり過ごせると思っていたんだ。
幸せは歩いてこないから、だから歩いて行くのだけれど、三歩進んでは二歩下がって、それでも少しずつゴールに向かって行けば、いつか辿りつけるでしょう。
さいころを振り続ければ、どんな長いスゴロクもゴールとなるもの。
一回休みのペナルティを避けに避けて、その換わりにボーナスを一切排して、慎重にやってきたってわけ。
さても、一体そのゴールとは何なのだろうかと想い巡らせ。無論それは輝かしき未来に繋がるゲートだとか、茫然したためて。それが思いの他すぐそこにまで来ていたんだと今更、殊更に自覚する。
ポケットに手を突っ込んで、四角い小箱を取り出そうと、全身全霊、その行動に命を削る。
要は指輪と約束。その契約を持って日常は次の生活に昇華する。
それが僕のゴールであり、この物語の結末で、傍らまた新たな物語のスタートでもあるのだ。とか。想ったりして。
とにもかくにも、いちハッピーエンドに変わりはなく、いつか夢見た最上のそれはもうすぐそこだ。
―――ああ、けれど、辿り付けなきゃ、なーんの意味もないのです。
長らく続いた平穏は、中途半端に終わりを告げた。
後悔はいつだって先に立たなくて、今頃になって思う、あの時ああしていたらっていう“たられば”。
教えてくれた人はいた。乗り越える方法を見せてくれた人もいた。期待してくれた人もいて、支えてくれた人もいた。
なのに僕は道を外れたまんまで、立ち止まったまんまで、とうの昔に踏んだ地雷に今頃になって吹き飛ばされた。
やってきたのは向こうからだけど、僕が、もう少し強ければ、もう少し覚悟があれば、こうなりはしなかった。
結局、爆発させたのは僕なのだ。
テストの答案、答えを出さずに椅子の上、座ったままではいつかタイムアップで結果は0点。
これはそういう話です。
力の抜けた掌から、やっとで取り出した小箱がするりと逃げ落ちて。
ことりと床に落ちたその中からは、銀のリングが飛び出した。
床の上をからからと転がる。
空っぽの小箱と、冷たい掌と、遠のく銀のリング。
それは、ある日の夜の出来事。
普段ならばベッドの中にいてもおかしくない、深夜の出来事。
だからこれは悪い夢。
時々見ちゃう悪い夢。
最後に一言、ごめんなさい。
それではみなさん、さようなら。
/
その日は、朝から雨が降っていました。
と言っても、街を覆う天井が雨を通す事はなく。
けれど雨雲が日を遮るおかげで地上は少々薄暗い。
日向と日蔭のくっきりとした晴れのコントラストも今日はお預けで、かわりに揺らり揺らめく薄明かりのグラデーションが、魚のように街のいたる所をゆらゆらと漂っている。
雨が当たり、水が流れ、光が惑う透明な天井は、見上げればまるでここが水底であるかのような、ちょっとした幻想だった。
朝からずっとそんな調子の、不安定で曖昧で。太陽の見えない空に、なんとなく憂う心持で、喫茶店での仕事をこなして。そうしてそうして、いつの間にか。
知らぬ間に、太陽は終日雨雲に隠れたまま、地平線の向こう側へと消えた。
夕焼けも何もないままに、ただただ暗く。街は夜の帳(とばり)を下ろし、今に至る。
夜。しかし月も星も雲の向こう。
暗く黒く光の差さない空からは、未だに雨が降っていた。
カランとドアベルが鳴る。
エイさん(暇なときにウエイトレスをして貰っている)は扉を開けて、体半分を外に出すと、扉の外側に掛かった“open”の札をくるりと回して“closed”に変えた。
こうして、喫茶さくらねこの本日の営業はもれなく終了である。
一日を振り返るに客足はまあまあ。
それは今日に限らず、最近は常連さんもぽつぽつと現れ始めて。
おかげ様で喫茶店業は今ではそれなりに軌道に乗っている、と、思っている。
そんなわけで。商店街の片隅の、ジュエリーなお店に鎮座したショーケースの向こう側で輝く銀のリングももはや射程圏内。
そんな位置にまでやってきたのだ。やっと。
というか、実はもう買ってあったりなんかして。
ちょっと背伸びしちゃいました。
トン、と、四角く膨らむポケットを叩く。
そして僕は空想する。
これからの事、色々な事。まさしく夢。
口にすればたちまち消えてしまいそうな、ふんわりとした何かを心の中で抱きしめる。
そんな夢を想いながら、一方で現実の僕はシンクで洗剤の泡まみれ。
しゃかしゃか洗い物を片していたりするのだった。
「雨、止みませんねー」
テーブル席の椅子を上げつエイさんが呟く。
「そうですねー。と言っても、あまり影響ないですけどねー」
街天井有るし、雨水が地面を直接濡らす事はない。
変化点は街の雰囲気。ただ薄暗く、光が揺らめくアンニュイな空気ばかりである。
「確かに暮らしの上で影響は無いんですけど。なーんていうか、やっぱり気が晴れないというか。 私はこう、晴れ晴れ爽快明快っていう、そんな青空が好きかなーって。想うわけですよ」
エイさんは言う。
わからないではない。
太陽が空を横切る姿を拝めないのは、どこか不健康な感じがして、メリハリなく、こう夜になっても全然すっきりしない。
そんな気は確かにするのだった。
まぁ代わりにイメージアクアリウムで、さながらファンタジー色に覆われた街は、それはそれでダウナーではあるが趣深くはある。
まるで街がビー玉の中にあるみたい。そんな感じ。そんな幻想。
「明日は晴れるといーなー」
椅子をひょいひょい机に上げながらエイさんは呟く。
「きっと晴れますよ」
洗い物をカチャカチャ片付けながら、僕は無責任な返答をした。
や、すでに閉店し私用の携帯も電源をさっき入れたところなので、天気予報ぐらい三秒で調べられるのだが。
まあ、洗い物中なのでね。
とはいえ、無責任と言ったって、実際問題止まない雨はないのである。
と、何か言い訳っぽい事を思って見るが、しかし明日晴れるかどうかは結局、明日にならなきゃわかりません。
晴れるか、晴れないか、蓋を開けなきゃわかりません。
気象情報そっちのけで、字面だけで見れば五分と五分だが、そんなのは机上の空論で、それならば一つ願掛けでも。と、他愛のない自分ルールをこさえて、きっかけ作りに勤しむのも悪くは無い。
人はいつか死ぬ。つまるところ、時間は限られている。
うろうろしてると置いていかれる。老いて、いく。
だからどんな些細なことにも、あるいは意味のある事なんだと、そう思い込んだり。
自分で意味を見出したり、今みたいに勝手な自分ルールを作ってみるのは割かし賢いやり方だと思うんだ。
それに、意味のある事に、意味が無いって頑なに、その現実を平たく薄く叩き潰す逃避行だって、また人生。
ルールの内容はこう。
『もし明日晴れたなら、その日のうちに指輪を渡しましょう。』
と、心の石板にがりがりと刻む。
ハイ、おっけー。
なんだか凄く大袈裟な気がするけれど、ま、こうでもしなきゃいつまでたっても指輪、渡せないままでいきそうなんでね。
踏ん切りつけるためには、何か後押しが欲しくなるのが人情だ。
それにほら、輝く指輪って、なんだか太陽をイメージするしね!
――とか、そんなことを考えた。
益体もなく、人知れず洗い物を片しながらの片手間に、そんな事を僕は考えていた。
まったく平和だった。
そんな体たらくで、大きな決意に取り敢えずの一区切り。僕は思考を切り替える。
「そうそう。エイさん、カメラの件ですけど。」
ひょんな事からエイさんに貸しっぱなしになっていたカメラの事を尋ねた。
「あ、うん。貸していただきありがとうございました!大いに助かったっす!今日、持って来てるんで後で返しますねー」
「はいはい」
「流石に最新モデルは違いますよねー。なんでもかんでもくっきりはっきり。容量もドでかくいし、思わず、あんなものやこんなもの、はたまた、あんな姿やそんな格好までも撮りまくりですよ」
「あんな姿やそんな格好ってなんすか」
「あ。エッチだねー! えー、えへへー、見たいなら見せてあげない事もないよー?モ・ノ・ホ・ン」
しゅるりとエプロンの肩紐をずらして前屈み。胸の下で腕を組むようにおっぱいを強調するエイさん。揺らぐ理性。耐える僕。
けれど、エロスな前振りにはいつだって碌でもねーオチが待っているもので、相手がエイさんならなおさらだ。
そんなわけで。
「やめときます」
「にゃーん、そこはもっとぐいぐい押さないと!オチだって用意してたのにー!ぷんすか」
「あはは、さすがエイさん、そのちょっとお古いノリが、堂に入っててステキです!」
「ぐぁ!褒められたはずが大ダメージ。見てろー、いつかときめかせてやるもんねー!思いっきり弄んだるもんねー」
「まあ、エイさんに弄ばれるなら本望ですよ」
「いやん!そ、そんなガチンコ言われると、さすがのお姉ちゃんも照れちゃうんだなー」
「はいはい。体くねらせる前にお仕事お仕事」
「はーい」
なぞと。なんの伏線にもなり得ないひどく日常的な会話を僕はエイさんとそのまま続けて、最後のコーヒーカップを洗い終えた、その時であった。
―――カラン、と、ドアベルが鳴った。
必然、僕らは扉の方へと目を向ける。
そこにいたのは一人の女性。
見覚えは、ない、と思う。が、もしかしたら一度くらいは客として来てくれた事が有るのかも。その程度の認識。
女性は店内を一望し、僕を見て、そしてエイさんに目を止めた。
「あーごめんなさい、今日の営業はもう終わっちゃいまして」
応対する給仕スタイルのエイさん。
「あの、……店長、さんに。その、お話が。できれば、二人きりで」
快活なエイさんとはまるで正反対に、静かに、そしてどこか怯えながら……。
怯え?いや勘違いだろ。
「えーっと、」
彼女の言にエイさんは振り返り、視線で僕に指示を仰いだ。
そして。
店はもう閉まった後だったが、追い返すのも気が引けた僕は、その女性を取り敢えずお客さんとして向かい入れる事にした。
僕はお客さんをカウンター席に促して、飲み物だけならという口添えと共にメニューを渡し、それからエイさんには今日はもう帰っていいと伝えた。
お客さんは席につくとただ俯き、注文も何もなく、だんまり。
エイさんは“アイアイ”とまるで敬礼でもせん勢いで頷き、そのまま奥に引っ込んでいった。
引っ込んで、タイミング的には僕がお客さんに善意のコーヒーを出した頃合いに出てくると。
「ではまた明日っす!」
と。今度こそビッと敬礼しつつ、そのまま颯爽と去っていった。
まったく、エイさんを雇ったのは正解だった。
基本的に真面目で礼儀も正しい。加えて、いい具合に平和ボケした今の彼女は朗らかに人当たりも好くって、まさしくウチの看板娘(……娘?)と言えなくもない。
そんなエイさんがいなくなった今、二人だけ残された店の中は、なんだかひどく静かに感じた。
お客の彼女は席に着いたまま、未だ俯いたまま、微動だにせず。眼前のコーヒーには目もくれない。
コーヒーより紅茶の方が良かっただろうか、と過ぎた事を考えている僕は僕で所在なく、またする事もなくって、彼女とは少し距離を置いたカウンター内で遣る瀬無く佇んでいた。
まるで、時間が凍りついてしまったようだ、とそんな事を思った。
けれど唯一、コーヒーから立ち込める湯気だけが、時間が凍りついていない証しとして、音もなく昇っていた。
そうしてそのまま静閑が幾ばくか続いて。
それから前触れなく、彼女は口を開いた。やっと。
「くびわつき」
―――その第一声に心を鷲掴みにされた。
彼女は震える声で、掠れ掠れに喉を震わし、弱々しく、ただ断固と、堰を切った。
「“首輪付き”。あるリンクスのあだ名、なんですよね?」
嫌な予感。
とってもとっても嫌な予感。
僕は、答えない。
「この間“首輪付き”と、そう呼ばれて、ましたよね?」
………あ、やばい。
「私、知ってるんです。彼がBFF社の研究員だったから。」
やばいやばいやばい―――
「スピリットオブマザーウィル。覚えてますか?」
◇
その事を覚えているかと問われれば、そも忘れる事など出来るはずなく。
知っているかと問われれば、知っているわけなど有るはずもなく。
では教えてあげましょう、と。彼女は僕の心をえぐりにかかる。
押しつけられた写真には笑顔の男女の姿があって、いつの間にか彼女の昔語りが始まって。
そんな彼女の言うことには、写真の彼とは赴任先から帰ってきたら結婚するはずだったとか。
その赴任先は、地上で最も安全なはずだと、彼は言い張っていたとか。
そのはずが、いつかたった一体のネクストに一時間足らずで、容易く壊されたとか。
そのネクストの名前がストレイドというのだとか。
そのリンクスの通り名が“首輪付き”というのだとか。
そんな、ひどく恐ろしい事を。
一方的に捲し立てられ、思わず、あとずさったそこ、積み重ねていた洗いたての、まっさらな皿が数枚。ぶつかって床に落として。破片が飛んだ。
ガラガラガシャン。
そんな、何もかもが砕ける音でなんとか、膝が折れそうになるのを耐えた。
けれどその音っていうのは、もしかすると、心の砕ける、もはや取り返しのつかない音だったのかもしれない。
「ねえ知ってる?
アーマード・コアって機械にはね、人が乗っているのよ。
アームズフォートっていう機械にだって、たくさんの人が乗っているのよ。」
静かに彼女はそんな当たり前の事を口にした。
「あなたはとても簡単に、それこそゲームみたいに人を殺してきた。次から次へと。
けど実際はゲームじゃない。ゲームじゃないのよ。
スタートボタンでもう一度、なんていう、やり直しはきかないの。
あなたも、私も。誰だって、死んだらお終い。
殺された人たちは殺されたままなのよ。
そして、残された人も残されたままなのよ。
全部、本当の事なのよ。
ロボットの中には人がいるのよ。
機械を動かしているのはあなたと同じ、―――あなたと同じ人間なのよ。」
恐ろしく穏やかに、無知な子供に諭すように。
優しさをすら持ち寄って、そんな事を彼女は言った。
「あなたは何も分かってない。」
僕は何も答えられず―――
「あなたのせいで私は、私たちは。」
ただ見苦しく、あうあうと喘いでいた。
「あなたが、殺した」
吐き気がした。頭痛が。眩暈が。
喉がひりつ。息ができな。動悸が激し。
心臓も脳も心も意識も魂までも、何もかもが痛くて痛くて。
耳鳴りがガンガンとして頭は割れそうだ。だのに彼女の声だけははっきりと聞こえてくる。
「あなたが殺した」と、自身の体をきつく抱きしめるように、身を縮めながらも、そんな言葉を彼女はひたすら吐きだした。
何度も。何度も何度も。
「あなたが殺した」
―――僕は。僕は、そんな、
「あなたがあの人を殺したの。殺してしまったのよ。私から奪ったのよ。何もかもをぶち壊したのよ。全部。あなたが。私の幸せを、殺して、壊して、奪っていった」
―――そんな事を、した覚えなんて。
いつの間にか、語気荒く、叫ぶかのような、哭くかのような。
耳から入っては心に突き刺さる無数の棘(ことば)。そのどれもが鋭利であった。
「それなのに―――それなのに、あなたは…こんな」
目には一杯の涙を浮かべ、声を震わせながら、それでも泣くまいと彼女は必死に、顔をくしゃくしゃにしながらも、絞り出すように、
「ねえ、どうして?どうしてよぅ。
ずるいわよ、こんなの。
戦争なんて知らない。
クレイドルで、私たちはあんなに幸せだったのに。
それはずっと、そのままのはずだったのに。
なんでよ。なんなのよ。
あれだけの人の命を奪ったのに、どうして平然としてられるのよ。
おかしいわよ、そんなの。」
彼女はそう呟きながら、ついに涙を流した。
「………返して……返してよ。あの人を、私に返して!」
気付けば、僕は泣いていた。号泣していた。
何時から泣いているのか自分でも分からなかった。
彼女につられたとでも?
いや、そんな事は無いはずだ。女のヒステリーに付き合う甲斐性なぞ持ち合わせちゃいない。
でも、だったら、なんで、僕は泣いているんだ?
ていうか、なんでこんな目にあっているのだろう?
なにもなにも分からない。
わかりませんわかりません。
頭を左右に一度振る。
先ほどよりの頭痛の所為か、額の奥がキンと軋んだ。
―――いや。
実際は分かっていたよね。全部。分かっているんだよね。
分かっているけれど、心底分かりたくなかったんだよね。
ズルイネ。
でも、分かりたくない。分かりたくない。
僕は。
僕はあなたを知らない。
どころか、あなたの言うその男の事だって、知らない。なにも。全然。まったく。
そんな男は知らない。そんな男は知らない。
会った事もない。見た事もない。聞いた事もない。
そんな男は知らない。
これは誓って本当だ。
僕は、そんな男の事なんて、全く何にも知らないんだよ。
だけど。だけど!
いくら知らなくたって、あの日SOMを壊したのは、壊してしまったのは、紛れもなく――――。
“アレには数千の人間がいたのだぞ”
頭をよぎる、ある日の王小龍の言葉。それから。
“人を殺すのに矜持は要らない。大義名分も必要ない。ただちょっとだけ鈍感であればいい。それは心構えの話。”
それを受けて現れた僕の心髄。
なんて。なんて酷い、度の超えた身勝手な話だろう。バカか。僕は。そう、僕はバカなんだ。
僕は、“僕が人を殺した”なんて、“僕が人を殺してしまった”なんて、本当は、これっぽっちも。“理解していなかった”んだ。
両の手を見る。ぶるぶると震えるその手に、焦点はもはや合わなかった。
だからそのまま頭を抱えた。
頭を押さえつける。
出来る事ならそのまま脳を握りつぶしたかった。
涙は依然止まらない。
気持ちが悪い。気持ちが悪い。気持ちが悪い。
嫌だ、畜生。なんだよ、これ。
弱くて、脆くて、浅くて、鈍くて、遅くて、極めつけに腐ってる。
知らな過ぎて、傲りが過ぎて、足りな過ぎて、超が付くほどの欠陥人間。
抱えた頭を後ろに振って、後頭部をしこたま壁に打ちつけた。
ごつん、という音。鈍痛が追従する。
僕は、僕が、僕を、―――。
もう一度、頭を壁に打ちつけた。
ごつん。
あれから、いつから、ずっと続いて、引きずりまわして、閉じ込めて、逃げ回ってきた僕の、その全ての罪が、帰結する。
そして、全ての罰が、起爆する。
それから後、ガラガラ音をたてて瓦解した。
僕の全てが、―――瓦解した。
頭の中の、脳の中の、意識の中の、内より内、魂からドミノ式、倒れて砕けて、飛び散る破片に宿る、微少記憶がパキンと砕けて、壊れたレコーダー(脳)が頼んでもいないのにフラッシュバックを開始する。
それは無数の“ある日”の断片。
ある日、エイ・プールは言いました。“平和ですよねー”と彼女は笑いながら言いました。
―――平和なものか。僕は今にも、死にそうなのに。
ある日、メイ・グリンフィールドは言いました。“私は友達だと思ってる”と彼女は笑わず言いました。
―――だったら。だったら、助けてよ。僕を今すぐ助けてくれ。
ある日、ダン・モロは言いました。“繋がりは消えねーよ”と彼は高らかに言いました。
―――その通りだ。僕が殺した人との繋がり。僕に殺された人の繋がり。繋がりは、何も消えていなかった。
ある日、ウィン・D・ファンションは言いました。“幸せになって欲しい”と願いを僕に託しました。
―――無理でした。頑張ったけど、無駄でした。力及びませんでした。
ブツン。
と、何かが切れる音が聞こえた気がした。
いいや、確かに聞こえた。
それは未来に続く線が切れた音かもしれない。
“今”を紡ぐ線も、切れてしまったのではないだろうか。
僕が僕でなくなっていく。
目の前の、彼女の声が消えていく。
もう何も聞こえない。
空っぽで、カラカラで、ガランドウで。
頭を抱えた両腕をだらりと下ろす。
明瞭な視界は、ひどく色褪せたセピア調。
あんなに楽しかった、煌びやかだった僕の新世界は、もうどこにも無い。
そっか。と、小さく頷いた。
そうか、ああ、そういう事だったんだ。と、うんうん頷いた。
腐った思考は加速する。
生贄なのは、今もリンクスで在り続ける彼らじゃなかった。
僕なんだ。
全てに絡んできたこの僕こそが、世界の生贄だったんだ。
ありえない妄想にすがる。
僕の死を持って、この平和は完成する。
そういう事なんだろ?
欠陥品のブレーキは火花を散らしてはじけ飛んだ。
もう、どうにでもなってしまえ。
何もかも、どうでもいい。
“だから”グンとアクセルを踏み込んだ。
「ひ、ひひひ、」
と、信じられないくらい気持悪い、気味も悪い、下卑た笑いが涎と一緒に垂れ流れた。
―――さて。
さて思い出そう。
ご覧のとおり、ここは喫茶店のカウンターである。
刃物だって置いてあるさ。ほら、すぐそこ。
洗いたての、ピッカピカの包丁がすぐそこにあるじゃないか。
自覚しろよ。
既にどれだけの人を■してきた事か。
それが無自覚的な、ゲーム感覚であれ、人が死んだのは事実。
ネクスト使って引き金を引いたのは事実。
ネクストで焼き尽くしたのは事実である。
だからさ。
悪魔がそっと囁いた。
だから今更、人ひとり■したって、画面越しじゃなくて目の前で、機械じゃなくて自分の手で、兵器じゃなくて包丁で、直に、コロ――、■したって、何も、なんにも変わらないだろう。
舞台がちょっと違うだけ。
鉄と鉄ではなく、生(なま)と生。
はるかに狭い喫茶店(バトルフィールド)。
視界は明瞭。
オペレーターは―――
「あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ、もう、違うだろ、違う違う違う、そんなの要らないだろ、生身なんだから、戦場だって狭いじゃないか、何をオペレートするんだよ、馬鹿じゃねえの、つうか馬鹿だろ、は、そんなの分かりきってる、黙れ、くたばれ、しね、さっさと死んでしまえ、ちくしょう、やれよ、やっちまえ、壊してしまえ、壊れてしまえ、閉じてしまえよ、馬鹿野郎」
罵倒する。
何もかもに罵詈をぶつける。めっためたに阿鼻叫喚する。
既に僕は人ではないのだ。
「殺してやる」
ぶつぶつ、と口をつく、今まで、おそらくは最もその言葉の似つかわしい戦場でですら、一度も吐かなかった呪いの言葉。
憎悪した。
この世の全てに憎悪した。
自分自身にも憎悪した。
「殺してやる」
だから、もう全部、ぐちゃぐちゃに、して。ぐっちゃぐっちゃに混ぜっ返して、―――やり直そう。
なか、……無かった、事に、しよう。誰にも、誰にも、気付かれ、ない、ように、しなきゃ。
ふうと息を吐く。
さあ、戦闘開始である。
僕は包丁を無造作に握り、カウンターに飛び乗って、冷めたコーヒーを蹴飛ばす。
おののき悲鳴を上げた彼女に飛びついて、力任せに組み伏せる。
馬乗りで彼女の腕を膝で押さえつける。
それから包丁を逆手に握り直して、ぐんと、振り上げ。
あとはそう降り下ろすだけ。
僕はフッと短く息を次ぎ、そして―――
ぴぴぴ、ぴぴぴ、ぴぴぴ、―――
瞬間流れた携帯の着信音に、体が凍った。
まるで、ひな鳥の泣き声のようなその音に、体が凍った。
その音が、知っている音だったから。
聞き慣れた音だったから。
音に体か頭か、何かが反応した。思考の片隅、砕けた僕の日常がほんのちょっぴり復元される。否応なしに。無意識に。
僕の、とろけた思考が波間に砂の城を築くように、僕が僕である猶予が唐突生まれて、いつかのいつものような、感覚、感情が回路を駆け抜けた。
きっと、アレは思い人からの連絡。そう、あって欲しいと願う僕。
今すぐにでも携帯を確認したい気持ちに陥る僕。
それを僕は、かつて恋と認識していた。
恋とか。愛とか。
“戦争なんて知らない。
クレイドルで、私たちはあんなに幸せだったのに。”
戦争なんて、知らない。
うん。ここが例えばいつもの戦場ならば、すなわちカーソルが赤くなったら引き金を引けばいいだけの話だけれど、でも、そのカーソルが見えないときはどうすればいいのだろう、と、ふと疑問に思った。
あとブレードと包丁って、同じカテゴリかな?
包丁は物理的な刃だけど。
それから、仮にやっつけたとして、その後はどうなるのだろう?
彼女が爆発四散なんて事にはなりそうにもないし、火花を散らして膝を着くとも思えない。
疑問がみるみる増殖する。
そのどれもが、どうでもよく、どうでもよく、どうでもよく。
―――ぴぴぴ、ぴぴぴ、と空気の読めない携帯はまだ泣き叫んでる。
は。ははは、あーもう、気付いちゃったよ。
無理だ。無理だよ。
人は、やっぱり殺せない。
だって、包丁で突き刺したら血とか噴き出しちゃうんだろ。
生々しい感触が手を伝わるんだろ。
それは、耐えられないよ。
僕が今まで、“全てが終わった”その後を、楽しくやってこれたのは、人を殺した経験が“僕の中にない”からだ。
強くないんだって、僕は。
覚悟なんて無いんだって、僕は。
全部ゲームだったんだ。僕にとって。
どうすればいい?どうしたらいいの?
手に包丁。真正面に標的。
しかしそこにカーソルは無い。ロックして赤く色付く事は無い、ミサイル発射ボタンもない。
振り上げたその腕はもはや動かなかった。
標的も僕も生身。
等身大の戦場は、あまりにも重かった。
―――ぴぴぴ、ぴぴ。と、尻切れトンボ。
きっちり十秒間。つまりはメールの着信音。僕の携帯。
そしてその差出人は。
「………ッ」
ノイズが走った。頭の中。
それは、影。人影。
ズキリと、殊更強い頭の痛み。鋭角な痛みを伴うノイズが頭の中を駆ける駆ける。
意識の渦。混濁しきってしっちゃかめっちゃか。
曖昧な感覚。現実と妄想のせめぎ合いで、ここぞとばかりにモノクロ砂嵐がざらざらと流れている。
そして、その中に誰かがいる。人影が、見えるもの。
それは、僕の頭の中だけの、幻想の産物にすぎないけれど、それでも、確かに見えるんだ。
―――響く声。
頭の中に、響く声。
“―――泣くな”
それは、ちょっとお高い口調の、聞き慣れた、忘れられない声である。
………ああそうだ。
思い出した。
思い出したよ。セレンさん。
あの日。
あの日、セレン・ヘイズは言いました。“私が、その穴を埋めるから”と、僕を抱きしめ言いました。
―――嗚呼、僕は。僕は、何を馬鹿な事をしようとしていたのだろう。
僕だって、失くした経験があったはずなのに。
もうとっくに、戦争は終わっている。
その果てに迎えた後日談が今である。
昔に戻る事などもはや許されるはずもなく、しかして殺人が許容されるわけもなく。
僕は、日常を生きる凡人として在りたいし、それが最良の道である事は目に見えている。
もう壊れてる。
それなのに、もっと壊れてどうする。
受け入れるんだ。全部。自分がしてきた事も。置き去りにした事も。蓋をした事も。全部。
それがどんなに痛くって苦しくって辛くって、心に穴が空いてしまっても、僕には、塞いでくれる人がいるから。
視界に色が戻った。
ノイズが消えていく。
意識がはっきりと、僕は今も僕であった。
包丁をカランと落として、馬乗りの彼女から離れる。
今、僕に出来るのは。
よろよろと二歩三歩後退り、カウンターに身を寄せて、正気の頭で精いっぱい考えた。胸に手を当てて考えた。
今、僕に出来るのは、謝る事。
ただそれだけ。
「ごめんなさい」
そして、未だ終らない彼女の戦争を終わらせるためには―――。
―――ぞぶ、と、胸に充てていた左手を貫通してなお、僕に刺さる包丁。
見ればそれは僕が、彼女に突き立てようとした包丁。
柄を握る彼女は泣いていた。
終わらせるためには、受け止めるしか無い。彼女を。
深々と包丁、引き抜かれて、もう一度。
「ぐ」
今度は、じゃくっという感覚が響いた。お腹のド真ん中。
更にもう一度、もう場所は分からない。
じゃぶ―――。
刃を丸々僕の中に刺し込んだまま、丸めた背中で荒く肩を上下させる彼女の、その肩にふと手を置いて、僕は、もう一度謝ろうと喉を震わせる。
けれど、
「ごめ…、な 」
言葉にならない声。声にならない音。
血をごぼっと吐きだして……。
ああ、ダメだ。
もう立ってられない。
クラッとして、尻もちを付くように、カウンターを背にずるずると倒れ込む。
自然引き抜かれる形となったその真っ赤な包丁を握ったまま彼女は、その赤い刃を呆然と眺めて。眺めて。それから。
その刃を、おもむろ、自身の首に当てると。
最後に僕を一度、見下ろして、目を閉じ、涙が流れ、そして。
「…… 」
待って、と、言おうとしたんだ。
けれど、それが届く事は無かった。もう永遠に、届く事はない。
ざく、と彼女の首に包丁がめり込んだ。
「…くぁ…ぁ…」
血がドバドバ流れ出す。
痛々しい声が彼女の口から洩れている。
それでも彼女は、その刃を更に押し込んだ。
押し込んで、血がバシャッと吹き出して、彼女はその場にごとりと崩れ落ちて、ぴくんと痙攣。
やがて。
動かなくなった。
その全てを、僕は、見ていた。
人が生々しく死に絶える瞬間を、僕は見ていた。
初めて、人が事切れる瞬間を、見た。生で。この目で。直に。
―――ふと、また、涙が流れた。
いつかこんな日が来るだろうとは思っていた。
過去に殺される日が来るのだろうとは思っていたんだ。
けれど、まさかこんな形になるなんていうのは、流石に予想していなかったよ。
こんな結末が待っていようとは、思いもよらなかったよ。
もはや僕の血なのか彼女の血なのかも分からない、赤く塗り替わったフローリングの上。
横たわる人、二人。加害者と被害者。被害者と加害者。
ああなんて、―――苦しい。
そうして。
僕の意識はゆっくりと、うつろに、深々、まるで霧がかかる、みたいに、薄れていった。
/
「ただいまー」
私が帰宅した時、家には鍵がかかっていた。
あいつが喫茶店を始めてからというもの、別段珍しくもなくなったが、つまりそれは家には誰もいないという事である。
であれば、ただいまの挨拶はそもそも必要ない。ないがそれでも私は言っていた。返事は当然なかった。
とりわけ今日は早く帰ってきたというわけではない。
むしろ普段より幾分遅い帰宅となってしまった事もあって、あいつの事だからてっきり夕飯でもこさえて、間抜けなエプロン姿でふざけた出迎えをしてくれるのだろうと、少しだけ期待じみた予測をしていた自分が少々恥ずかしく、加えてその軽い肩透かしに気が晴れない。
ふと。ため息が漏れた。
きっとまだ喫茶店の方に居るのだろうと、私は一人がっかりする。
―――って、いや違うだろ。
そんながっかりする必要なんてないはずだ。
額に手を当てながら頭を軽く左右に振る。
遅くなるとの連絡は受けていないが、まあ、そのうち帰ってくるさと、リビングのソファーに身を沈めて三秒。
気紛れに携帯をパカッと開いて“早く帰って来い”と打とうとし、最後の“来い”の字がなぜか“恋”に変換された携帯にイラついて、結局空メールを送っておいた。
それから、なんとなく居心地悪くて、立ち上がり際に横目で時計を。
結構な遅い時間。腹の空き具合。などなどを考慮してポンと手を打つ。
そうして私は台所へと向かい、冷蔵庫を開き中を物色するもこれといってめぼしいものには出会えず、ちょっとだけ不機嫌にバタンと冷蔵庫を閉じて、ふと冷蔵庫の上に置かれた小麦粉が目に付きピンときたのが、今より数えてちょうど一時間前の事である。
チン―――と、後ろで響く鈴の音。
先ほどより、辺り一帯立ち込めるバターと小麦の香ばしい匂い。
翻って私はオーブンの扉を開けて、鍋掴みを両手に嵌めながら中から鉄板を取り出した。
黒の鉄板にはこんがり狐色に焼き上がった、一口大の小麦の塊が等間隔で鎮座している。
香りの元は正にこれだった。所謂クッキーである。
出来は上々で、あいつの焼いたそれに比べれば流石に味も落ちるだろうが、それでも中々と言えるだろう。
何せ私はお菓子類は作った事が無いのだ。見よう見まねでこの出来なら申し分はないと思う。
ところで、まあるいお月さまのようなクッキーの整列に混る一つだけのハート形は、型を抜く際の生地の余分が、ちょうどハートの型抜きに量的に合致しただけの事であってそれ以外に他意はない。
ので、私はそのハート型のクッキーを摘まんで齧る。
サク―――と歯ごたえ。
ハート形のクッキーは綺麗に半分に割れた。
ふむ。と一人、さくさくと口を動かしながら頷いた。
その味はというと。
「……苦いな」
―――早く帰ってこないかな。
なんて、そんな事を思った。片割れのハートを眺めながら。
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