Written by ウィル
「――おじさん、だれ?」
その時のわたしの第一声は、そんな無遠慮な言葉だった。
今にして思えば、随分と無礼な物言いだったとは思うが、でも無理もなかったかな、とも思う。
看護婦さんたちから盗み聞いた“企業”からの迎えや“リンクス”という言葉に、わたしはてっきり軍人然とした立派な姿を連想していた。少なくとも、今までわたしがテレビや本などで見てきたリンクスという人たちは、だいたいがそんな感じだったから。
例えば、以前雑誌で見たBFFというところの一番偉いリンクスというのは、意外な事にまだ若い女の人だったのだが、長い黒髪と切れ長の目が印象的な美人だった。黒くて格好いい軍服をばっちりと着こなし、如何にも気が強そうな雰囲気で、年上の記者が相手でも物怖じするどころか、終始上から目線で話していたのが記憶に残っている。それ以外だと、ローゼンタールというところのリンクスは、金モール付きの白い軍服を着た、いかにも王子様然としたハンサムな顔立ちをした若い男性だったし、レイレナードというところのトップリンクスはそれとは対照的な、如何にも軍人然とした厳つい雰囲気の壮年の男性だった。
……ああ。でも、そういえば。インテリオルというところのリンクスだった、まだ十三歳だという女の子は、テレビでインタビューを受けていた時、普通の白いワンピースを着ていたような気がする。ウェーブがかったライトブラウンの髪に明るい茶色の瞳が印象的な、まるで映画のお姫様みたいな綺麗な娘で、パックスの理念がどうの、戦争の虚しさがどうのと熱意をもって語っていて。わたしとそこまで歳が変わらないのに、よくもあれだけ立派に考えられるものだと、当時は憧れたりもしたものだった。
ともあれ、少なくともかつてのわたしにとっては、リンクスというのはそういう人たちだった。老いも若いも、男も女も、皆が立派な服を着て、立派な言葉で世界を語っていて。皆が強い意志や自信を持ち、生気がみなぎった顔をして、わたしたちとは別世界の人間のようで。
……それなのに、こちらの返事も待たずに病室のドアを開けてきた、その男の人は。
背が高くて大柄で、鍛えられた体格に厳つい顔つきをしてはいたけれど、角刈りにした黒髪やサングラスはともかくとして、暗い赤色をした革のジャンパーに大昔の革命家の顔がペイントされたTシャツ、インディゴのGパンに使い込まれた革のブーツを履いていて。どこかのメーカーのロゴやセクシーなイラストといった、いろんな絵柄のシールがべたべたと貼られた、ぼろぼろのギターケースを背負った姿は、どう見ても軍人のようには見えなかった。良くてヒッピーかミュージシャン崩れ。それもいい年をした、という但し書きがつくような、そんな人だった。
病室のドアの前でさも狭そうに立っていたその人は、わたしの言葉を聞いても気を悪くする風でもなく、ひょい、と厳つい肩をすくめて、低くて渋めの声で返してきた。
「おいおい。おじさんはないだろう、お嬢ちゃん? 俺はまだ三十代前半なんだ。せめてお兄さん、って呼んでくれないかな?」
……いや、そんなコトを言われても、と思った。わたしのような子供の目から見れば、二十代だって十分おじさんに見える。第一、三十代前半って言えばわたしのおとうさんと同じ位じゃないか。それなのに「お兄さんと呼んでくれ」だなんて、無茶を言うにも程があるというものだ。
そうしてこちらの返事を待たずに、そのおじさんはずかずかと足音を立てて入ってくると、入り口の脇にあるスイッチを押して、天井の照明をつける。そうして明るくなった病室で、ベッドに座っていたわたしの姿を――生傷だらけで、至る所に包帯を巻いた姿を見て、それまで笑みを浮かべていた口元が引き締まる。サングラスを外した柔和な目が、何処か痛ましそうに細められるのを見て、わたしの小さな胸の中で、何か黒いものがざわつくのを感じていた。
――何も。何も知らないクセに。
でも、それもほんの数秒の事。表情を戻したおじさんは悠然とこちらに歩み寄って、ベッドの脇にまで来ると、こちらに目線を合わせるかのようにしゃがみ込んできた。空の青を思わせる淡いブルーの瞳が、まっすぐにこちらを覗き込んで、
「ええっと、君がメイ・■■■■ちゃん……でいいのかな?」
わたしの名前を呼んだ。もう誰も呼んでくれなくなった、わたしの本当の名前を。
わたしが小さく頷くと、おじさんは厳つい顔を破顔させる。いい歳した大人のくせに、まるで子供みたいに笑うのだな、とわたしが思ったのも束の間、おじさんは自分の厚い胸板に右手を当てて、自己紹介をしてきた。
「俺はローガンって言うんだ。ローガン・D・グリンフィールド。仲間内からはローディーって呼ばれてる。どっちでも、お嬢ちゃんの好きなように呼んでくれていいぞ」
それをわたしは、さして興味もなく聞いていた。実際、何の関心もなかったと言っていい。自分の行き先を決めるかもしれない相手だというのに。
……ああ、いや、違うな。きっと自分の事だからこそ、何の関心も抱かなかったのだ。どうせこんな悪い子で、汚れきったわたしだもの。きっとロクな事にはならないだろうって思っていたのだ。だからなのだろう、その時のわたしにしては精一杯の反抗心でもって、答えてやった。
「……名前なんてどうでもいいよ。おじさん、“企業”のリンクスさんなんでしょう?」
わたしの言葉に、おじさんの目つきが鋭くなる。ほら見ろ、やっぱり隠してるつもりだったんだ。
「……ああ、そうだ。いったい、誰から聞いたんだい?」
きっと、子供のわたしに自分の正体を言い当てられるとは思ってもいなかったのだろう。硬い声で訊いてくるおじさんに、わたしはあっさりと「ここの看護婦さん。こっちにも聞こえる声で噂話してたよ」と白状していた。そうして、
「わたしを連れていくために来たんでしょう? わたしも……リンクスだから。おかあさんや街の人たちを殺したのと、同じ」
一か月前、ここに来た直後に分かったコトだ。そしてそれ以来、わたしを取り巻くものが一斉に変わってしまっていた。……どう考えても、悪い方に。あれ以来、あれだけ優しかった街の人たちは、みんなわたしを人間扱いしなくなった。大人たちはもちろん、同じ子供たちでさえも。病院の人だって表向きの顔こそあれど、同じように思っているのは明らかだった。
――同じ空気を吸ってると思うだけで、虫唾が走る。
少し前に聞いた、看護婦さんの悪意に満ちた声を思い出し、スマイリーマークの髪飾りを握った手に、我知らず力が籠る。
「子供の前で、何て事を……。ったく、これだから田舎の連中は……」
そんなわたしの様子を知ってか知らずか、おじさんは頭を抱えて苦々しく呟いた。そうして数秒ほどがりがりと髪の毛を掻いた後、慎重に言葉を選んでいるかのような様子で、ゆっくりと口を開いていく。
「……そうだな、お嬢ちゃんの言う通りだ。俺は“企業”の、GAのリンクスで、本社から命令を受けて、迎えに来たんだ。俺と同じリンクスであるお嬢ちゃんを、な。……で、どうなんだい? 俺と一緒に、GAに来てくれるのかな?」
その問いに、わたしは数秒ほど考えてから、ゆっくりと首を横に振った。
「ううん……わたしはここにいる……。リンクスになんて、なりたくない……」
今のこの世界で、リンクスになるという事。それは、最強の兵器“ネクスト”を駆って、誰かを殺すという事だ。
――あの漆黒の異形のパイロットのように。数えきれないくらいたくさんの人たちを、殺さなくてはいけないのだ。わたしの目の前でバラバラになった、おかあさんみたいにして。
それを受け入れられる自信は、その時のわたしにはなかったから。
「そうか……。まあ、そうだろうな」
わたしの返事に、おじさんがふう、とため息をつく。そうして、
「だってあんな事があったばかりだもんな。そして何より、ここには君のお父さんだっている。お父さんと別れたい子供なんて、居るわけないもんな。……でもな、お嬢ちゃん。こっちはちゃんと、君のお父さんの承諾を得て――」
「……あの人のコトは言わないで!」
なおも言いつのろうとした言葉を、つい強い口調で遮ってしまっていた。
「あの人は関係ないの……あの人はもう、わたしのおとうさんなんかじゃ……」
俯き、自分に言い聞かせるかのように声に出す。
わたしはおとうさんにとって、大事なおかあさんを死なせた、悪い子だから。
だから街の人たちやあいつらがわたしを傷つけても、助けようともしてくれなくて。
そうしてもういらなくなったわたしを、このおじさんのところに大金で売りつけたのだ。
……そう思い知ったはずなのに。もう期待も失望もするまいと思っていたはずなのに。何でわたしはこんな、今にも泣き出しそうな声を出しているのだろう?
そんなわたしをじっと見つめていたおじさんは、ふう、とため息をつくと、
「……そうか。じゃあ、これ以上この話は言わないでおくとしよう」
あっさりと自分から引いていた。彼にとって、仕事の上で大事な話だっただろうに。彼が本当に企業のリンクスなら、企業からの命令に逆らえるはずがないのに。それなのに、そんな簡単に自分から止めていいのだろうか。むしろ聞いていたわたしのほうが「……え?」と疑問の声を上げていたほどだ。
おじさんは、どっこいしょ、と年寄り臭い声を上げて姿勢を崩し、床の上に直接あぐらをかくと、
「じゃあ、お兄さんと話をしよう。どんな話がいい?」
なんてコトを言ってきた。
その言葉に、むしろわたしのほうが戸惑っていた。向こうの誘いを断った相手に、怒ったり罵声を向けるでもなく、むしろそれが当然とばかりに受け止め、あまつさえそんな下手に出るような事まで言ってきたのだ。ただの……ではないかもしれないが、自分よりもずっと小さな子供を相手にして。
その事を恐る恐る聞いてみると、おじさんはむしろあっけらかんとした顔で、
「だって、まだ会ったばかりの相手なんだぜ? 断られるのも当然さ。むしろ、自分からリンクスになりたいとか、リンクスになって復讐したいとか言ってくるヤツだったらどうしようかって、内心で思っていたくらいさ」
なんて平然と言ってくる。それで余計に混乱した。最初からこちらを見下してくる相手や、表面上だけ取り繕った相手、直接的に悪意を向けてくる相手ならば、むしろ慣れている。この一ヶ月で見てきた大人たちはそんなのばかりだったし、手を上げられるのにだってもう怯える事はない。聞くに堪えない罵声や直接的な暴力も、あのおぞましい行為にだって、もう慣れた。慣れてしまった。
……それなのに、この人は。
そんな大人たちとは全然違う。見ず知らずの相手のくせに、今まで会った誰よりも――それこそ死んだおかあさんや、かつてのおとうさんみたいに、真摯にこちらの身を案じているように感じさせる。会ったばかりの相手にそんな事をするような人間なんて、居るわけがないというのに。
――食えない人。それが、わたしがこのローガンという人物に抱いた第一印象だった。
そんなこちらの内心をよそに、おじさんは飄々とした雰囲気のまま、
「まあ、仮にお嬢ちゃんがリンクスにならないとしても、だ。この広い世界でせっかく出会った相手なんだ。話ぐらいしてくれてもいいだろう? ……ほら」
そう言って、右の掌を差し出してくる。わたしの手の倍くらいはありそうな、武骨な掌。それにおずおずと右手を差し出すと、大きな掌がこちらのそれを包み込むかのように握ってくる。暖かいというよりも熱い体温が、わたしの中の凍えきった何かを溶かしていくようで――怖くなってとっさに退こうとした手を、しかしおじさんは離してはくれなかった。握ったままの掌を、ゆっくりと上下に振っていく。体ごと引っ張られたわたしの上半身が、おじさんのほうにつんのめる。肩が引っこ抜けそうな、でも実際にはごく優しい力でもってなされたそれが、いわゆるシェイクハンドだと理解したのは、それを十回ほど繰り返した後の事だった。
「な? これでもう俺たちは友達だ。そうなった以上は、俺は何があってもお嬢ちゃんの事を守ってやるつもりだ。なにしろ、俺の大事な友達なんだからな」
そうして、わたしの手をしっかりと握りながら、おじさんは自分に言い聞かせるように話していった。少なくともその声色に、手を伝わってくる心音に嘘偽りは感じられず、しかしだからこそ、その時のわたしにとっては信じ難くもあった。
「友達……? 守る……?」
オウム返しに聞いた単語を口にする。それに、おじさんは真摯な顔で頷くと、
「ああ、そうだ。友達だ。だから、守ってやるとも。お兄さんの命に懸けて、な」
ほどいた掌をこちらに見せて、一言一言を噛みしめるように言う。それが彼の出身地での宣誓のポーズだと知ったのは、それからしばらく経った後の事である。
「それに、だ、もしもお嬢ちゃんの気が変わって、リンクスになるって言ってくれたとしたら、なおさらだ。俺とお嬢ちゃんは命を懸けた戦友――仲間同士って事になるんだからな。だったらなおさら、相手の事を知っておきたいと思うのは当然だろう?」
「仲間……? わたしが……?」
再びオウム返しをしたわたしに、おじさんは力強く頷くと、
「ああ。そうさ。俺たちは、言うなれば運命共同体。互いに頼り、互いに庇い合い、互いに助け合う。一人が仲間の為に、仲間が一人の為に。だからこそ戦場で生きられる。仲間は兄弟、仲間は家族……ってな」
そう言って、再び自分自身に言い聞かせるかのように話していく。
きっとどこかで聞いたような、ごくありふれたフレーズ。アニメにでも出てきそうな、ありきたりで歯の浮くような文句。でもそれは、きっとありきたりだからこそ、誰にとっても大事な価値観なのだとも思えた。
「兄弟……? 家族……? わたしも、そうなれるの?」
思わず、そんなコトを問い返していた。
兄弟というものは持った事がないから分からないけど、家族というものがいかに大事で尊いものだったというのは、それを失った今だからこそ痛感できていた。もしも今からでも本当に誰かとそうなれるのだとしたら、それはどんなに――
「ああ、そうとも。だから――ああ、いや、違うな。今日はもうその話はしないって決めたんだった。済まんな、野暮な事を話してしまって」
そうして、おじさんは自分の頭を、ごつん、と叩いた。その仕草がなんだかおかしくて、今まできつく閉ざしていた口の端が、ふっ、と緩むのを感じた。すると、
「……ん? お嬢ちゃん、ひょっとして今、笑ったのか?」
おじさんが真顔でそんなコトを言ってきて、それに思わず、
「……何でもない。気のせいでしょ」
と真顔で返していた。おじさんはなおも「気のせいかなぁ……今、確かに……」と呟いていたが、しばらくして気を取り直したようで、
「まあ、なんだ。とりあえず俺の身の上話でもしようか。なに、深く考えずに、体のいい暇潰しとでも思って、聞いたり話したりしてくれればいいさ」
と言って、再び口を開き始めていった。
とはいえ、話といっても、こちらから話す事なんて何もない。ただただおじさんのほうから一方的に話しかけてくるだけだった。
おじさんと仲が悪かった家族の事。好きだった音楽の事。おじさん曰くクソッタレな学園生活の事。生活のために入ったという“企業”の事。辛かった軍隊生活の事。国家解体戦争の時の事。リンクスになった経緯と、その時に世話になった恩師の事。
それから、おじさんが言うところの“仲間”の事。いつも口うるさくああだこうだ言ってくる先輩の事。お調子者で女好きな同僚の事。そして、いつも何かと突っかかってくる、理屈っぽくて頑固で生意気な、でも信心深くて心優しい女の子の事とか、そんな話を。
わたしの知らない人たちの話なんてされてもよく分からなかったし、正直、面白くもなんともなかったが、それでもおじさんがその人たちのコトを大事に思っているんだろうなぁ、という事だけは察しがついていた。だから、わたしは何時間にもおよぶ長話にも何とか耐えていたのだ。……あるいは、単に会話というものに飢えていただけなのかもしれないけど。
そうして、気がつけばもう日も暮れていた。西の空に陽が落ちていき、立ち並ぶビルの群れが、玉ねぎを思わせる巨大な神殿の屋根が黒い影絵となってオレンジ色の空に浮かんでいく。何時しかわたしはおじさんの長話を話半分に聞きながら、沈みゆく夕陽をじっと眺めていた。すると、
「……おっと、もうこんな時間か。こんな遅くまで済まなかったな。じゃあな、また明日来るよ」
そう言って、おじさんが立ち上がった。よっこらせ、とまた年寄り臭い掛け声とともに立ち上がり、下ろしていたギターケースを肩に担ぐ。そうして、こちらに向けて右手を上げ、踵を返そうとして――
「……お嬢ちゃん?」
途中でその足を止めていた。わたしが、ギターケースをぶら下げている紐を掴んで、離さなかったからだ。
「……そのギター。まだ、聞いてない……」
下から睨むようにおじさんを見上げて、呟く。こんなふうに如何にもミュージシャンっぽい恰好をして、これ見よがしにギターケースなんぞぶら下げておいて、何も弾かずに帰るのはいくらなんでもちょっとないんじゃないの、と思ったのだ。すると、おじさんは嫌がるどころか、むしろよくぞ言ってくれましたと言わんばかりの笑顔でもって、
「え、本当に? お嬢ちゃん、俺の歌聞いてくれるってのかい!?」
嬉々とした声で聞いてくる。それに、むしろこっちのほうが戸惑って「う、うん……」と答えていた。そうして、おじさんは本当に嬉しそうな顔で、古びたギターケースを開け、ぼろぼろになった赤いギターを取り出していた。そのギターは本当に使い古されていて、塗装の禿げや傷が至る所にあったり、ネックの部分に折れて修繕した跡があったりして、本当に弾けるのかなと思ったほどだ。とはいえ、ボロい外見の割に十分な手入れがされているようではあったけれど。
「いや~、お嬢ちゃんがそう言ってくれて本当に良かったよ。なにしろエンリケもユナイトも、メノのやつでさえも、誰も彼も一回聞いただけで、二度と聞こうとはしてくれなかったからな~」
「そ、そうなの……?」
何気に酷い言われようなのをにこやかに言ってくるおじさんに、思わず引き気味に返す。止めておけばよかったかな、と後悔の念が沸き立ってくるも、その時には既におじさんはギターを担ぎ終え、準備万端となっていた。
「じゃあ、いくぞ。あー、あ-……あ~、あ~♪」
そうして、おじさんは僅かばかりの発声練習の後、大きな声で歌い出していた。太い指が、ギターの弦をめちゃくちゃに掻き鳴らしていき、
「♪No more cry boy, cry time struck to you. No more cry boy♪」
不意にイヤな予感がして、とっさに両耳を押さえていたのが功を奏した。あまりにも音程が外れた、壊滅的なほどにバラバラの、いっそ音の暴力と言ってもいいレベルの怪音の奔流が病室を埋め尽くしていたのだ。
カーテンが揺れ動き、窓ガラスがびりびりと震える。サイドテーブルに積んであった本の山が崩れ落ちて、何処か遠くでガラスが割れるような音と、誰かの悲鳴が聞こえてきた。
「♪Shining get for you again! Shall I to coming out? Shining get for you again! Shall I to coming out♪」
ここだけ嵐の中のようになった病室の中で、おじさんはなおも音程が大外れの歌声を上げながら、爆音じみた極低音を掻き鳴らしていく。まるで昔読んだ何処かのカートゥーンに出てくる、音痴のガキ大将みたいだ。
せっかくミュージシャンみたいな恰好をしてるくせに、その演奏は子供の耳からしても恐ろしく下手くそで、いっそギターの弾き方なんて知らないわたしのほうが、よっぽどマシな音を出せるんじゃないかとすら思えてきて――
「……ぷっ」
思わず吹き出していた。横隔膜のあたりが震えて、とてもじゃないけど我慢できない。わたしはお腹を抱えて、けらけらと笑い続けた。
「……なんだよ、笑う事ないだろう? ……っていうか、お嬢ちゃん、やっぱりちゃんと笑えたんじゃないか……」
「……ふふっ、ごめんね……。でも、ふふ……だって……」
演奏を中断し、非難めいた言葉を口にするおじさんに、謝りながらも笑い転げていく。そんなわたしを見て、おじさんの口角も心なしか上がっていき、それに釣られるようにして、わたしの笑い声も少しずつ大きくなっていった。心なしか、目尻のあたりに何か暖かいものが浮かんできて、それは頬を伝って手元に落ちていって、
「おじさん……ふふ。あまりにも……ぷっ……下手くそ……すぎて……ふふっ」
……思えば、あの日から一か月間あまりの間、あまりにも辛いコトがありすぎて。
だから、笑う、なんてコトは、今までずっとしてこなかったな――と、今更のように思い出していた。
ACfA Smiley Sunshine
Episode5:Order match(前編)
七月三日、午前九時三十分。旧イギリス領、コロニー・ロンドン西部。ロンドン・ヒースロー世界空港にて。
「いや~! やっぱ太平洋と比べて、大西洋は渡るの早いわね~!」
空港のロビーから出て、夏空の下に広がる古びた街並みを眺めながら、わたしはそんな事を呟いていた。
朝早くに北米東部にあるゼクステスク世界空港を超音速旅客機で発って、ほんの三時間時間程度。いつものネクスト用輸送ヘリではないため、機内は静粛であり、高速で過ぎ去っていく海上の景色も最高。離着陸の時の急速な加減速なんかは、ちょっとしたジェットコースター気分である。
服装もネクスト用の耐Gスーツではなく、私服である白のワンピースにリボンをあしらった帽子というお洒落な恰好で、小さめのキャリーケース片手に移動なものだから、気分はちょっとした小旅行モード。これで、用件が仕事絡みじゃなければ最高なのだが――
「……あら? ひょっとして私はお邪魔だったかしら?」
後ろからやって来たオペレーターのフランさんが、ひょい、と顔を覗かせつつそんな事を言ってくる。ちなみに彼女の方は、いつも通りの紺色のスーツ姿である。
「ううん、そんなコトないって! いつも頼りにしてるわよ、フランさん♪」
「はいはい。煽てても何も出ないわよ」
こちらのゴマすりを軽く受け流しつつ、フランさんはタクシー乗り場へ向けて歩道を歩いていく。それを追って、わたしもキャリーケースをがらがら鳴らしながら歩き出した。
初夏という事もあって天気は良く、ちぎれ雲が浮かぶ東の空から朝の太陽がさんさんと照りつけてくる。空港の近くだからか周囲には高い建物が少なく、太陽の光を受けて輝くロンドンの街並みが広く見渡せていた。
――かつてのイギリス王国の本拠地である、コロニー・ロンドン。
旧イギリス領は長年BFFの本拠地であり、その中心である古都ロンドンは、一時期本社施設が置かれた事もある場所として知られている。
だが、リンクス戦争の際には既にBFF本社が本社施設艦《クイーンズ・ランス》に移転していた事と、重要コロニーに直接攻撃を行った側である旧レイレナード陣営に属していた事もあって、旧イギリス領は致命的な破壊や汚染を受ける事もなかった。そうして、戦後にGAの後ろ盾を得てBFFが復興して以降は、GAグループの欧州における重要な拠点として存在意義を発揮。常に戦火に晒され続ける欧州本土とは異なり、目立った戦乱もなく、“クレイドル体制”の下での繁栄を享受していた。……もっとも、僻地には“アルテリア施設”も存在し、それによる地球規模のコジマ汚染が深刻な問題となってもいるのだが。
「それで、タクシーに乗ってロンドン市街まで移動するとして、まだ時間もあるし、何処かに寄り道していかない? 何処に行く? 大英博物館? オックスフォード・ストリート? それとも、まさかのベイカー街221B?」
タクシー乗り場まで歩きつつ、フランさんに今日これからの予定を聞いてみる。すると、彼女はさも意外そうな顔をして、
「あら、今日は貴女にとって大事な戦いなんじゃなかったの? それなのに、寄り道なんかしてていいのかしら?」
「それはそれ、これはこれ、よ。むしろそういう時だからこそ、気分転換が必要だと思わない?」
こちらがそう言うと、フランさんは口元に手を当てて、考え込む素振りを見せる。
「そういうものかしらねぇ……」
「そういうものなの。で、どうするの? 何処か連れてってくれるの?」
そうして、わたしが目を輝かせて訊ねると、
「でも、残念でした。これからカラード本部に直行よ。次の便で来るカーネル大尉たちを待たせるわけにはいかないから」
フランさんはにっこりとほほ笑みながら、無慈悲にもこちらの計画を初っ端からキャンセルしてきた。
「ええ~!? 時間の余裕があるなら、わたし、ロンドンでいろいろ見てみたいものがあったんだけど! お洋服とか、推理小説とか、本場のイギリス料理とか、いろいろと!」
「ダメよ。日中はスケジュールがいっぱいなんだから。先方の都合というものもあるしね」
「そ、そんな~! フランさんのケチ! いけず! ワーカホリック!」
「はいはい。好きなだけ悪口言ってなさいな」
「ぶーぶー! フランさんってば、話が分からないッ!」
親指を下に向けてブーイングするわたしの声を馬耳東風という感じで聞き流し、フランさんはひたすらに先へと進んでいく。そうして一足先にタクシー乗り場に着くと、手を上げて近くに停めてあったタクシーを呼び寄せる。そうこうしているうちにわたしが追いつくと、フランさんはこちらの耳元に顔を寄せてきて、
「そういうのは夕方にしましょう。楽しみは最後に取っておくものよ、ね?」
と、悪戯っぽく囁いてきた。それに、わたしは顔を喜色一杯にして、
「ホントに!? やったー! フランさんのそういうトコ、大好き!」
キャリーケースを放り出して、フランさんに思いっきり抱き着いてみせる。そうして、満更でもなさそうなフランさんに、なおも甘えた声を出そうとしたところで、
「……あのー、お客さんがた。結局、乗るんですかい? 乗らないんですかい?」
と、聞いた事のない男の声が投げかけられていた。我に返って前を見れば、いつの間にかタクシーが目の前まで来ていて、窓から身を乗り出した運転手が苛立った顔をこちらに向けていて。
「は、はいっ! の、乗りますっ!」
慌ててフランさんから身を剥がし、タクシーの方へ歩み寄る。そんなわたしを、フランさんはくすくすと笑いながら眺めていたのだった。
****
そのタクシーは、何というか、ごくありふれた普通のタクシーだった。
よくそこら辺を走っている、GA製の四人乗りエレカ(電気自動車)を改造したもので、内装や装備もほぼデフォルトの状態。コンソールにあるのはラジオと無線機、そして外付け式のカーナビだけで、シートすらも安っぽい布張りという、客を乗せる車としては質素極まりないものだった。北米でよく乗せてもらっているリムジンとは、何もかも雲泥の差だったが、流石にロンドンにまで来てそんなものを呼ぶわけにもいかない。余計なお金もかかるし、何よりも目立ちすぎてしまうからだ。
「ロンドン中心街の、カラード本部までお願いします」
後部の座席に座りつつ行き先を告げたわたしに、タクシー運転手――紺色の制服を着た、くたびれた雰囲気の中年男性は、さっきの事があったからか、こちらを胡散臭そうな目で見て、
「カラード本部に……? 観光ですかい? それともお仕事で?」
「ええ、まあ。そんなところです」
運転手の問いに、曖昧に答えておく。普通であればそれで納得するところだったが、その運転手は眉間に浮かべたしわをさらに深くして、「ふぅん……ねえ、お客さんがた。おたくら、何処から来なさったね?」と、なおも質問を続けてきた。
それに、わたしが口を開くよりも早く、
「“01”よ」
と、フランさんが短く答えていた。すると、運転手の方も何か得心がいったのか、「あ、“上”から来た方々でしたか。そりゃ失礼」と愛想笑いを返してきた。
フランさんの言った“01”とは、《クレイドル01》の事だ。大空を舞う居住施設である“クレイドル”は、保有する企業ごとに番号が割り振られており、いくつかの高空プラットフォームが固まる事でひとつの群れを形成している。《クレイドル01》はGAが他企業に先駆けて最初に作った高空プラットフォーム群で、だから“01”というわけだ。
きっとこのタクシー運転手からは、わたしとフランさんはGA関係の人間という感じに見られているのだろう。
「いやいや、済みませんね。お客さんがたがリンクスか何かだったらどうしようかと、一瞬考えちゃって。何しろ、行き先がカラード本部なもんで。ま、冷静になってみれば、金持ちのあいつらが、あたしらみたいな普通のタクシーなんて使うはずもないでしたね、はは」
運転手はゆっくりと車を発進させながら、そんな事を言ってくる。それで、わたしの方も得心がいっていた。
(……ああ、なるほど。そういう事か)
基本的に、リンクスは“クレイドル”に住む事はできない。
企業が許可した場合に限り、一時的に滞在する事はできるが、それとてネクストを地上に置いた上での話である。“クレイドル”に居を構えたり、ネクストを持ち込んだりする事は絶対にできないのだ。
それはGAの最高戦力である義父や、一企業のトップである有澤社長であっても例外ではなかった。現にこの二人は頻繁に“クレイドル”を訪れてはいるが、あくまでも出張という扱いであり、普段は地上の住居やGAの地上支社で生活し、地上だけでネクストを運用している。
――たとえどのような身分であろうとも、リンクスは地上に住まうべし。我らが住まう清浄なる空に、決して上げるべからず。
それが“クレイドル体制”が完成してから最初に決められた、企業間の不文律だった。
まあ、そんなワケで、リンクスが“クレイドル”に住む事はなく、よってそちらのほうからやって来る事もない。それは一般人にとっても常識であり、だからこそこの運転手は安心したのだろう。わたしたちが“クレイドル”から来たという事は、即ちわたしたちがリンクスではないという、何よりの証明なのだから。……まあ、“01”から来たという言葉自体、真っ赤な嘘なんだけどね!
向こうが勘違いしてくれたとはいえ、正体をずばり言い当てられた事に内心でどきまぎしながらも、「何で? リンクスだったらむしろ良い客になるんじゃないですか?」と訊いてみる。すると、運転手はあからさまに渋い顔をしながら、
「良かないですよ。だってあいつらの持ってるカネは、この地球を汚染して得たカネなんですから。そんなもん貰って仕事するなんざ、こっちから願い下げってもんです」
なんてコトを平然と言ってきた。当のリンクスが目の前に居るとは知らずに。
「……そう、ですか」
沈む心を押し隠し、当たり障りのない返事をしておく。
――これが、リンクスに対する一般人の本音というヤツだ。今さら反論してどうなるものでもない。
彼らはリンクスという存在そのものについて無知であり、しかしリンクスという存在がもたらした結果に、この世界に起こった出来事についてはよく知っている。
ネクストという最強最悪の機動兵器を動かせる希少な存在。人を人とも思わぬ、鼻持ちならないエリート集団。そして、この星をここまで汚染させ、人類の半数近くを死に至らしめた悪魔のような連中。
それが、彼ら一般人にとってのリンクスというものだ。そこには理解も弁解も、まして同情なんてものが存在する余地など、何処にもなかった。
この運転手が特別なのではない。リンクス以外の人類全てがそうなのだ。この地上に残された人たちも、空の上に住まう幸せな人たちも。そして多分、この世界を支配する老人たちですらも。
そうして、イヤな気分になって俯いていたわたしに、しかし運転手は気づく事なく、さらに話を続けていく。
「そりゃあ、あたしも商売でやってますからね。どんなお客さんが来ても選べやしませんが、それでもあいつらリンクスだけは例外ですよ。もしもこの車に乗ろうものなら、べダル踏んで二十年、この鍛え抜いた脚力でもって、思いっきり蹴り出してやる、ってね! ははは……って、お客さん、どうなすったね?」
そこまで言い切ったところで、ようやくわたしの様子に気づいたのか、運転手がバックミラー越しに怪訝そうに見てくる。そこに、「その話はここまでにしておいてくれる? この子の気分が悪くなるから」と、フランさんが横から口を挟んできた。
「……この子、リンクス戦争で母親を亡くしているの。それも目の前で、ね。ここまで言えば分かるでしょう?」
「あらら……そりゃ失礼。済みませんね、お客さん」
たしなめるようなフランさんの言葉に、運転手が殊勝な返事をする。そうして運転手が黙ると、わたしたちもまた口を開くことはなく、しばしの沈黙が車内を満たしていった。
『♪I make you're alive and kicking in a day. You can make someone feel better. Two pieces of dusts in the air. Let it act to take a long breath♪』
コンソールに埋め込まれたラジオから、ところどころひび割れた女性の歌声が聞こえてくる。そうして車がどんどん街中へと入っていく中、沈黙に耐えかねたのか、運転手が再び口を開いた。
「……そうそう。ここだけの話ですけどね。あたしはリンクスってヤツを生で見た事があるんですよ。それも、一度に二人も。もう十年以上も昔、リンクス戦争が始まる前の事ですけどね」
先程の殊勝な返事は何処へやら、また似たような話題である。流石に顔をしかめたフランさんが何か言おうとしたが、その前に彼女の袖口をくいくいと引っ張り、大丈夫、と目線で伝える。
それでフランさんは引き下がったみたいだったが、一方の運転手はと言えば、そんなこちらの動きに一切気づく事なく、べらべらと一方的にまくし立てていった。
「深夜にロンドンの街中で乗ってきた、二人連れの男でね。一人は二十代くらいの若造で、如何にも育ちの悪そうな雰囲気だったなぁ。逆立てた髪を真っ赤に染めて、耳なんかピアスだらけで、鋲だらけの黒い革ジャンなんか着て……まあ、とにかくおっかなそうなヤツでしたよ。で、もう一人は、三十がらみの細面の男だったかな。暗そうな顔で白衣なんか着てて、一見すると研究者か何かにしか見えない、地味な野郎で。まあ、何にせよ真っ当な客じゃないのは、外見を見ても分かるってもんでして」
十年以上前のロンドン……という事は、旧BFFのリンクスたちだろうか? 当時のリンクスの名前くらいは知ってるけど、流石に顔写真を見たわけじゃないから、外見の特徴だけでそれが誰なのかまでは分からなかった。
「あら? 貴方、リンクスなんて嫌いだって言ってたじゃない。なのに、その時は追い出したりはしなかったの?」
頭を捻るわたしを横目に、フランさんが運転手の話にツッコミを入れる。それに、運転手は自嘲めいた笑みを浮かべて、
「いや、まあ……その頃のリンクスは、人民を抑圧する国家を倒した英雄って扱いでしたからねぇ。だからあたしもその時は、できるだけ愛想よく接していたもんで。……今にして思えば、馬鹿な事したなぁ、なんて気になりますが、ね」
……ああ、なるほど。この運転手のリンクス嫌いの根底には、そういったリンクスに対する憧れと敬意があったのか。それがリンクス戦争であんな事になって、失望から一気に嫌いになった、と。こういうのを東洋のことわざで、何て言ったっけ? 可愛さ余って憎さ千倍返し、だっけ?
「それに、そもそもどうやってその二人がリンクスだと知ったの? 服装が普通と違うからって、それだけの事でその二人がリンクスだと断定するのは、いくら何でも無理があるんじゃないかしら?」
そうして、フランさんがそもそもの疑問を口にする。
本来の意味でのリンクスとは、AMS(アレゴリー・マニピュレイト・システム)の接続に耐えられる頭脳を有している者であり、外見で判断がつくようなものではない。強いて言うならば首筋に接続用のジャックがあるかどうかだが、それにしたって今のわたしがそうしているように髪の毛で隠してしまえば、外からは分からなくなってしまうのだ。
よほどリンクスに詳しい者ならばいざ知らず、一介のタクシー運転手に見分けられるようなものとはとても思えないのだが――
「いやいや! 間違いないですって! 何しろそいつら、自分から『俺たちはリンクスなんだ』なんて言ってきやがったんですから! それも若い方なんか、証拠だとか言って自分の首筋にある接続部まで見せてきて! そこまでする以上は、騙りの類じゃないだろうって思ったんですよ!」
「……ああ、なるほど……」
流石にそんな間の抜けた理由とは思わなかったのか、フランさんがあ然とした声を上げる。その隣で、わたしもまた目を丸くしていた。
何だか時代の変化を感じる話だ。それだけその頃の一般人の、リンクスに対する感情が良かったという事なのだろう。今の時代にそんなコトやったら、冗談抜きで命が危ない。
ぼかんとするわたしたちを尻目に、運転手はなおも昔語りを続けていく。
「でね、そいつらは後ろの席で、バーの女の子の口説き方がどうの、昔の武勇伝がどうの、同僚の女の子の愚痴がどうのって話をしてたんですがね。普通、年上ってのは年下に敬われるもんでしょう? なのにそいつらときたら、若い方が年配の方に偉そうにしてるんですから。若い方なんか先輩風吹かしてふんぞり返って、年配の方まで若い方をさん付けで呼んだりして……まあ、変な連中でしたよ。今考えてもね」
滔々と語られていく、名も知れぬリンクスの昔話。わたしにとってはどうでもいい話にしか思えなかったが、何処かがツボに入ったのか、フランさんが小さく笑う。
「まあ、若い方は良く言えば面倒見がいいってなるんでしょうけど、どっちかというとただの自慢話というか、タチの悪い絡み酒というか、そんな感じで……その時も呆れながら聞いていたもんです。あ、そうそう、若い方は名前らしきもので呼ばれてましたっけね。何て言ったかな……あ、あん……済みませんね、どうにも歳で。思い出せねぇや」
そう言って、運転手は頭を横に振った。フロントガラス越しに信号が赤に変わるのが見え、ゆっくりと車がブレーキをかけていく。そうして完全に停車した車内で、運転手は遠くを見る眼差しを前方に向けて、
「まあ……結局はそいつらも、リンクス戦争でくたばったっていう話らしいんですがね。で、結局生き残ったのは、あの王小龍ただ一人、と。……まったく、けたっくそ悪い話で」
……運転手の言葉通りだった。旧BFFのリンクスたちは六人いたが、“女帝”メアリー・シェリーを始め、その悉くがリンクス戦争で命を落としている。結果として彼らの中でリンクス戦争を生き延びたのは、現BFFの重鎮である王小龍、ただ一人だけだった。
その王小龍のリンクス戦争中の活動には、今もなお謎が多い。その当時から企業の重役という地位にあり、また本人が後方支援に徹していた事もあって、主だった戦いにはほとんど姿を見せていないのだ。それは旧BFF壊滅の直接的な原因である《クイーンズ・ランス》撃沈の時も同様であり、噂では首脳陣を見捨てて逃げ出したとも、単機で救援に向かったものの間に合わなかったとも、そもそも既にGAと内通して裏切っており、オーメル陣営に《クイーンズ・ランス》の所在を教えたのは彼なのだ、とも言われている。
実際のところはどうだったのか、わたしには分からない。調べてみようにもその辺の詳しい経緯は間違いなくトップ・シークレットになっているだろうし、義父やエンリケ部長に聞いてみても、心底不快そうな顔をするだけで教えてくれなかったのだ。……まあ、元々さして興味のない事柄だったので、それ以上の詮索はしなかったけれど。
「そうして、ただ一人生き残ったヤツが、壊滅状態だったBFFを上手い事立て直して、今や実質的なトップになってるってんですからねぇ。いやぁ、本当に世の中ってヤツは訳が分からないもんですよねぇ」
ともあれ、王小龍とその派閥はそういった経緯でもってリンクス戦争を生き残った。彼らは結果として現BFFの最大派閥となったわけだが、王小龍自身は表に出る事はなく、あくまでも旧BFF首脳だったウォルコット家を補佐するという姿勢を堅持した。それは形だけのものである事は明らかだったが、そうする事によって王小龍は現BFF内で民族主義に起因する求心力を得て、かつての資産と軍事インフラ、そして世界各地で散発的な抵抗を続けていた旧BFFの残党を糾合する事に成功。多数派としての勢力と民衆の圧倒的な支持、そして何よりも世界最大の企業であるGAの後ろ盾を背景に、敵対していた旧BFFの守旧派を吸収あるいは叩き潰し、現BFFの内部を急速に統一していったのだ。
そうして、かつてのように強力なリーダーの元で一枚岩となったBFFは、圧倒的な資金力と優れた軍事インフラを背景に、かつてのそれに勝るとも劣らない規模の通常軍やいくつもの大艦隊、そして《スピリット・オブ・マザーウィル》に代表される新たなる戦力を配備。リンクス戦争後にグループ内の統合によって力を増したレオーネ・メカニカ、すなわち現在のインテリオル・ユニオンに次ぐ、欧州第二位の巨大企業として、確固たる地位を築き上げるに至ったというわけなのだが――
「だいたい、どういう御仁なんですかね、あの王小龍っていうのは? あのランクに居るんだから当然強いって言うヤツもいれば、頭でっかちの弱虫だって言うヤツもいる。あの爺さん、実戦にもオーダーマッチにもろくに出てこないらしいじゃないですか。だから、強いのか弱いのか、どっちなのかさっぱり分からないっていう話で」
運転手の言う通り、王小龍というリンクスに関する評価は、現在でも定まっていない。
遠距離攻撃に特化した重四脚型ネクスト《ストリクス・クアドロ》を駆る王小龍は、機体コンセプト通りの狙撃戦を好み、戦場に出た際は常に損傷らしい損傷を負わず、また生きて逃した敵も居ないという、冷徹かつ徹底した戦いぶりで知られている。
その戦術眼と狙撃の腕は、老いてなお相当なものとは言われているが、それも実際はどうだったのかは分からない。戦場での王小龍は常に僚機――存命だった頃のメアリー・シェリーや、現BFFの“王女”であるリリウム・ウォルコットと行動を共にしており、決して単独で戦おうとしなかったからだ。王小龍の存在が二人のリンクスの躍進の一助になったのは間違いないが、彼女たちは戦場における王小龍については黙して語らずを貫いており、彼の本当の実力は、同じGAグループのトップリンクスである義父ですら把握していない。
まあ、実力の真偽はともかくとして、王小龍の公的な戦績はそこまで華々しいものではなかった。出撃回数そのものが、最初期のリンクスとしては極端に少ないからだ。国家解体戦争で活躍した二十六人のリンクス、いわゆる“オリジナル”の中では八位という高位に位置し、現在のカラードランクでも八位という地位には居るものの、それが政治的な実績に起因するであろう事は、王小龍というリンクスを知る者にとっては常識だった。それ故、彼を弁舌や陰謀ばかり得意な、実戦では役立たずの老人と見る者も少なからず居るという。
「……でもねぇ。実際問題、政治家として見れば、あれは大したもんだと思いますよ。崩壊寸前だったBFFをまとめ上げるのみならず、GAとくっつけて、見事に復興させたんですから。そうして今では、押しも押されぬカラードの実質的支配者ってんですからねぇ。大昔のまだ国家があった時代に、独裁者どもが好き勝手に戦争を始めた時が何回かあったそうなんですが、そのたびにこの地に骨のある政治家が表れて、独裁者どもの企みを挫いてみせたもんだって、ガキの頃に授業で聞きましたがね。あの爺さん、案外そういった連中に並び立つ存在なのかも……なんてね! ははは!」
だがその一方で、王小龍はこと政治の分野においては、これ以上はないというほどの功績を残している。
血筋や家柄を重視していたBFFという組織において、出自の怪しい華僑の出でありながら、リンクスであるという一点を武器に成り上がり、重鎮と呼ばれるまでになった。その後のBFFの崩壊と復興については先程語った通りであり、さらに企業連やリンクス管理機構カラードの成立、そして高空プラットフォーム“クレイドル”の設計にも、王小龍は多大な貢献をし、これらの在り様に大きな影響を与えたのだという。
そのため、各企業の首脳陣の王小龍に対する信認は篤く、協力関係にあるGAはもちろんの事、本来敵対関係にあるはずのインテリオルやオーメルですら王小龍個人を表立って攻撃しておらず、むしろ彼と対立するのを避けているような節すらある。そのせいで、王小龍がカラードを事実上私物化していても、それを咎める者は企業内には居ないという酷い有様になってもいるのだが。
そういった意味では、王小龍がこの世界へ与えた影響は極めて大きく、各企業の歴代のトップリンクスはおろか、リンクス戦争における二人のイレギュラー――“アナトリアの傭兵”とジョシュア・オブライエンに勝るとも劣らない、なんて声もあるくらいなのだとか。
「まあ……だからこそ、あの爺さんを嫌いだっていう人も多いんですがね。政敵や恨んでるヤツがいろんな企業に居るって話だし、暗殺者が差し向けられたのも一度や二度どころじゃないっていうし。……それに、爺さんって呼ばれるような歳なのに、妻子が居るかどうかも分からないっていうじゃないですか。元からそんなもの不要だと思っていたのか、それとも真っ先に狙われるから仕方なくなのかは知りませんがねぇ……。いくら偉くなっても、そんなんじゃああまりにも寂しい話ってもんで……」
とはいえ、それだけ政治的に大きな存在となれば、自然と敵も多くなるもの。各企業の意思決定としては敵対したくなくとも、その中の個人がどう思っているのかまでは分からない。各企業の中には王小龍を疎ましく思っている者が居ても不思議ではなく、その中に強硬手段に出た者が居たとしても、また不思議な話ではない。実際、王小龍に対する襲撃や暗殺未遂事件は戦後に何回かあったはずで、だからこそ彼の周囲は常におっかない黒服によって固められているともっぱらの噂だった。
そしてそれは、同じグループであるGAであっても例外ではなく、取締役会の中には王小龍のこれまでの行動や黒い噂、権謀術数を好む性質に眉をひそめる者も多いという。わたしの義父はその代表格と言われていて、策を好まない実直な性格から、作戦会議などでたびたび対立しているのだとか。
そういった経緯から、わたし個人としても王小龍の事はあまり好きではなかった。義父の影響、というだけではない。流石に高齢だし、わたしに対する下心とかはないだろうが、それでもこちらを値踏みするかのような陰険で暗い眼差しは、どうやったって好きになれる類のものではなかったのだ。
とはいえ、実際問題として王小龍という存在がなければ、BFFの急速な復興と発展、そして今日の“クレイドル体制”に代表される企業支配体制の安定は無かっただろうと言われており、それが今日のGAグループにとって多大な利益となっているのは疑いようのない事実である。
今もなお黒い噂が絶えず、“陰謀屋”などと揶揄される王小龍ではあるが、そんな彼が“企業”という大きな力の中で辣腕を振るい続けられているのは、そういった難しい事情があるのだろう。
……まあ、妻子がいないっていうのは初耳だったけど。言われてみれば彼の妻子にまつわる話は聞いた事がなかったし、何よりもあの陰気な顔で、にこやかに家庭を囲む図ってのも想像できな……い、いかん。想像したら、あまりの絵図に、腹筋にダメージが……!
「……それにしても貴方、王小龍という人間に随分とお詳しいのね。リンクスなんて大嫌いみたいな事を言いつつ、あの男に関しては結構同情的みたいだし……もしも本人が聞いたら、感激して泣いちゃうわよ、きっと」
こちらがこっそりとお腹を抱えている隣で、フランさんが感心半分、呆れ半分といった感じで運転手に言葉を投げかける。それに彼は「それは、どうも……」と何やら複雑そうな返事をした後で、ふと思いついたようにうっすらとした緊張を顔に浮かばせて、
「そりゃあ、あの爺さんの事を悪く言うヤツは、このロンドンで生きていけませんからねぇ。そう言うお客さんも随分と詳しそうですが……ひょっとしてお客さん、あの爺さんの知り合いか何かで?」
恐る恐る、といった声色で訊ねてくる。何か知ってそうな口振りに、わたしたちが王小龍の部下か何かだと思ったらしい。だとしたら、わたしたちから自分が喋った話が本人の耳に入って、最悪消されてしまうかも――なんて事を思ったのかもしれない。
しかし、当のフランさんはといえば、小さく肩をすくめて、
「いいえ。あんな大物に知られるような存在じゃないわ、私は。貴方と同じように、ただの仕事上の知識というだけよ。だから、これからあの男に会う事も、今日の事を喋るような事もないわ」
運転手の疑念をあっさりと否定して見せた。そうして、「そ、そうですか……」と彼があからさまな安堵を顔に浮かべたところで、にっこりと笑って、こう付け加えた。
「……ただ、仕事中のお喋りはあまり感心しないわね。あの男が貴方の想像通りの人物だったなら、なおの事よ。キジも鳴かずば、なんとやら……なんて諺もあるくらいだし、ね?」
「……! そ、そいつぁ失礼しました!」
運転手は青い顔でそう返事をするなり、慌てて正面に向き直る。流石にそれ以上世間話をする気はなくなったのか、それきり彼が口を開く事もなく――ふと横を見たところで、フランさんがこちらに向かって小さくウインクをしてくる。
……ああ、なるほど。さっきはわたしが引き止めたので黙っていたけど、フランさんはフランさんであの運転手に思うところがあった、と。それで、ここぞという場面でキツいお灸を据えてやった、というわけなのだろう。
まあ、運転手の長話やデリカシーのなさに閉口していたのはわたしも一緒だったから、ウインクに対してこっそりとサムズアップをして、感謝の意を伝える事にした。
『♪Let it go around the cosmos, Over the pain. Let it go around the cosmos, Over the pain♪』
そうして、ようやく静かになった車内で、わたしは窓の外に視線をやった。旧イギリス王国の象徴だった巨大な時計塔を横目に大きな橋を渡り、交差点を右へ。そのまま川縁を進んでいき、迷彩模様の古い巡洋艦の脇を通り過ぎ、ビルが建ち並ぶ街中へと入っていって――
「……っと。着きましたぜ、お客さんがた」
そうして、それから数分後。ビル街の一角にある大きな建物の前で、わたしたちが乗ったタクシーは停車していた。
ゴシック様式、とでも言うのだろうか。ヨーロッパの宮殿を思わせる、華美かつ立派な建造物で、本棟の階層はせいぜい十階建てくらいだが、その代わりに横に大きく広がった造りになっていて、高く尖った屋根やところどころに建った尖塔と相まって、非常にボリュームがある外見になっている。それを取り囲むのは高くて頑丈そうな塀と、いくつもビルが建てられるのではないかというくらいに広大な敷地に敷き詰められた壮麗な庭園であり、青々とした芝生や綺麗に刈られた生け垣、立派に生い茂った庭木の数々が、まるで数世紀前の王朝文化華やかなりし頃に戻ったかのように錯覚させてくる。
そのような建物と庭園が、ビル街の中に堂々と存在しているのだ。ずっと高いビルに囲まれてはいるが、逆に周りのビル街を圧倒し、自身の付属物としているかのような、そんな気さえしてくるくらいだ。
この建物こそ、わたしたちリンクスを管理する組織である、リンクス管理機構“カラード”の本部だ。
元々は旧BFFの本社だった建物で、本社施設が《クイーンズ・ランス》に移転してからは半ば放棄されていたという。だが、リンクス戦争時に《クイーンズ・ランス》が沈み、GAの支援の下で新生BFFが立ち上げられてからは、再びBFFの本社として返り咲いたという経緯がある。
そうして世が“クレイドル体制”に移り変わり、BFFの本社施設が空の上に移ってからは、新たに立ち上げられたリンクス管理機構の庁舎として再利用され、本日に至っているというわけだ。それにはカラードに強い影響力を持つ王小龍の意向が強く働いたと言われているが、同時に一定の利便性があったからでもある。その理由は、また後程に。
「う、う~ん……! あ~、久々に車乗るとやっぱ疲れるわー……っと」
タクシーを降りて、軽く体を伸ばす。そうこうしているうちに支払いを終えたフランさんも車外に出てきて、
「じゃあ、私は受付でいろいろと手続きをしているわ。それが終わったら端末に連絡を入れるから、それまでの間、適当にぶらついていて良いわよ」
「は~い」
返事をしつつ、トランクからキャリーケースを取り出す。そうして、タクシーの中から胡乱げにわたしたちを見つめてくる運転手に会釈をしてから、カラード本部の入口へ向けて踵を返し、
「……私は近くで見ている事しかできないけれど、応援しているわ。今日の戦い、頑張ってね」
すれ違いざまに、フランさんがそんな事を言ってくる。それに、
「りょーかい! まあ、任せておいてよ!」
親指を上に向けてびしっと立てつつ、とびっきりの笑顔で答える。そうして、がらがらと音を立てるキャリーケースを引っ張りながら、わたしは庭園へ通じる門を潜り――リンクスたちの陰謀渦巻く、現代の魔窟へと足を踏み入れていったのだった。
****
――あの夜、《スピリット・オブ・マザーウィル》撃沈の報を聞いてから、一週間近くが経過していた。
そういう風に言うと何事もなかったかのように思えるかもしれないが、実際は本当に大変だったのだ。何しろ、あの《スピリット・オブ・マザーウィル》である。あの機体は長年に渡って中央アジアにおけるGA・BFF勢力の中核を担っていた存在であり、その広大な射程距離による支援砲撃だけでなく、多数のノーマルを運用・整備する拠点としても用いられていた。《マザーウィル》それ自体が一つの基地、一つのコロニーに匹敵するとさえ言ってもいい位だったのだ。そんなものが、たった一機のネクスト戦力によって、呆気なく壊滅してしまったのだから。
その戦略的空白の穴埋めのため、GAは南アジア攻略を担っていた新鋭アームズフォートの《グレートウォール》を始め、アジア各地に展開していた《ランドクラブ》や《ギガベース》などのアームズフォート群の配置転換を迫られる事になった。当然、そのしわ寄せは通常軍だけでなく、GAの所属リンクスであるわたしたちにも来ていて、この数日間、ネクストに乗って各地を駆け回る羽目になっていたというワケだ。
幸いな事に、敵方であるオーメルやアルゼブラの方も急な事態に混乱していたのか、結局戦闘らしい戦闘こそ起こらなかったものの、それでも常時ネクストに接続しっぱなしである。リンクスたちの精神的な疲労は避けられないし、特にわたしは所属リンクスの中でも若い方だからか、義父やドンたちよりもより積極的に各地を移動させられていて、それこそ休む暇もないという位だったのだ。
流石に一昨日くらいには戦況も落ち着いてきて、こうやってカラード本部にやって来れる程度にはなったものの、それでもここ数日は本当に忙しくて。そのおかげで、義父との買い物どころか、この一週間近くは学校にすら行けていないという有様で、だから昨日は出れなかった分の授業の復習やら何やらで、大忙しだったりする。……くそぅ、ダンのヤツめ。いくら無関係の独立傭兵だからって、わたしがあんなにも忙しかったのに手伝いにも来ないなんて、なんて薄情なヤツなのだろうかっ!
……とまあ、そんなこんなでわたしがてんてこ舞いだった一方で、件のリンクス――すなわち《ストレイド》のリンクスは、多方面から一気に注目を集める事となった。
何しろ、十年近くもの間、誰にも撃破できなかった《スピリット・オブ・マザーウィル》を単機で撃破したのだから。それも、いくら弱小とはいえ護衛のネクストをも一緒に撃破するというおまけ付きで。
そうなれば、いくら経験の浅い新人リンクスだろうと、企業が放っておくはずがない。《ストレイド》のリンクスにはいろんな企業からの問い合わせや、専属契約の申し出が殺到したという。そしてそれは企業だけでなくカラードのリンクスたちにとっても同様で、多数のリンクスから対戦の申し込みが出され、それらのせいでカラード本部の機能が一時マヒする、なんていう珍事すら起こったのだとか。
カラードですらそんな有様である。被害の当事者だったGAやBFFの前線兵たちの混乱と怒りは相当なもので、《ストレイド》のリンクスは彼らからいろいろな渾名をつけられるに至っていた。曰く、BFFの天敵とか、AF(アームズフォート)キラーとか。酷いのになると、ゴビ砂漠の狂犬とか、マザーフ●ッカーとか。
……いろいろな意味で無茶苦茶な言われようだが、それだけ《スピリット・オブ・マザーウィル》という存在が、BFFやGAグループにとっては大きな精神的支柱であったという事なのだろう。実際、ここまでたくさんの渾名が同一のリンクスにつけられたのは、あのウィン・D・ファンション以来であり、つまり《ストレイド》のリンクスがそれだけ前線兵たちから恐れられているという事でもあった。
(……まあ、そこまでは良いんだけど。いや、ホントはGA的に全然良くないんだけど、わたし的にはオッケーですって事で。……ただ、ねぇ……)
カラード本部内の通路をてくてくと歩きつつ、わたしはそんな事を考えていた。
わたしにとって気になったのは、その後の《ストレイド》のリンクスの動向だった。他の企業の専属となるのかという事ではない。それ位は本人の自由意志の問題だし、仮にGAと敵対したとしても、それはそれで、というヤツだ。そんな事よりもわたしが気にしているのはただ一点。《ストレイド》のリンクスが、この一週間近くもの間、何の仕事も請け負っていないという事だった。
リンクスというのは、基本的に過酷な仕事ではある。実際に戦場で命を懸けるというだけでなく、AMSの精神負荷やコジマ汚染に晒されるリスクがあるためで、そのせいでリンクスは短命だというのが昔は通説だった位だ。とはいえ、義父のように割と長生きする例が出てきているのと、適切な対策とケアさえ怠らなければ意外と何とかなるため、寿命という意味では普通の軍人とそう変わりない、というのが最近の通説になってはいるのだが。
まあその辺はともかくとして、基本は傭兵稼業である。危険かつリスクの大きい大変な仕事であるのは変わりない。だから、仕事と仕事の間にインターバルを設けるのは別に珍しい事ではないし、それこそめったに依頼を受けないようなリンクスだって居るくらいだ。実際、あれだけの大仕事をやり遂げた後なのだから、一週間という期間は決して長くはないのかもしれない。
(でも……な~んかイメージと違うのよねぇ……)
しかし、わたしはそこに違和感を覚えていた。
そもそも《ストレイド》のリンクスが優秀と目されてきたのは、その腕前も然る事ながら、積極的に依頼を受け、こなしてきたという理由が大きい。
カラードの独立傭兵の中には、特定の陣営の依頼ばかりを請け負う者や、大口を叩くわりに依頼を厳選するような者も居る。そんな中で、《ストレイド》のリンクスは三大陣営のどの陣営か、どのような依頼かも関係なく、積極的に請け負ってきていたのだ。それこそ、一週間なんて長い間隔を開けた事がない位に。だから、今まではよっぽど金に困っているか、それとも戦闘狂の類じゃないかって噂されていたものだった。
だというのに、《ストレイド》のリンクスは《スピリット・オブ・マザーウィル》を撃破してから一週間近く、何の動きも見せていないのだ。噂を聞きつけた各企業から、数えきれないほどの依頼が出されているにも関わらず、だ。
『まあ、そういう事もあるんじゃないか? 何しろ、あの《マザーウィル》を撃破したんだ。並みのリンクスなら、感激と達成感で何も手につかなくなるってもんだろう。今頃は、どっかの南の島でバカンスと洒落込んでるんじゃないのかな。あの美人のオペレーターと一緒にな、ははは』
というのが、GAで唯一彼らと接触した経験がある仲介人のオニールさんの言だが、それはわたしにとってはいまいち腑に落ちないものだった。
わたしの中の彼もしくは彼女は、もっと真面目で一本気で、バカンスなんてものに現を抜かすような人間ではないと思っていたからだ。放っておけばどこまでも突き進むような若さと実直さ、そして危うさが、戦闘時の《ストレイド》の動きから感じられた。そんな人間が、何も手につかなくなる? 美人のオペレーターとバカンス? それこそ、あり得ないというものだ。
そして何よりも、情報部から聞いた情報では、帰還した《ストレイド》の状態は相当に酷いものだったそうだ。それほどのダメージを機体に負っていたとしたら、リンクス本人の精神的ダメージも無視できなくなる。最悪、肉体的にもダメージを負っている可能性だって――
(やられたGAの側のわたしが言うのもなんだけど……怪我とか、してないといいんだけどなぁ……)
なんてコトを考えながら、何気なく通路の角を曲がり、大きな通路に出ようとした時だった。
「……うげっ!?」
まるでカエルが潰れたような、汚い呻き声が口をついて出た。
とっさに近くにあった柱の影に貼りつき、身を隠す。そうして口元を押さえ、荒くなりそうになる息を必死に整えていく。たまたま近くを歩いていた観光客と思しき母子が、
「ねーねー、あのおねえちゃん、なにやってるのー?」
「しー! 見ちゃいけません!」
などとこちらを見ながら話していて、恥ずかしい事この上ないが、そんなのを気にしている場合ではなかった。
柱の影から恐る恐る顔を出し、通路の向こうを覗き込む。すると少し離れたところ、年齢も人種も様々な人たち――カラードの職員や企業の関係者、それに試合を見に来た観光客などが思い思いに通り過ぎる中で、一人だけ立ち止まって周りを見回す人影があった。
歳の頃は十代半ば。細身かつ筋肉質で、背丈はその年頃の男性としてはやや小柄。黒いジャンパーにGパンという黒ずくめの恰好で、胸元で動物の牙をあしらった首飾りが揺れている。
浅黒い肌に白髪混じりのぼさぼさの黒髪。精悍な顔つきに鋭い眼差し。そして何よりも、一度見たら忘れようのない、左目の大きな傷跡。
服装はともかくとして、そこまで身体的特徴が一致すれば、もう間違いようがない。
(……あの時のクソガキ!? わたしをぶん投げてくれやがった、あの!?)
もう十日以上も前、あのリッチランドでの戦いの夜に出会った相手。いくら不可抗力とはいえ、こちらを容赦なく投げ飛ばし、公衆の面前で人を暴漢扱いした挙句、一言も謝らずにさっさと去って行った、あの隻眼の少年に違いなかった。
(何で!? 何でこんなところに!? ただのスラム住まいのクソガキじゃなかったの!?)
てっきり、貧困層によく居る不愛想で生意気なクソガキかと思っていたこいつが、何故北米のグリフォンから遠く離れたロンドンの地に、それもよりにもよってカラード本部なんかに居るのか。
ただの観光旅行でござい、なんてタイプには到底見えないし、かといって他に、こいつがここに居る真っ当な理由も思いつかなくて。訳も分からずに混乱するだけだったけど、いずれにせよ、わたしにとってはもう顔も見たくない相手である事には変わりなく、とりあえずそのまま隠れて様子を伺う事にする。
「…………?」
隻眼の少年は立ち止まったまま、周囲を鋭い目つきで見回している。ひょっとしたら、こっちの存在に気づかれたのか――そう思ったのも数秒の事。隻眼の少年は、怪訝そうな顔をしながらも通路の奥のほうへ向けて振り向き、そのまま歩き出そうとして、
(……あっ! 危ない!)
そこで、足元をよろめかせていた。そのまま倒れ込みそうになるも、近くにあった柱に手をついてふらついた体を支え、何とか事なきを得る。そうして数秒ほどそのままの姿勢で止まった後で、小さく舌打ちをすると、再び立ち上がり、そのまま通路の奥へと去って行った。
(あ~あ……行っちゃった……)
柱の影から顔を出し、隻眼の少年が去って行ったほうを見やる。だいぶ離れたところに見えるその後ろ姿は、一見普通のようでいて、明らかに力がない。歩きながらも少しずつ左右へとよろめいていて、今にも誰かとぶつかってしまいそうだった。
(どこか体調悪いのかな……? 何もないところでよろめくなんて、普通じゃないし……)
そう思案しているうちに、隻眼の少年の後ろ姿は少しずつ小さくなっていき――やがて人混みに紛れて見えなくなっていった。
今からでも追いかけて、手を貸してやるべきか――そんな甘い考えが脳裏に浮かび、爪先に一瞬だけ力が籠ったものの、
(……だからどうしたっていうのよ、メイ・グリンフィールド! たとえ体調が悪かろうが、アイツは誰かに助けを求めたりなんてしなかった。アイツ自身が、自分は大丈夫だって言ってるんだから、余計な手出しをする必要なんてないはずよ!)
それを振り切り、自身の両頬をばちん、と掌で叩く。じんわりとした痛みが広がり、衝動的になりかけた心に喝を入れてくる。
(しっかりするのよ、わたし! あんな……あんなヤツの事なんてどうでもいいでしょう? そんな事よりも、今のわたしにはやるべき事があるはずなんだから!)
そう。わたしがこの日のために、どれだけ準備をしてきたと思っている。
今回の戦いの相手は極端な秘匿体質であり、公の場にはなかなか出てこない。だからこそそれを引きずり出すために、仲介人のオニールさんやエンリケ部長の助力を仰いだのはもちろんの事、カラードに口が利くというヒキガエルみたいなスケベ心丸出しの重役に、下げたくもない頭を下げたりもした。
それも全ては、わたしの目的のため。
そのためには、絶対に勝たなければならない。もしもわたしが負ければ、きっと相手はこちらの話など聞こうとすらしないだろうから。
――だから、これ以上あの隻眼の少年に関わっている余裕はない。相手の様子が気にならないでもないが、少なくとも命に関わるような事はないだろう。それならば、後でどうとでもなるはずだ。今はただ、他に優先すべきものがあるというだけで。
そうして、未練めいた感傷を振り切り、最初に向かおうとしていた方に振り返る。
決意は新たに、足音は高く。胸元に確固たる意志を籠めて、わたしは目的地へと向かっていく。
――負けられない。負けたくない。
今のわたしには、決して譲れない戦いがあるのだから。
あの日からずっと知りたかった事、知らなければならなかった事。それを知るために――
――午前十一時三分、大規模レクテナ施設、“パラボリック・グローブ”にて。
灰色の渓谷のいたるところに、白く塗られた巨大建造物がいくつも佇んでいる。弧を上にした放物線を描く、漏斗めいた形状のそれらは、宇宙に浮かぶ太陽光発電衛星からマイクロ波となって送られてくる大量の電力を受信するためのアンテナだった。もっとも、宇宙開発がとうの昔に頓挫した現在となっては、何時使い物にならなくなるかも分からない、半ば忘れ去られた存在でもあったのだが。
“パラボリック・グローブ”――つまり、パラボラアンテナの木立という名前通りの、凹型の反射面を上に向けた巨大なアンテナが整然と並んだ、見る者の感覚を狂わせる奇異な光景。
しかし、今やそこに飛び交っているのはマイクロ波などではなく、無数の砲弾とミサイルであり――それらを軽やかに掻い潜りつつ、パラボラアンテナの上空を高速で舞う、濃紺色の影があった。
『どうしました? 戦闘機動が緩んでいますよ? もう限界ですか?』
淡々と、そして無感情に。挑発めいた言葉を垂れ流しながら、その影は猛スピードで空中を滑っていく。まるで翼そのものに手足を生やしたような、奇怪としか言えないシルエットの機体が。
人のカタチを表す表現として、“大”の字を使う事がよくあるが、目の前の機体はまさにそれを極端に分かりやすいカタチにした機体だった。縦に尖った頭部はともかくとして、胴体部はまさに“T”の字の形そのものの形状だし、肩からウイングを生やした腕部や逆関節めいた脚部も、必要最低限の機能を残して極端に簡略化された形状のため、正面からだとただの細い棒のように見える。
両手に持ったマシンガンや両背部の四連装チェインガンも同様に徹底した簡略化が図られていて、極端に短くカットされた銃身に航空機の翼を思わせる外装が取り付けられた様は、どこか兵器然と見えない。極端なまでに軽量化と空力特性を追求した結果だそうだが、総じて異形としか言いようのない機体が超高速で空を舞っていく様は、悪夢というよりは騙し絵のようだった。
カラードランク十七位、《フラジール》。
ネクスト関連技術――特にその制御における基幹技術であるAMS(アレゴリー・マニュピレイト・システム)関連の技術を研究するものとしては、コロニー・アナトリアに次いで古いとされる、アスピナ機関。現存するネクスト関連技術の研究機関の中でも、最も極端で最も異端な研究をしていると悪名高いここが開発した、最先端の実験用ネクストであり、搭乗者CUBEは同機関出身の専属テストパイロットである。
この《フラジール》は実験用と冠する通り、アスピナ機関の研究方針にのみ最適化された機体で、兵器としての戦闘力や汎用性、使い勝手よりも、とにかく機動兵器としてのスピードだけを追求した機体として知られていた。よって、その戦闘力はお世辞にも高いとは言えないものの――
「――外れた!?」
牽制ではなく当てるつもりで放った弾が、ことごとく狙いを外されていくのを見たわたしは、思わず舌打ちをしていた。全高十メートルはあろうかという巨体が、一瞬にして時速千二百キロ超にまで加速。音速を突破した事によるショックウェーブと轟音をまき散らしながら、音速で迫り来る弾丸のことごとくを振り切ったのだ。数キロもの距離を隔てて相対しているというのに、あまりの速さに腕部の動きが、FCSのロックが追いつかない。
そうして次の瞬間、《フラジール》から返礼とばかりに、豪雨めいた弾丸の雨が降り注いでくる。両背部の四連装チェインガンからの攻撃。上下左右に激しくブレながら迫り来る特濃の火線の束に、とっさに右のクイックブーストを噴かして回避。避け損ねた数発が《メリーゲート》のプライマル・アーマーを掠め、緑色の燐光を拡散させていった。
敵の火力それ自体は、決して脅威ではない。両腕のマシンガンも、そして今撃ってきた両背部の四連装チェインガンも、その徹底的な軽量化と簡略化が仇となって、極端に集弾性が悪い豆鉄砲に過ぎないからだ。まして、こちらは実弾防御に特化したGA製の重量機。ある程度の時間であれば、至近距離で全弾喰らっても耐えきれる自信はあるが、だからといって連続で撃ち込まれるというのは気分の良いものではない。
「くっ! 流石に速い!」
時速五百キロ超で荒々しく着地した機体を制御しながら、呻く。
やはり最大の脅威は、敵の圧倒的なまでのスピードだった。ただの空中ブースト機動でこちらのクイックブーストの速度に迫り、クイックブーストにいたっては音速越えという異次元のスピード。もはや暴力的とすら言っていい速度でもって大空を縦横無尽に飛び回っていく様は、もはや同じネクストという兵器なのかすら疑いたくなるレベルである。
『もっと真面目にやってもらわないと困りますね。これでは《フラジール》のデータ採取に支障が出てしまいますので』
淡々と、まるで助手に注意する教授のような口調で吐き捨てながら、《フラジール》は左右にクイックブーストしながら急速に後退していく。
またしても一撃離脱。距離を取ってこちらの攻撃を避け、それから襲い来る腹積もりか。……けど!
「逃がさないんだからぁっ!」
まだまだ動きが甘い。距離を詰めて果敢に攻め込まれれば対処に苦しむところだったが、こいつには積極的に攻め込まずに距離を取ろうとするという甘さがある。故に、いくらでも対処のしようがある!
バックブースターを噴かして距離を取りながら、左背部の垂直式多連装ミサイルランチャーをロックオンしていく。《フラジール》もそれに対応して、機体を左右に振り動かしながら両腕のマシンガンを乱射していくが、お互いに距離を取ったうえでの睨み合いならば、こちらの視界外から逃がすようなヘマはしない。そして、そんなやる気のない弾などで止められるほど、《メリーゲート》はヤワじゃない!
数秒後に十六発分のロックオンが完了し、同時に両肩の連動式ミサイルポッドを展開。即座に発射された計八十発もの小型ミサイルの群れが、上下から挟み込むようにして《フラジール》めがけて殺到していく。それに反応し、空中を飛び退る《フラジール》が、自身に迫るミサイルの群れめがけてマシンガンを乱射していくが――残念、それは悪手だ!
「そこぉっ!」
即座に前方に転進すると同時に、左側の選択武器をチェンジして、左腕の大口径無反動砲を構える。意識をミサイルに集中させてこちらへの注意が散漫になった《フラジール》めがけて、フルオートにした右腕のライフルもろとも猛射を喰らわせていく。
『――なんですって?』
意識外からの攻撃に、生来の職業傭兵ではないCUBEが対応しきれるはずもなかった。《フラジール》は速射された六十ミリ重徹甲弾の雨に左脚を撃ち砕かれ、追い打ちとばかりに放たれた二百ミリ成形炸薬弾によって、根元から右腕を吹き飛ばされていた。右のサイドブースターを破壊され、空中機動に支障をきたした異形の機体が、右へ、右へと流れていく。
……彼は選択を誤った。こちらがミサイルの弾幕を張ってくると分かったのならば、即座に接近して張りつき、マシンガンの斉射を撃ち込み続けるべきだったのだ。そうすれば至近距離で自爆し続けるミサイルの数々に、さしもの《メリーゲート》もただでは済まなかっただろう。
『AP(アーマーポイント)五十パーセント減少。プランD。いわゆるピンチですね』
半壊した機体を右へ、右へと高速で移動させながら、《フラジール》のリンクスはなおも淡々と呟いていた。もはや単発となったマシンガンを牽制めいて垂れ流してくるが、そんなものはもう避けるまでもない。機体周囲に展開したプライマル・アーマーが散発的に飛来する銃弾を受け止め、弾き返していくのを尻目に、わたしは急速旋回させた《メリーゲート》を敵機に相対させ、着実に銃弾を撃ち込んでいく。
『この状態で遠距離での撃ち合いは不利。ならばリスク覚悟で、やらせてもらいますよ』
そんな言葉とともに、今まで一定の距離を保っていた《フラジール》が一気に突っ込んできた。左腕のマシンガンをパージすると、両背部の四連装チェインガンを構え、ロックオンもそこそこに撃ち込んでくる。音速を優に超える初速を受け、超高速で飛来する二十ミリ徹甲弾の豪雨が急速にプライマル・アーマーを減衰させ、貫通した何発かが、がんがん、と装甲を叩いていく。
ある意味自暴自棄に陥っての、特攻。弾幕を張りつつ接近し、おそらくはアサルト・アーマーで一気にケリをつける腹積もりか。だが、
「それも、読み通り……よっ!」
真っ向から弾幕を受け止めつつ、《メリーゲート》に両腕の武器を構えさせ、撃つ。右のサイドブースターを失い、さらに至近距離で片をつけるつもりの以上、敵は回避ができない。互いに撃ち合って、どちらかが斃れるまでの壮絶なチキンレース。……であるならば、装甲と火力に勝るこちらが負ける道理はない!
「はぁああああああああっ!」
咆哮とともに、両腕のトリガーを引き続ける。ライフルの砲身が割れんばかりに限界まで速射した六十ミリ重徹甲弾が、《フラジール》の胴体部のカウル同然の装甲を次々と貫通して致命打となり、無反動砲から放たれた二百ミリ成形炸薬弾が頭部を基部ごと粉砕する。
一方、絶え間ない二十ミリ徹甲弾の猛射を正面から受けて、こちらのプライマル・アーマーが完全に霧散し、丸裸になった《メリーゲート》にびっしりと弾痕が刻まれていく。とはいえ、それはぶ厚い正面装甲を貫通するまでには至らず、彼我のAPの差は開いていくばかりで、
『《フラジール》、活動限界突破。……ですが、もう遅いですよ。アサルト・アーマー、展開――』
片手片足と頭部を失い、もはや完全にヒトのカタチを失った《フラジール》が、それでもなおクイックブーストを噴かし、音速でこちらに迫り来る。機体各部の整波装置がゆっくりと展開し、機体を包み込むプライマル・アーマーが急速に収束していって――
「もう遅いのは……そっちよ!」
吠えて、両腕の火線を絞り込む。狙いは“T”の字の形をした胴体部の、縦線部分。今は後ろの装甲が開いているそここそが、《フラジール》のオーバードブーストが収められている場所だ。アサルト・アーマー展開中という不安定な状態の時に、そこめがけてさらなる攻撃を受けた《フラジール》は、今まさに臨界の最中にあった大量のコジマ粒子を暴発させていた。特徴的な形状の胴体部が内側から吹き飛び、文字通り真っ二つになると同時に、視界の片隅に表示された敵のAP(アーマーポイント)が一気に減少、赤色のゼロだけになっていた。
「おっ、と……!」
最後っ屁とばかりにこちらに突っ込んでくる《フラジール》の二つに分かれた残骸を、左方向へのクイックブーストで辛うじて回避。そうして、《フラジール》の下半身がフレームをばら撒きながら四散し、もはや断裂した翼にしか見えない上半身が乾いた大地の上をもんどり打って転がっていって――やがて、巨大なパラボラアンテナの基部にめり込むようにして叩きつけられていた。辛うじて繋がっている左肩に描かれた、開いた掌からこぼれ落ちる白砂を描いたエンブレムが、今の機体の惨状を暗示しているかのようだった。
基本的には搭乗者の保護を第一に、頑丈に作られているはずのネクストにあるまじき凄惨な姿。通常であればリンクスが生きているはずもない、大昔の飛行機事故を思わせるような有様だったが――
『なるほど、これで終わりですか……。やはり脆すぎますね、《フラジール》は』
文字通りバラバラになった《フラジール》から、相も変わらず、異様なまでに淡々とした若い男の声が聞こえてくる。
『まあ、ボトルネックはいくつか洗い出せました。《フラジール》の更なる改善に繋がるでしょう。ご協力、感謝しますよ、メイ・グリンフィールド』
元より搭乗者が収まるスペースがあるとは思えない異形のコアは、さらに二つに泣き別れている。ましてぐしゃぐしゃに潰れた今となっては、リンクスが原型を留めているはずも、ましてや生きているはずもなかったが、CUBEはそれに何ら疑問を抱いていないようだった。そして、このわたし自身も。
「感謝します、ね。……なら、そのお礼代わりに、わたしから質問してもいいかしら?」
感謝というにはあまりにも無味乾燥めいた声色に、しかしわたしは強張った声でそう返した。それに、CUBEは露骨に訝しむような声色を見せて、
「……はい? 質問、ですか? 生憎ですが、この《フラジール》に関する事なら、我がアスピナの機密事項ですのでお答えできませんが」
「いいえ、違うわ。あなたの機体の事なんてどうでもいいの」
そう断じて、《メリーゲート》を移動させた。巨大なパラボラアンテナの足元、《フラジール》の上半身が転がっているところまで機体を持っていく。全身に弾痕を刻んだ緑色の巨躯が、ぐしゃぐしゃになった残骸を傲然と見下ろし、
「――あなた、ジョシュア・オブライエンという男を知っているわよね?」
『ジョシュア・オブライエン? ええ、存じ上げておりますとも。久方ぶりに聞く名です』
わたしが出したその名に、首なしとなった機体の残骸が、即座に返答してきていた。
(……よし! 食いついてくれた!)
向こうがこちらの質問に答えた事に、内心で喝采を上げるも、そんな事はおくびにも出さず、わたしは向こうの発言に耳を傾けた。
『我がアスピナ機関の最初期のリンクスにして、リンクス戦争の英雄と呼ばれた男ですね。リンクスナンバー四十番、ジョシュア・オブライエン。機体名、《ホワイト・グリント》。またの名をアスピナの“白い閃光”』
リンクス、ジョシュア・オブライエン。
“彼”――“アナトリアの傭兵”と同じく、リンクス戦争の英雄と呼ばれた男。“彼女”の古い友人であり、かつては“彼”を友と呼んだ男。そして、十年前のあの日にアナトリアを襲った、あの漆黒の異形のパイロットだった男。それが、ジョシュア・オブライエンという男だ。
『彼の活躍は、リンクス戦争後期に集中しています。レイレナード陣営のネクスト戦力を多数撃破し、コロニー・シングを襲った巨大兵器《ソルディオス》を退け、ついにはアクアビットの本社を壊滅させるに至りました。単純な戦果では“アナトリアの傭兵”に劣りますが、彼もまた、オーメル陣営を勝利に導いた英雄と言えるでしょう。リンクス戦争が終わってから半年ほど経った頃に、不幸にもアナトリアでの戦いで戦死してしまいましたが、彼の活躍は我がアスピナに多大な利益をもたらして今日の研究機関の礎となり、同時にその豊富な実戦データは、この《フラジール》の設計方針にもいくばくかの影響を与えたと聞いていますが……それが何か?』
CUBEはジョシュア・オブライエンという男の来歴を滔々と語っていく。それはわたしでも知っている、ごくごく客観的な事実に過ぎなかったが、わたしはそれを黙って聞いていた。そうして、最後にCUBEが問い返してきたところで、
「教えてちょうだい。ジョシュア・オブライエンはリンクス戦争の後、どうしてコロニー・アナトリアを襲ったの? 彼はあそことは、戦争が始まる以前から懇意にしていたと聞いたわ。あそこには以前から親しかった知人や、友と呼んだ人たちだっていたはずなのに。なのに、どうして……?」
わたしは、ずっと聞きたかったコトを口にした。
何故、あんな事になったのか? どうしてジョシュア・オブライエンはあのような行動に出たのか? 呆然と座り込んだわたしを見下ろしていたあの時、そして“彼”の機体と相対したあの時、彼はいったい何を考え、何を思っていたのか……?
しかし、CUBEはそんなわたしの問いかけに、肩をすくめるような気配を見せて、
『さあ、私には分かりかねますね。アスピナの記録にはただ、オーメルからアナトリア殲滅の依頼を受けた、としか残っておりませんので。彼の交友関係までは私は知りませんし、当時どういったやり取りがあったのかについても、私は知らされておりませんので』
「……っ」
その答えに、息を呑む。CUBEの答えは多分にわたしを失望させるものではあったが、同時に別の知りたかった情報をもたらしてもいた。たぶん隠すだろうと思っていたあの事件の黒幕の名前を、彼は思ったよりもあっさりと口にしていたのだ。
……やっぱり、あの襲撃には企業が――オーメル・サイエンス社が絡んでいた。とはいえ、それは半ば以上予想していた事でもあった。なぜならあの日、ジョシュア・オブライエンが敗北した後で“彼”に襲いかかってきたネクストが、まさにそのオーメル所属のネクストだったからだ。
逸る心を必死で押し留めながら、わたしはかねてからの疑問を口にした。
「で、でも、おかしいとは思わないの? あの漆黒の異形――プロトタイプ・ネクスト《アレサ》は、極めて高い機体性能と引き換えに、致死レベルの精神負荷をもたらす機体だって聞いたわ。乗ったら最後、どっちにしても生きて帰れない欠陥品だって。乗り慣れた自分の機体でなく、そんなものに乗ってまで出撃しなければならないなんて、どう考えてもおかしすぎる。わたしには、それに乗る事がジョシュアの本意だったとは思えないのよ。何かこう、故郷であるアスピナを盾に、脅迫でもされていたとか……」
仮にあの襲撃が、ジョシュア・オブライエンという男の本意だったとしても。そんな重要なミッションに、そんな曰くつきの機体に乗ってくるなんて事は、普通はあり得ない。少なくともわたしなら、そんな自殺同然の行為はしたくない。彼が話で聞くような、理知的で理性的な人物だったのならなおさらだ。……それとも、“彼”という存在は、そこまでしなければならないほどに恐ろしいものだったのだろうか?
わたしの疑問に、しかしCUBEは先程から全く変わらぬ口調で、
『随分とおかしな事を言いますね、あなた。仮にあなたの言う通り、我がアスピナがオーメルから脅迫されていたからと言って、それがなんです? それも含めて、ジョシュア・オブライエンはアナトリア殲滅の依頼を受け、そして敗北したのでしょう? 我がアスピナはリンクス戦争以前からオーメルと深い繋がりがあり、戦後になってもそれは変わりません。その繋がりによって、今日までアスピナは生き永らえ、そしてアナトリアはあの日に滅び去った。ただ、それだけの話です』
自分が知る男が、自分たちの故郷を盾に脅迫されていたかもしれない。そして、そのせいでその男は死んだ――そう聞かされても、声色一つ変えず、何一つ問題とせずに淡々と喋るCUBEに、わたしはぞわりとするものを感じていた。同じ人間と話しているはずなのに、まるで機械か異星人と話しているような、そんな錯覚を覚えたのだ。
……きっとこいつは、人間として何か大事なものが、もうとっくに壊れちゃってるんだ――そう思わざるを得なかった。
「……っ! なら、ならジョシュア・オブライエン本人に会った事はあるんでしょう? 彼は……彼はいったいどんな人だったの!?」
そうして、こちらの縋るような問いかけに、しかし、
『ありますよ。ええ、私の知るジョシュア・オブライエンは、紳士的かつ温厚で、そして戦場においては冷静沈着な、ネクストの制御人格としては極めて理想的なリンクスでしたとも。私のような年下の者にも親しげに話しかけ、なにかと世話を焼いてくる、そのような人物でもありました。しかし、何分、私は末端の実験体に過ぎませんでしたので。私にとってジョシュア・オブライエンは、遠い存在に過ぎませんでした。そして、私の与り知らぬところで死んでいった。私にとって、彼はただ、それだけの存在に過ぎません。……あるいは、かつてアスピナにいたジュリアス・エメリー。彼と同じくアスピナ初期のリンクスである彼女ならば、何か知っているかも知れませんがね。少なくとも私個人はこれ以上、ジョシュア・オブライエンについて語る舌を持ちませんので』
いっそおぞましさすら感じる無感情さで、CUBEが淡々とジョシュアの人となりを語っていく。そこには彼という一個人の息吹は感じられず、ただただモルモットに関するレポートを読み上げるかのような、無味乾燥めいたものだけが徹底的に存在していて、
「……それだけ? 仮にも同じ故郷のために戦って、そして死んでいった人に、あなたはそんな感情しか持ってないっていうの!?」
わたしは思わず、食ってかかるような口調で問い詰めていた。
いくらなんでもあんまりだ。こんなんじゃ、ジョシュア・オブライエンという男があまりにも救われない。たしかにあの男はわたしにとって憎き敵ではあるし、とっくに敗北した人間である事は事実だけれど、それでも、この仕打ちはあまりにも――!
だというのに、CUBEはわたしがそう考えるのをむしろ訝しむかのような声色で、
「それだけと言われましてもね。我々にとって、それ以外に何があるというのですか? リンクスというものは、ネクストを駆るためにのみ存在するものです。それ以上でも以下でもありません。感情や感傷などという余分なぜい肉など、私には不要なのですよ。この徹底的に軽量化が図られた《フラジール》と同じく、ね」
……ダメだ、眩暈がしてくる。
自分自身の“欠落”を、むしろ誇らしげに語るCUBEに、わたしは――ああ、こいつはもうダメだ、と思った。
こいつはもう、人間じゃない。かつては人間だった、ただそれだけの“物”に過ぎない。こいつはもうコンピューターと同じだ。ただただネクストという兵器に隷属するだけの、ネジや歯車といった部品と同じ、本当の意味での機械のパーツに過ぎない――
「……分かった。もういい」
我知らず、わたしはそんな事を言っていた。
もう、こいつに聞く事なんて、話す事なんて何もない。まるで壊れたテープレコーダーだ。とうの昔に壊れて同じ箇所だけを再生するようになったガラクタ相手に、今まで必死に格闘していたのだと思い知らされたような、そんな馬鹿馬鹿しさと虚しさと徒労感。
あるいは、あの噂は本当なのかもしれなかった。《フラジール》のベースとなった実験機《ソブレロ》は、徹底的に軽量化と空力特性を追求した、細身という次元ではない異形のスタイルとなった結果、もはや人体が収まるスペースすらないと。だから、これに乗るリンクスは四肢を切断し、肌や肉や骨も、臓物すらも削り取られ、操縦と生命維持に最低限必要なものだけになった、文字通りの“生体ユニット”と化さなければならないのだ、と。
――故に、その名は“CUBE(立方体)”。
異形のネクストの残骸の中に、どこまでも愚かしく、どこまでも歪で、どこまでもおぞましい、そんな闇を垣間見たような気がして、生命維持装置付きのパイロットスーツを着込んでいるにもかかわらず、わたしは強い寒気と怖気を感じていた。
そんなわたしの反応を知ってか知らずか、CUBEは平然とした口調で問い返してくる。
『だいたい、何故こんな質問を? GAのリンクスであるあなたが、何故ジョシュア・オブライエンとアナトリアの関係を知っているのです? 何故アナトリアを襲ったのが、《ホワイト・グリント》ではなく《アレサ》だと知って――』
と、そこまで言ったところで流石に気づいたのか、彼は難儀した数式を解き終えたかのような声で、
『――ああ、なるほど。あなた、もしかして当時のアナトリアに?』
「……もういいから」
『ああ、そういえば、アナトリアの生き残りの中に、AMS適正の持ち主がいたと噂で聞いた事があります。そして、そのリンクスがGAに拾われたとも。……なるほど、そういう事でしたか、メイ・グリンフィールド』
「もういいって言ってるでしょう!」
二回目の返事は、ほとんど絶叫に近かった。それに、CUBEは再び肩をすくめるような気配を――果たして、彼に肩なんてものがあるのかどうかは知らないが――見せて、
「まあ、あなたが何者であろうが、私にはどうでもいい事です、メイ・グリンフィールド。ならば、もういいでしょうか? 私にとっての関心事は、この《フラジール》を如何に速く、如何に強くするか、ただそれだけですので」
と、相も変わらずの淡々とした口調で一方的にまくし立ててくる。そうして、もう何か喋る気力もなくなったわたしを尻目に、
『では、私はこれで失礼しますよ、メイ・グリンフィールド。あなたの無駄話のために、戦闘データの検証に使うべき貴重な時間を、五分三十六秒も浪費してしまいましたので』
わたしの返事を待つ事もなく、一方的に通話が切れる。そうして後に残ったのは巨大なパラボラアンテナが林立する姿を背景に表示される『NO SIGNAL』の文字と、脳を震わせる砂嵐めいたノイズばかりとなった。
「………………」
その中で、無言で佇んでいたわたしは、やがて糸が切れた人形のようにゆっくりと頭を垂れていく。肩から胸元にかけてを押さえつけるガードバーにもたれかかるようにして、だらりと垂れ下がった体は、しかしその虚空に向けて伸ばされた両手を、コックピットの内壁に力の限り叩きつけていた。シートベルトに固定された体全体がぶるぶると震え、防眩処理が施されて半ば鏡のようになったHMD(ヘルメット・マウント・ディスプレイ)の内側に、くしゃくしゃになった泣き顔が映り込む。その上にぽたり、ぽたりと無数の雫が落ちて、透明な線となって流れ落ちていった。
「……うっ……く……ひっ、く……」
もはや嗚咽となった声が、ヘルメット内部に響いて耳朶を打つ。
……あんな連中の。あんな連中のために、アナトリアは。おかあさんや街のみんなは。“彼”は、“彼女”は。そして、わたしは――!
「……悔しい……悔しいよ……。おかあさん……おとう、さ……」
その声を聞くものも、答えるものもいない。薄い闇を内包した鋼鉄の子宮の中で、わたしはいつまでも嗚咽し続けていた。
十一時三十分。コロニー・ロンドン、リンクス管理機構カラード本部にて。
「ふう……」
滑り止めのためにコンクリート張りになった、鋼鉄製の床。屋内にも拘らず軍艦めいた造りとなったそこに、中空にぶら下げられたタラップを伝って降りたわたしは、着地とともに軽くため息をついた。
あの悪夢のような会話から十分ほど経って。いい加減泣き疲れてきたわたしは、AMSの接続を切ってハッチを開けた。そうして、それまで乗っていた《047AN》のコックピットからやっとの思いで這い出て、機体の外に降り立ったのだった。
――そう、BFFの《047AN》である。先程まで戦っていたはずの、わたしの乗機である《メリーゲート》ではなく。
その手に持っていた拳大のメモリーユニットを腰のジョイントに引っ掛けると、緑色に塗られたヘルメットを外し、軽く頭を振る。いつものスマイリーマークの髪飾りが結わえた金髪に当たり、軽薄な音を立てる。じっとりとした汗と、それ以外の透明な液体がぽたぽたと床に落ちていって――そうして、再び軽く息を吐いたわたしは、正面の壁が巨大なモニターで覆われた格納庫めいた一室の中でそびえ立つ、全高四メートルほどになったネクストを見上げた。
BFFのシンボルカラーである黒色に塗られた、直線的かつ堅牢な構造の機体は、しかし整波装置やライト、ブースターといった外部部品が軒並み外されていて、その代わりにそこから色とりどりのケーブルが無数に生えている。本来両腕や脚部などが接続されるジョイント部も同様であり、機体の動きや振動を演出するための可動部付きのシャフトや、蛇のようにのたくった太いケーブルの数々でもって床と繋がっている。同社の技術の粋であるはずの高性能カメラアイも外され、四つの虚ろな眼窩でもってこちらを見下ろす様は、地に根を下ろしたようなケーブル類もあって、まるでヨーロッパに伝わる森の精、ウッドマンのようだった。
「……しっかし、ヘンな気分よね。全く違う機体に繋がってるのに、いつもと同じ感覚だってのは、さ」
思わず、そんな言葉が口をついて出る。いつもと同じ《メリーゲート》の感覚。実際に戦場に出るのと同じビジョンとサウンド、そして鋼鉄の肌触り。いつもと異なるのは、破壊しても破壊されても、誰かが死ぬ事も、何かが壊れる事もないという点のみ。
……さて、そろそろ種明かしをするならば。わたしが今まで乗って戦っていたのは、ネクストそのものではなく、その実機をベースに建造された、カラード所有の特注のシミュレーターだったのだ。
昔はシミュレーションを行う際はネクストの実機を持ってくる必要があったのだが、今はネクスト関連技術の進歩により、実際にネクストを持ってくる必要もなく、実際にネクストに接続するのと全く同じ感覚で接続でき、実際に戦っているかのような感覚をリンクス本人にもたらしてくれる。実際に戦闘を行う事なく、しかし限りなくリアルな環境で練習や対戦を行えるという意味では、リンクスという人種にとっても、地球の環境にとっても画期的な、二重の意味で凄いシミュレーターと言えるだろう。
さっきわたしが手に持っていた、拳大のメモリーユニット。あれがこのシミュレーションの肝であり、機体の頭部にあるIRS(統合制御システム)の子機バージョン、あるいはメモリーカードと言ってもいいようなものだ。この中にネクストの構成や各種戦闘データなど、統合制御システムに蓄積されるありとあらゆる情報が記録されている。これをシミュレーターに移植する事で、自分のネクストに乗って戦っているかのような感覚をもたらしてくれるというワケだ。
ちなみにネクストのコア内部にはこれを接続するためのスロットが複数あり、その気になれば実機に他人のデータを取り込むというコトもできたりする。……というか、リンクス戦争の頃は、そうやって実機で戦闘シミュレーションを行っていたらしい。協力関係にある企業同士で所属ネクストのデータパックをやり取りし、ネクスト同士の戦術データを相互に研究。有益なデータが取れたりすると、そのリンクスに報酬が支払われる、なんて事もあったのだとか。
要するにわたしたちは現実の世界ではなく、カラードが保有するスーパーコンピューターが創り出した疑似空間内で、存在しないネクストを駆り、戦っていたのだ。カラードが主催するリンクス同士の摸擬戦、通称“オーダーマッチ”。これに参加するために、わたしたちはこのシミュレーターに乗って、摸擬戦闘を行っていたというのが真相だった。
これが乗機をあそこまで破壊されてなお、CUBEが平然と喋っていた理由だ。仮にさっきのが実戦であれば、彼は今頃程よくグリルされた挽肉になっているか、さもなくばその前にAMSの過負荷でショック死していた事だろう。あくまでも仮想空間内の戦いだからこそ、ああやって戦場で呑気に話をする事ができたというワケだ。
……ちなみに、この建物がカラード本部に選ばれたのも、こういったネクスト用のシミュレーターが複数存在していた事によるものが大きい。多数のリンクスを抱えるカラードであればこそ、こういった施設が必要とされたのだ。以前はBFF製の機体だけだったのだが、現在は半数近くがオーメル製に入れ替わっていて、こんなところにもカラード内における各企業の力関係というものが表れていたりする。と――
「お疲れさま、メイ。気は済んだ?」
そこへ、フランさんがタオルを差し出しながら声をかけてきた。その後方には、シミュレーターから戦闘データを吸い出していると思しきGAのスタッフたちもいる。わたしは慌てて目尻を拭うと、努めて明るい声で返事をした。
「あ、フランさん。……ごめんね、待たせちゃったみたいで」
タオルを受け取り、汗を拭きつつそう詫びの言葉を入れたわたしに、彼女は小さく肩をすくめて、呆れたように言ってくる。
「十五分ってところかしらね。まあ、先方と何をこそこそと話して、そしてその後に何をしていたのかは、聞かないでおいてあげるわ」
さっきのCUBEとの会話は、AMSを通じて介入し、こちらの統合制御システムからは遮断しておいた。少なくともフランさんやこっち側のスタッフに聞かれている心配はないのだが、同時に不審に思われていても言い訳のしようがない行為ではあった。現にスタッフの中には、何やら含みがありそうな目線をこちらに送ってくる者だっていた。
「うん、ありがと、フランさん」
内心で冷や汗を流しつつ軽く礼の言葉を言ったわたしの目を、フランさんはじっと覗き込んでくる。そうして数秒ほど経ってから、ふっ、とほほ笑んで、
「まあ、気にはなるし、注意もしてるつもりだけどね。だから、何かあったらすぐに相談してくれると嬉しいわ」
「……うん、ありがとう」
言外に、いつでも頼ってね、そう言ってくれたフランさんに、小さく頭を下げる。
彼女は、わたしの過去――かつて壊滅したコロニー・アナトリアの出身である事や、そこで母親を殺された事、そしてそれを実行したのがジョシュア・オブライエンである事を知っている。だから、彼の出身であるアスピナに、そしてそこのリンクスであるCUBEに、わたしが思うところがあるのも察しているのだろう。
……もっとも、わたしが個人的にジョシュア・オブライエンの事を調べているのまでは知らないだろうけど。これは義父にも言えない、わたしだけの秘密だった。
「どういたしまして。あ、ちょっと待ってね……」
と言いつのったフランさんが、バッグから何か小さなものを取り出してくる。掌に収まるくらいの透明な容器に入った、緑色の液体は――
「目、ウサギみたいに真っ赤よ。はいこれ、目薬」
「あ、ありがとう」
礼を言って、目薬を受け取りながら、さっきのCUBEとの会話を思い出す。
CUBE本人から直接ジョシュア・オブライエンの情報を聞き出すというのは、やはり軽率だっただろうか。GA側と同じく、アスピナ側だって機体のモニタリングはやっていただろう。当然、あの会話の最中も。おそらくは向こうのスタッフには丸聞こえだっただろうが、わたしだってそれくらい考えて話しているつもりだし、少なくともわたし個人に繋がるような情報は口にしていないはずだ。
……まあ、アスピナ機関は極端な秘匿体質だというし、なによりあのネクスト気●いの狂人集団が、わたしの個人情報なんかに興味を示すとは思えなかった。所詮は断片的な情報に過ぎないだろうし、それがオーメルとかに漏れる心配は、まあないだろう……と思いたい。
「ん~、えいっ……やっ……っと」
わたしが差し入れてもらった目薬を両目に垂らしている間に、フランさんのほうはスタッフから何やら報告を受けているようだった。びっしりとデータらしき数字の羅列が印刷された紙を片手に、フランさんとスタッフが話を進めていく。
「やっぱり、高速で動く相手に対して、ACS(アクチュエータ複雑系)の可動速度が間に合ってないわね。相手が規格外の相手というのももちろんあるけど、重量級だからといって放置する言い訳にはならないわ。そのあたり、まだまだ改善の余地が――」
「ええ、もちろん承知しております。ですが、うちの主流である重火器レベルの荷重トルクを前提とすると、どうしても各サーボモーターの可動速度が犠牲となってしまいまして。それにFCSとの相性の問題もありますし、既存品のアップデートだけではどうにも。これに関してはMSACに外注している関係上、密な擦り合わせというものが難しく――」
「その手の話は聞き飽きたわ。まったく、BFFの時のようにはいかないものね……」
……何やら、だいぶ高度な、難しい話をしているような気がする。そして何よりも長くなりそうだ。当事者であるわたしが一番蚊帳の外に置かれているような、そんな疎外感を感じていると、わたしの視線に気づいたのか、フランさんがこっちに振り向いて、
「ああ、私たちはさっきの戦闘のデータ検証をしているから、貴女はゆっくりと休んでいてちょうだい。終わったら端末に連絡を入れるから」
「は~い」
返事をして、フランさんにタオルと目薬を返す。そうして踵を返し、出口に向かって歩きながら、
(ジュリアス・エメリー……アスピナの初期のリンクス、ねえ……)
先程の会話で得た情報を思い出す。CUBEが口にしていた名前は、全く聞き覚えのない名前だった。少なくともリンクス戦争当時に正規に登録されたリンクスではないのは間違いないが、かといってオーメル陣営についたリンクスというわけでもなさそうだ。仮にそうであるのならば、わたしだって名前のひとつぐらい聞いた事があったはずだから。たとえば、アスピナ出身でありながらローゼンタールの正規リンクスに登用され、同社最高戦力の地位にまで昇りつめた戦後世代の代表格、ジェラルド・ジェンドリンのように。
(ジョシュア・オブライエンとほぼ同時期、ってコトはリンクス戦争末期の頃、か。……ひょっとすると、旧レイレナード絡みなのかなぁ……)
あり得ない話ではないのかもしれない。“アナトリアの傭兵”だってオーメル陣営とレイレナード陣営という、相反する陣営の仕事を請け負っていたというし、それと似たような事――たとえば敵対する陣営にそれぞれリンクスを提供していた、なんてコトをアスピナがやっていたとしても不思議ではない。
となると、次に当たるのはオーメル関係か。あそこには旧レイレナード系の技術者が多数居るっていうし、その中には元リンクスだって居るかもしれない。現在はGAと敵対関係にある企業でもあるから、あまりおおっぴらには動けないだろうけど、こればかりはフランさんに頼るわけにはいかないし。
まあ、何にせよ、新たな手がかりができたのは間違いない。精神的にはしんどい会話だったけど、一応の成果はあったというわけだ。三歩進んで二歩下がる、なんてことわざもあるし、あせらずのんびり行きましょう。
「さて、と。いつまでもこんなとこにいてもしょうがないし、とっとと行きましょうかね」
そう独り言ち、出入り口のドアノブへと手を伸ばし――ふともう一度、シミュレーションマシンと化した《047AN》を見上げた。
コンピューターの中でだけ戦闘を行うネクスト。実戦では何ら役に立たない、電子の中だけの戦闘機械。誰も殺す事ができず、でも誰にも殺される事もない、ゲーム機めいた夢の函。
……だから、時々思う事がある。
実際に戦場に出る事なく、こうやってシミュレーターの中だけで戦えればいいのに、って。
あるいはこうやってゲームみたいにして戦って、それで物事を決める事ができれば、世の中はもっと平和になれるんじゃないか、って。
――そんな、優しいだけの夢物語みたいな話を。
「……なんてね。そりゃ無理か、さすがに。あはは」
そう、ひとりで笑って。
わたしはシミュレーションルームを後にしたのだった。
****
「さて、と……本気でどうするかな? 正直、まだ外には出たくないし……」
シミュレーションルームを出て、薄暗い照明に照らされた廊下を歩きながら、わたしは差し当たって何をするべきか考えていた。
本来ならばさっさと着替えて外に出るべきなのだが、そうするにはちょっと問題があった。何しろ、模擬戦闘とはいえ実際にAMSに接続し、戦闘行動を行っていたのである。その副作用で神経が極度の興奮状態にあり、汗は出るわ、気分が昂るわ、何か意味もなく駆け出したくなるわで、とてもじゃないが人前に出られるような状態じゃなかったのだ。
しかも今回は、わたしにとってある意味気合を入れて挑んだ戦いである。にもかかわらず戦闘そのものが比較的あっさりと終わってしまったのと、あまりにもアレだった相手に対するイライラでもって、少々鬱憤が溜まり気味なのも、それに余計な拍車をかける形になってしまっていた。
だから、これが治まるまで今しばらくは時間を潰さなくてはいけないのだが、かといって控え室で携帯端末とか弄ってる気分でもないし、でもずっとシャワー浴びてたりするのもなんだし。聞いた話では、一部のリンクスは衝動を持て余すあまり、その……ひ、独りでいたしたりするコトもあったりするらしいが、さすがにそこまでする気はなかった。嫁入り前の女の子としては、あまりにもはしたないし。
ならば、どうするか――そう考えながら薄暗い廊下を歩いていって、そうして更衣室の入り口が見えてきた頃に、
「……そういえば、ドンの試合ってちょうど今頃の時間だったっけ?」
ふと、そんなコトを思い出していた。わたしと同じくGAのリンクスであるドン・カーネル。彼のオーダーマッチも、今日行われる予定のはずだった。パイロットスーツのポケットから携帯端末を取り出して確認すると、時刻は十一時三十五分をやや過ぎたところ。
「ありゃ、もう始まっちゃってるか。確か、今日のドンの相手って……」
その自問に、見覚えのある機体が脳裏に浮かぶ。
――カラードランク三十一位、《ストレイド》。
そう、十日ほど前にリッチランドでの作戦でわたしと協働し、そして一週間近く前に《スピリット・オブ・マザーウィル》を撃破した、あのリンクスの機体である。
この試合は、昨日になってから急遽決まったらしいというのが、わたしの試合が始まる直前にフランさんから聞いた話だ。《ストレイド》にオーダーマッチの申し込みが殺到していたのはさっき話した通りだが、そういったリンクスたち――ランク十一位のダリオ・エンピオや十六位の有澤隆文といった上位陣を差し置いて、《ストレイド》側が希望してきたのがまさかのドンだったのだから、わたしとしてもちょっと驚いた記憶がある。
……まあ、これまで順当に勝ち上がってきた《ストレイド》にしてみれば、次にぶつかるはずの相手がドンだったのだから、そういう意味では別に不思議でも何でもないんだろうけど。
ともあれ、ドン本人はともかくとして、わたしとはちょっと因縁のある相手である。十日ほど前に見た砂色の機影と獣めいた鋭い挙動を思い出して、思わず口の端がちょっと上がり気味になっていく。
「……ふふん、ちょっと覗いてみようかな?」
そうして、更衣室を素通りする。目的地までは歩いてそんなにかからない。何しろ、ドンが居るのはすぐ隣のシミュレーションルームなのだ。時間にしてせいぜい一、二分かかるかどうかというところで――ほら、そんなコトを考えているうちにもう着いた。
「お邪魔しまーす……っと」
言いながら、ぶ厚い自動ドアを潜る。部屋の構造はさっきまでいたのとほぼ同じだ。コンクリート張りの床に、鉄骨に鋼板という武骨な造りの内壁。向かって正面に資材搬入用の大型の鉄扉があり、左手には壁一面に広がった大型モニター。そして中央には、マットな質感の黄金色に塗られた、頭部と胴体部だけになったネクストの姿。
幅広の胸板を持ちながらもすっきりと纏まった、どこかヒロイックな印象の胴体部はローゼンタール製の中量級コア《CR-HOGIRE》なのだが、一方で頭部はというとそれとだいぶかけ離れた印象だった。大きめの一つ目と左右に展開するアンテナ状のパーツが印象的な細身の頭部が、二本の長いシリンダーアームでもって基部と繋がっていて、総じてキリンか首長竜の頭に見えなくもない。胴体部とは根底から異なるデザインの、まさしく異形としか言いようのない頭部だったが、これがこの機体の機体名を決めているオーメル・サイエンス製の軽量級頭部パーツ、《HD-JUDITH》だった。
さて、このシミュレーションマシンと化したオーメルの旧標準機《タイプ・ユディト》は、こちらから見て左手にある大型モニターを睨むように配置されている。そしてその足元というか胸元には、GAの制服を着た何人かのスタッフたちがいて、まるで物言わぬネクストを倣うかのように、呆然とモニターを見つめ――呆然と?
そこで違和感を持った。ここにいるスタッフはその全員が、GAの開発部から選別された、いわば技術屋のエースと言ってもいい人たちである。そんな彼らであるからして、並大抵の事態でおたおたするような事はない。何しろ、昨今のありとあらゆる兵器と、ありとあらゆる戦いが、その頭脳の中に叩き込まれているのだから。だが、そんな彼らでさえも呆然と見つめるしかない光景が、そこにはある……?
「な、何……? いったいどうしたっていうの?」
手近にいたスタッフの一人――比較的年が近い女性スタッフに話しかける。彼女はこちらの姿を見て、「あ、メイちゃん……?」と声を上げたが、如何にも心ここにあらずといった感じで、すぐに大型モニターに視線を戻していた。釣られて、わたしも大型モニターに視線を移し――
「な――何なの、これ……!?」
結局、そんな一言を漏らしていた。ただただ大型モニターを見上げる彼らと同じように、呆然とそこに映っているものを見上げる。
どこまでも晴れ渡った青空の下、地平線の果てまで広がる、黄褐色の砂の海。その中にはすっかり朽ち果て、ボロボロになった建造物がところ狭しと林立しており、遠目には墓石の群れのように見えなくもない。
北米大陸に実際に存在する廃棄都市、旧ピース・シティ・エリア。
かつて“アナトリアの傭兵”と旧レイレナード陣営の最精鋭ネクスト部隊が激突した舞台としても有名な場所で、機動戦を行うのに有利な広大な砂漠と、地形戦を行うのにうってつけな豊富な障害物という、相反する二つの要素を併せ持った地形を持ち、オーダーマッチにおいて特に人気があるとされるステージである。
そしてそこでぶつかり合うのは、何の因果か、その砂漠の景色に溶け込むような色をした機体同士の戦いだった。
片方の砂漠迷彩に塗られた《ニューサンシャイン》ベースの機体は、ランク二十四位のネクスト、《ワンダフルボディ》。そしてもう片方、砂色と焦げ茶色に塗り分けられた《タイプ・ランセル》ベースの機体は、ランク三十一位のネクスト、《ストレイド》である。
その二機のネクストは、ちょうどステージの中央付近、廃棄されたビル群が林立するエリアで戦っていた。
――いや、それは戦いと呼べるものではなかったのかもしれない。
さながらそれは、見本のようなものだった。人間と野生の狼を一対一で戦わせれば、いったいどうなるのか、という。
『くそったれが!』
罵るような怒声を上げながら、《ワンダフルボディ》が右腕のガトリングガンを乱射する。六つの砲身が束ねられた銃身が高速で回転し、五発に一発の割合で仕込まれた曳光弾が、ぶつ切りになった光の線を虚空に描いていく。セオリー通り、射手を中心とした扇状に展開された弾幕は、立ち並ぶ廃ビルを粉砕しながら敵の進行ルートを塞いでいき――しかし、廃ビルの側面を蹴り崩しながら加速した敵の速度は、それをすら振り切っていた。
一瞬で弧を描く火線を振り切った《ストレイド》が右腕を持ち上げ、直付け式になったレーザーライフルを撃ち散らしていく。砂塵を切り裂いて照射されたオレンジ色の光条が《ワンダフルボディ》の胸部正面装甲を焼き貫き、続けざまに放たれたもう一発が、弾丸を撃ち散らしながら回転していたガトリングガンの砲身を直撃していた。
六本ある砲身がことごとく焼き切られ、次の瞬間、そこを通過しようとした銃弾が暴発を起こす。内側から膨張し、細い砲身をホウセンカめいて張り裂けさせた炎は、次の瞬間には銃身を通じて薬室はおろか、その上部にあるカートリッジ状の弾倉に引火していた。たまらず《ワンダフルボディ》がガトリングガンを放り投げると、それは手を離れるや否や爆発し、紅蓮の炎と無数の鉄屑をばら撒いていった。
『やりやがったな!』
吠えて、左腕の拡散式無反動砲を持ち上げる。だが、それを見た《ストレイド》は即座に逆方向へクイックブースト。一瞬で右から左へと転進した砂色の機体を追いきれず、四発に分かたれた成形炸薬弾が虚しく宙を泳いでいった。
慌ててリロードが済んでいない砲身を向けるが、その時には既に《ストレイド》は後退し、建物の影に身を隠していた。障害物を隔てた事によってロックオンが途切れ、敵機を見失った《ワンダフルボディ》は、舌打ちの音を残しつつ後退。レーダーの光点を頼りにブースト機動で距離を取りつつ、拡散式無反動砲を右へ左へと向けていった。
『はぁ……はぁ……くそっ!』
荒く息を吐いたドンが、悪態をつく。
《ストレイド》が続けざまに襲ってこないのは、《ワンダフルボディ》の左腕に装備された拡散式無反動砲を警戒しているからに過ぎない。こと近距離戦では強大な攻撃力と衝撃力を併せ持った武器の存在が、辛うじて《ワンダフルボディ》の命運を繋ぎ止めていた――そんな感じだった。さながらそれは、人間が拳銃で獣を追い払うのに似ていた。
……だが、その拳銃が相手にとって脅威にならないとしたら。それを無力化する術を、獣の側が心得ていたとしたら。
『…………!』
そうして数秒後、完全にエネルギーを回復させた《ストレイド》が、建物の影から躍り出る。《ワンダフルボディ》めがけてまっすぐに襲い来る砂色の機体が、レーザーライフルを撃ち散らしていき――そこに待ってましたとばかりに、《ワンダフルボディ》の拡散式無反動砲の砲身が向けられ、二次ロックオンを待たずに発砲した。
発射直後に四発に分裂した成形炸薬弾は、それ単体でも、わたしが使っている通常のネクスト用無反動砲の半分近い威力がある。それが四発、つまり全弾当たれば通常の倍の威力を持つそれらが、逃げ道を塞ぐように殺到したが、実のところ《ストレイド》は、その一瞬前には既に右方向へ地を蹴りながらのクイックブーストでもって、その射線から抜け出していた。
攻撃を直前で避けたのではない。最初から攻撃を読んでいたとしか言えないタイミングだ。一見して不用意に見えた直進はブラフ。拡散式無反動砲のトリガーを引かせ、隙を突くための餌だったのだ。
『バカなっ!?』
信じられないとばかりにドンが呻くが、まだそれで終わったわけではなかった。横っ飛びに移動した《ストレイド》は、着地の瞬間にまたしても地を蹴りながら前方へ向けてクイックブースト。今度こそ《ワンダフルボディ》に向けて斬りかかるべく、左腕のレーザーブレードを振りかぶっていた。視界の外からの攻撃に移動もままならない《ワンダフルボディ》が、とっさに左腕を盾にしようと持ち上げて――
ザン、と鈍い音が響く。紫色の軌跡をなぞるようにして、オレンジ色に灼けた二つの断面が顔を覗かせる。すれ違いざまに斬りつけたレーザーブレードは、《ワンダフルボディ》本体をこそ溶断しなかったものの、代わりに盾にしようと掲げた左腕ごと、拡散式無反動砲の基部をばっさりと両断していたのだ。
『うぉおおおおおおっ!?』
ドンの絶叫が響く。超高熱に晒された弾倉が誘爆し、有澤のグレネード弾にも匹敵する規模の爆風が吹き荒れたのだ。
真っ赤な炎が戦場を呑み込んでいく中、両者の対応は実に対照的だった。片や、まともに爆風を浴びて左半身を焼け焦げさせた《ワンダフルボディ》。そしてもう片方、砲身を両断した次の瞬間には地を蹴りながらのクイックブーストでもって、強引に被害半径から機体を離脱させていた《ストレイド》。急速に後退し、砂地に二本の長い足跡を刻みゆく砂色の機体のカメラアイがぎらりと輝き、無様を晒す獲物をあざ笑ったかのようだった。
時間にしてわずか三秒。瞬く間とも言えた、しかし複雑な一連の攻防に、わたしはぞくり、と背筋が凍る思いを感じていた。
「よし! 何とか防いだぞ!」
スタッフの一人、主任と思しき中年男性が喝采を上げたが、わたしは絶望的な気分でそれに頭を横に振る。
……違う。一見して《ワンダフルボディ》がレーザーブレードの直撃を防いだように見えるけど、本当はそうじゃない。《ストレイド》の狙いは始めから拡散式無反動砲の方にこそあった。勝負を急いで機体本体を狙うよりも、まずやっかいな拡散式無反動砲の方を排除しにかかったのだ。機体の横方向から斬りつければ、とっさにそちらのほうの腕を盾にしてしまう――そういった敵の心理すら、巧妙に計算して。
『……これがネクストの動きだと!? じゃあ、俺は何だってんだ!?』
それを相対する本人が一番肌で感じていたのだろう。驚愕と困惑、そして何よりも恐怖を滲ませ、ドンが呻く。
近距離戦で最強の手札である拡散式無反動砲を失った《ワンダフルボディ》に、もはや抵抗らしい抵抗ができるはずもなかった。残った有効策はただひたすらに後退しながら両背部の垂直式ミサイルランチャーを撃ち散らしていくだけだったが、明確に機動性に劣る《ワンダフルボディ》では、適度な距離間が必要な垂直ミサイルの有効射程を維持するのはそもそも不可能に近かった。
だからなのだろう。《ワンダフルボディ》はさっき破壊されたガトリングガンの代わりに、脚部の格納スペースに隠し持っていた小型のハンドガンを取り出し、その手に握ろうとして――次の瞬間、そのハンドガンごと、右手をオレンジ色の光条が焼き貫いていた。《ワンダフルボディ》の動きを察知した《ストレイド》が、直前でそれを阻止したのだ。
『ちくしょうっ!』
ドンが上げた声は、もはや悲鳴に近かった。今度こそ両腕の武器を完全に失った《ワンダフルボディ》が、バックブースターを全開にして急速後退。両背部のミサイルランチャーを展開させていったが、《ストレイド》はそれを何ら意に介す事なく急速に前進してくる。
これが通常の前方に放つタイプのミサイルであれば、ノーロックだろうがともかく前に向けて撃ち、ミサイルの弾幕を張るという手もあったのだが、《ワンダフルボディ》が装備しているのは両方ともいったん上空に向けて放つタイプのもの。もはや前方から迫り来る《ストレイド》を止める手立てはなく――
『…………!』
既に無抵抗も同然となった《ワンダフルボディ》を真正面から睨みつけながら、《ストレイド》が裂帛の息を漏らす。弓を引き絞るように上半身を捻りながら、左腕のレーザーブレードを展開。噴射と同時に地を蹴る、あの独特の動きで急加速して、あっという間に《ワンダフルボディ》の至近距離に到達した《ストレイド》は、東洋の剣術である“居合”めいた、神速としか言えない速度で左腕を振るっていた。
『うわぁあああああああああっ!?』
思わず悲鳴を上げた《ワンダフルボディ》の視界を、紫色のスパークが埋め尽くす。
“竜殺し”の名を冠する太く短い光の刃が、左の正面装甲から腹部の装甲にかけて、そしてその下にあるコックピットを深々と抉り斬る。真っ二つに斬り裂かれた胴体部がばちばちと火花を散らし、モニターに月と隻眼の狼のエンブレムが大写しになって――大型モニターの左上に表示された《ワンダフルボディ》のAPが、一瞬でゼロになった。
こちら側のシミュレーターが、リンクスを直接潰されたと判断したのだ。
そうして制御を失った《ワンダフルボディ》は大きくのけぞった後、そのカメラアイから光が消え――次の瞬間、まるで糸の切れた操り人形のように、がくり、と崩れ落ちる。全身から過電流のスパークを散らしながら片膝をついた砂漠迷彩の機体が、降参の意を示すかのように頭を垂れる中、砂色のネクストはそれが勝者の権利だとでも言わんばかりに、傲然とその姿を見下ろして、
『これは……! 負けたってのか、俺が……!』
一拍遅れて、呆然としたドンの声が虚しく響き渡る。もはや身じろぎもできなくなった《ワンダフルボディ》の後ろ姿を背景に、赤い文字ででかでかと“LOSE”と表示されて――そうして、一つの戦いが終わりを告げたのだった。
****
――そうして、衝撃的な敗北から数分ほど経った頃。
「うう……うおお……ううっ……」
《ワンダフルボディ》陣営のシミュレーションルームは、今や即席のお通夜会場と化していた。
敗北の当事者であるドンは、あまりにも無残な敗北がショックだったのか、数分近く経った今になってもシミュレーターから出てきていない。そしてシミュレーターを取り囲んで必死に応援していたスタッフたちもまた、打ちひしがれたかのようにがっくりと膝を落としている。いい年した大の大人であるはずの彼らは、その全員が周囲を顧みずに悔しげに涙を流していた。呆然と天を仰ぐ者や、床をどんどんと殴りつけるような者までいたほどだ。
「なんてこった……。GAの技術の粋を結集させた新型ネクスト、《ニューサンシャイン》がここまであっさりと……」
「ちくしょう……ちくしょう……! これが……これが本物のネクスト戦力だっていうのかよ……!」
「我が社の命運を賭けた“ニューサンシャイン・プロジェクト”の代表格であるカーネル大尉が、こんな……! 我々の計画はまだまだ甘かったというのか……!」
……うん、甘い。こう言っちゃなんだが、大甘もいいところだ。
内心でそんな感想を抱きながら、わたしは男泣きに泣きむせぶGA社開発部スタッフの面々を、冷めた目で見下ろしていた。
従来機よりも装甲と運動性を高め、何よりも火力に優れた機体を開発する。それはリンクスの大多数を占める低AMS適正者、いわゆる“粗製”リンクスでも問題なく運用できるものでなくてはならない。そしていずれは数を頼りに、一流どころのネクスト戦力相手にも通用するものに育て上げる――
リンクス戦争後にGAが大々的に展開した最新鋭ネクスト開発計画、“ニューサンシャイン・プロジェクト”の、それが真意とされているものである。新世代のネクスト戦力などという大層な謳い文句を掲げてはいるが、その実像はネクスト戦力の開発に出遅れて久しいGAの、焦りとご都合主義とスケベ根性の発露みたいなもの。高AMS適正者の運用を前提とした性能第一主義を掲げるオーメルやインテリオルなどのそれと、とても比較できるようなものではなかった。
第一、そんな都合のいい考えが、そうそう上手くいくワケがないのだ。機体性能のみでAMS適正の不利を補う、なんてコトが簡単に達成できるようならば、わたしたちリンクスは今ごろ全員ご飯の食い上げ状態だ。アームズフォートなんて金食い虫も同然の巨大兵器も、きっと生まれていなかっただろう。
そして、やはりというか現実は甘くはなかった。ドンを始めとした“ニューサンシャイン・プロジェクト”出身のリンクスは揃いも揃ってカラードから低い評価を受けてしまい、GA社の主力兵器もネクストからアームズフォートへと移行していったのだ。そうなって初めて、GAの基本コンセプトである「戦争とは物量とパワーである」という文言の正しさが証明されたというのは、皮肉というかなんというか。
……とはいえ、彼ら開発部の努力を認めるのは、決してやぶさかではないのだが。なんだかんだ言って、《ニューサンシャイン》はいい機体だし。
ため息一つついて、再び大型モニターに視線を戻す。《ストレイド》は近距離から《ワンダフルボディ》を見下ろしたまま、傲然と立ちつくしている。勝利の余韻に浸ってでもいるのか、あるいは他の事情があるのか――何にせよ、そこに機体があるという事は、まだシミュレーターとの接続を切っていない証明でもあった。
その姿を見上げながら、わたしは顎に手を当て、考える。
(まあ、ドン相手に圧勝したから何だと言われればそれまでだけど……でも、相当な腕前なのは間違いないのよね。何しろ、ダンやドンはともかくとして、あのミセス・テレジアにも勝利してるわけだし)
オーダーマッチに正規登録されている中では最下位である三十位のチャンピオン・チャンプスから、二十四位のドンまで。計七人のリンクスと《ストレイド》は戦い、これに勝利を収めてきた。
ここらへんのリンクスは、ダンのように企業の支援を受けていないリンクス――いわゆる独立傭兵と呼ばれるリンクスが大半を占めている。カラードに入ったばかりの新人から、歳だけ食ったベテラン紛いまで多種多様だったが、おおむねリンクスとしては低レベルな部類となる。独立傭兵なんてやっているのも好き好んでではなく、企業の支援を受けたくても受けられないからだと言われていて、そのあたりが近年におけるリンクスというものの質の低下が云々などと言われる原因にもなっていた。
だが、そんな弱兵めいた独立傭兵たちに囲まれながら、しかし明確な異彩を放つ、例外というものが存在した。
それがランク二十九位のリンクス、ミセス・テレジアである。
このミセス・テレジア、かつては旧GAEに属していたれっきとした“オリジナル”の一人で、リンクス戦争の直前に起こった旧GAEの離反騒ぎの時に一緒にGAを離反。そうして現在は、旧GAEとアクアビットの残党が立ち上げた新興企業、トーラス社に所属する唯一のリンクスとなっている。
仮にも“オリジナル”の一柱という輝かしい肩書を持ちながらも、もっぱら汚れ仕事のみを請け負ってきたという珍しい経歴を持ち、現在ではほとんど出撃する事もない。そのせいか、カラードでも不当と言ってもいいレベルで低く評価されているが、国家解体戦争とリンクス戦争という二つの戦いを生き残ったその実力は、紛れもない本物であった。
コジマミサイルを始めとした最新鋭の武装と、トーラス・アルドラの新鋭フレームによって構成された重四脚機《カリオン》の機体性能は、各社の最新鋭ネクスト顔負けの強力さであり、何よりリンクス本人の実力も、ウィン・D・ファンションやスティレットなどのインテリオルの最上位リンクスに引けを取らないと噂されている。それほどの実力を有しながらも、本人は平然とした顔で下位リンクスの地位に甘んじているのだから、カラードきっての“奇人”と呼ばれるのも納得というものだった。
そんなミセス・テレジアの奇行は、むしろオーダーマッチにこそ顕著に表れており、実力がない相手は自分から試合を放棄して先に進ませ、逆に十分な実力があると認めた相手は徹底的に叩きのめす、性悪極まりない“ルーキーブレイカー(新人殺し)”としても知られていた。
だが、そんな彼女にすらも、あの《ストレイド》は勝利してきたのだ。それだけでも、《ストレイド》が各方面から注目されていた理由が分かろうというものだ。
……ん? わたし? ええ、新人の頃はこてんぱんにやられましたとも。そうして両手の指が足りなくなる位まで挑み続けて、ようやく辛勝で突破しましたとも、ええ。
ちなみに、その時のミセス・テレジアのコメントは、
『あらごめんなさいね~、メイちゃん♪ ホントはもっとスマートに勝たせてやりたかったんだけどぉ。あまりにもメイちゃんがイジメ甲斐があるものだから、ついお姉さん張り切っちゃって、ね~♪』
などという、褒められているのか貶されているのかよく分からないものだったりする。
……話が逸れてしまったが、そんなミセス・テレジアを下した《ストレイド》のリンクスは、このわたしにとっても気になる存在ではあったのだ。しかも、割りと強めに。仮にリッチランドでの協働がなかったとしても、いつかきっとこのリンクスに何らかの関心を示していただろう。
そして、その相手が今、手を伸ばせば届くくらいのところに居る――
(それじゃあ、手を伸ばさない手はないってもんよね……!)
決心し、独り頷く。そうと決まれば善は急げ。わたしはヘルメットを被りながら踵を返すと、未だ泣き崩れるスタッフたちには目もくれず、部屋の中央にあるシミュレーターめがけて走り出した。くすんだ黄金色をしたネクストの正面まで行くと、胴体部正面に増設されたタラップを登り、首元に設けられたハッチに取りつく。
ネクストのハッチに、外部スイッチというものはない。もしも敵兵に肉薄され、外部から開けられようものなら大変なコトになるからだ。だから、外部から強制的に開ける時はパソコンとかを繋いで、電子的にロックを解除するという仕組みになっているのだが、
「さて、と……じゃあ、いっちょ行きますか」
一言呟いて、パイロットスーツのポケットから、両側に端子がついた細いケーブルを取り出す。
わたしの首の後ろには、AMSに接続するためのジャックがあるのだが、その形状としては、まずメインとなる大型のものが脊髄の直上にあり、その左右にサブとなる小型のものが二つ配置されている。文字で例えると、“小”というような感じだ。
で、そのうちのサブの方に、ケーブルの片方を接続させる。こっちの方なら差し込む時の感覚はさして大きくなく、比較的抵抗感なくやれる。そうして、ケーブルで繋がったもう片方を、シミュレーターのハッチ脇に設けられた接続端子に差し込む。静電気めいた感覚とともに、わたしの意識がケーブルを介してシミュレーターへと流れていき――
(ん……、これがファイアウォールで、こっちが開閉プログラムね……よしよし、いい子いい子……)
通常のネクストと違って、ハッキング対策は常時更新されていない。疑視化された電子の海を泳いでいくわたしの意識は、あっという間に旧式の防壁を掻い潜り、最奥にある開閉プログラムへと辿り着いていた。開閉プログラムにイメージの手をかざし、意識を集中させる。そうして、数秒も経たないうちにロックが解除され、甲高い空気音とともにハッチが上方向に開いていく。
それを確認し、意識を体の方に戻したわたしは、首筋からケーブルを引っこ抜き、ハッチが上がりきるのを待たずに体を滑り込ませる。GA機のそれと比べて若干狭いコックピットの中、わたしの目と鼻の先に、胸元を押さえるガードバーと無数のシートベルトで拘束されたサンドカラーのパイロットスーツ姿があった。
「ええと……ノックして、もしもーし?」
そのヘルメットをこんこんと叩いていくも、返事はない。パイロットスーツに覆われた胸板が上下しているから、少なくともショック死はないだろう。HMDの防眩機能のせいで顔は見えないが、その中で呆然とした間抜け面をしているのは想像がついて、仕方なくアームレストの外側にある赤いボタン――非常用に設けられたAMS接続強制中断ボタンを押し込む。
甲高いブザー音とともにドンの全身を拘束するシートベルトが、胸元を押さえるガードバーが外れていき、次いで首の後ろに深々と突き刺さっていたAMS接続プラグが一息に引き抜かれ、
「うごっ……!?」
くぐもった悲鳴とともにドンの体がびくり、と跳ね上がる。何が起こったのか理解できずに首を振る彼の眼前で、ひらひらと手を振ってやると、ドンはヘルメットの脇のスイッチに手をやり、バイザーを跳ね上げさせて、
「お、おぉい!? お、お前なぁ! な、なんつぅコトしやがるっ!?」
怒声を上げて詰め寄ってくる。そんな彼に構わず、わたしは詰め寄ってくる体をぐいぐいと引っ張ると、
「ま、いいからいいから。ほら、さっさとそのデカい尻をどけてちょうだいよ、っと」
それに、ドンは「で、デカいケツだぁ!? お前にだきゃあ言われたくねぇよ!」と悪態をつきつつも、シートに沈めていた体を起こしてくれる。そうして、コックピットの入り口ですれ違うようにして両者の位置を入れ替えたわたしたちは、片方はハッチの外へ、そしてもう片方――わたしの方は入れ違いにシートに身を沈めていた。スーツ越しにわずかに感じられる体温に顔をしかめつつも、シート脇に設けられた接続端子に《メリーゲート》のメモリーユニットを差し込む。データを読み込んでいく際の電子音が響く中、体を取り巻く幾重ものシートベルトを順次締めていって、
「……おい、お前、何する気だ? まさかとは思うが……」
ハッチ脇のタラップにぶら下がりながら聞いてくるドンに、「ハッチ閉めるよー」とだけ返す。そうしてアームレスト先端部に設けられたコンソールにコマンドを入力し、
「いっ……!」
降りてきたガードバーが胸元を押し潰し、次いで首の後ろに突き込まれたAMS接続端子が、わたしの首筋のジャックに突き刺さっていく。大小三つのジャックの全てがAMS接続プラグによって埋め尽くされ、生理的な嫌悪をもたらす灼熱感が脊髄を貫くが、次の瞬間にはそれすらも上回る、膨大な量の情報の波によって全ての感覚が押し流されていく。そうして、
『全システム、チェック終了。メインシステム、戦闘モード起動します』
統合制御システムの宣言とともに、暗転していたモニターや計器に光が宿っていく。同時に、ぷしゅう、と空気が漏れるような音とともにハッチが閉まっていき、そこからこちらを覗いていたドンが慌てて顔を引っ込めるのが見えたのを最後に、視界が暗転し――そうして次の瞬間、わたしの“眼”は荒涼とした砂漠と並び立つ廃ビルの群れと、その中に佇む砂色の影を見据えていた。
『…………!?』
驚愕の気配を残して、その砂色の影――《ストレイド》が急激な勢いで飛び退っていく。そのリンクスである彼だか彼女だかの目には、大破した《ワンダフルボディ》の残骸が、急に《メリーゲート》に入れ替わったかのように見えたのだろう。
そうして、数百メートルは離れたであろう《ストレイド》を尻目に、完全に人機一体となった《メリーゲート》が、ゆっくりと立ち上がる。そうして、各システムや機体に異常がないのを確認すると、わたしは通信回線をオープンにした。
「……あー、あー……え~と! そこの砂色のネクストの人? 聞こえてるかな?」
とりあえずこちらの様子を見定めているのであろう《ストレイド》めがけて、全ての周波数を使って呼びかけてみる。それに、後退中だった砂色の機体が着地し、砂地に長々とした跡を刻みながら停止。右腕に握ったレーザーライフルを構えつつ、正面からこちらを見据えていた。……うん、とりあえず話を聞く位のつもりはあってくれたようだ。
「お久しぶりね、《ストレイド》のリンクスさん。十日振りくらいかしら? 元気してた?」
努めてフレンドリーな口調で語りかけるわたし。すると、それに答えたのは《ストレイド》のリンクス本人ではなく、
『……乱入してくるとんでもないヤツがいるから誰かと思えば、リッチランドの時のGAのリンクスか。いったい何の用だ?』
あからさまに剣呑な雰囲気を帯びた、低い女の声が流れてくる。リッチランドの時にも聞いた声。《ストレイド》の専属オペレーター、セレン・ヘイズだ。ミッションの時だけでなく、こんなところにまで出しゃばってくるとは、噂通りの過保護っぷりのようだ。
わたしは《メリーゲート》の右腕のライフルを持ち上げ、《ストレイド》に向けさせる。びしり、と音がしそうなぐらい決まったポーズをつけさせると、あらかじめ考えておいた前口上を口にした。
「え~と……よくもドンをやってくれたわね! 確かにAMS適正は低レベルだし、ベテランめいた大口叩くわりにてんで弱くて、挙句にあ~んなエッチなエンブレムしてるような最悪のスケベ野郎だけど、それでもまあ仮にもわたしの良き先輩……? のような気がしなくもない、ドンを!」
その途端、シミュレーターの外部マイクを通じて、『おい、待てやコラ』などという突っ込みが入ってくるが、そんなものはもちろん無視だ。わたしは真正面から《ストレイド》を睨みつけて、
「……というワケで! わたしとも一戦、戦ってもらうんだからね!」
と力いっぱい宣言する。するとそれを聞きつけたのか、外部マイクから何やら騒ぎ立てる声の数々が入ってきていた。
『お、おい! 見ろ! グリンフィールド少尉がアイツに挑むつもりみたいだぞ!』
『戦闘データの解析は引き続き行っておけ! 最優先でだ!』
『頼みます、少尉殿! カーネル大尉の……そして俺たちの仇をっ!』
『きゃーっ! メイちゃん頑張ってー!』
だが、この騒ぎを聞きつけたのはこちらの外野だけではなかった。施設内部から強制受信コード付きの通信が送られてきて、自動的に通信回線が開かれたのだ。
『――ら、カラード管制局! こちら、カラード管制局! メイ・グリンフィールド、どういうつもりです!? この試合はもう終わっています! 終了した試合結果に介入する事は、何人にも許される行為ではありません!』
メインモニター正面に、切迫した表情をした若い女性の姿が映し出される。オーダーマッチを管理・運営する、カラードのスタッフからの通信。それに、わたしは平然とした声で、
「お生憎さま。終わった試合の結果なんてどうでもいいの。わたしはただ、そこの砂色のネクストと一戦交えたいだけよ」
『ならば、正規の手順を踏んで、試合を申し込んでください! でないと――』
「でないと、賭け試合にならないから。違う?」
ずばり、と相手にとって急所であろう事実を口にしてやる。
かつて都市部への直接攻撃という暴挙に走り、その果てに滅ぼされたレイレナードとアクアビット。その二の舞を防ぐために、現存するネクスト戦力を公正に、機能的に、そして何よりも最低限の良識をもって運用する事を目的に設立されたのが、リンクス管理機構カラードである。
しかしその理念は十年もの歳月を経た今や、見る影もなく腐り果てていた。わたしを含めた大半のリンクスは以前と変わらずに企業のお抱えとなり、カラードという組織そのものもまた、各企業の息のかかった仲介人やブローカーの溜まり場となってしまっていた。一部では闇マーケットめいたパーツやら何やらの違法売買も横行し、さらにエンリケ部長から聞いた噂では、もはや企業ですらない裏組織からの、テロ紛いの非合法な依頼までも扱っているらしい。組織の建前だったはずの最低限の良心とやらは、既に跡形もない状態だったのだ。
そんな腐った連中が主催するオーダーマッチが、公正明大、清廉潔白な試合なんかであるワケがない。試合結果をめぐって、裏で賭博めいた資金のやり取りが行われていたり、一部の下位リンクスの試合では八百長めいた事態にすらなっている事など、GAはとうにお見通しなのだ。
……まあ、それは同時に、そこまで知っていてなお、GAの上層部が放置してるってコトでもあるんだけど。
『――っ!? な、何の事でしょうか? 我々には貴女の言っている事が、よく分かりません。このオーダーマッチは、カラード内のリンクス同士の切磋琢磨を目的とした、崇高なものです。裏で賭け試合を行うなどという事は、断じて――』
案の状、全力でとぼけてくるカラードのスタッフ。でも、それこそこっちの思う壺というやつである。わたしはヘルメットのバイザーを開け、にこやかな笑みすら浮かべてやって、
「へえ、そうなんだ? ――なら、何も問題はないわよね?」
そう言って、カラードからの通信ウィンドウを脇にどける。カラードのスタッフはまだ何やらまくし立てているようだったが、そんなものはこっちで音量を絞れば問題ない。
そうして、上げたバイザーを再び下ろし、視線を正面の《ストレイド》に移す。砂色のネクストはこちらを警戒するかのように身構えていて、以前のように無言を貫くリンクスに代わって、オペレーターのセレン・ヘイズが通信を送ってくる。
『……何が、何も問題はない、だ。大有りだ。カラードの腐敗など今さらの事だが、それこそ我々に関係する話ではあるまい。言っておくが、こいつは騙し討ちも同然の行為だぞ。格下がやられたら襲いかかってくるなど、ヤクザの兄貴分か何かか、お前は?』
……む、騙し討ちだなんて、失礼な物言いだ。それにヤクザだの兄貴分だの、ずいぶんと古風な言い回しをするものだ。
「あら、騙し討ちなんて、そんな卑怯な事するつもりはないわ。現に――ほら」
そう宣言し、AMSを介して複雑なコマンドを入力する。途端、《ストレイド》の姿に強いノイズが奔る。ノイズは身構える砂色の機体の爪先から登頂までを這い回っていき――そうして次の瞬間には、その身にわずかばかり刻まれた弾痕が、きれいさっぱり消え失せていた。電脳空間を維持しているカラードのスーパーコンピューターにわたしがAMSを通じてハッキングし、《ストレイド》のAPや消耗した弾薬などを、全て初期値に書き換えさせたのだ。
『……何だ? 貴様、今何をした?』
セレン・ヘイズの声が、もはや殺気すら帯びたものに変わる。明らかにわたしの手による不可解な現象に、警戒度がマックスに切り上げられたのだろう。
……ちなみに、さっきみたいに対戦中のシミュレーターに強制的に割り込んだのも、今やった相手データへのハッキングも、このわたしの高いAMS適正とハッキング技術があればこその芸当だ。ふふん、ちょっと自慢。
「まあ、単純に虫の居所が悪いってのもあるけどさ。わたしはただ純粋に、あなたたちと戦ってみたくなっただけ。あの《マザーウィル》を撃破した、あなたたちと」
『ふん、知らんな。八つ当たりなのか功名心に駆られてなのかは分からんが、そんなものはお前の事情だ。今の事もある。明らかに罠と知れているものに、こっちが付き合う義理もない』
……むう、取りつく島もないとはこの事である。やはりその場のノリで押し切るには無理がある相手だったか。ならば、しょうがない。こちらにとっても後々痛い話にはなるが、背に腹は代えられないというし。
そうして、わたしは努めて余裕ぶった口調で言い重ねた。
「あら、言っておくけど、あなたたちにもメリットはあるわよ? もしもここでわたしが負けたら、正規のオーダーマッチでわたしと対戦する番が来た時に、わたしの不戦敗というコトにしておいてあげるからさ」
『……何だと? それは本当なのか?』
そう言った途端に、セレン・ヘイズがこちらの話を聞く気配を見せてくる。全く、現金なものである。
……とはいえ、こっちも内心冷や汗ものだったりするのだが。ただでさえ後で文句を言われるのが分かりきった行為なのに、勝手にこんな口約束をしていたと知れたら、GAの上層部やエンリケ部長やフランさんに何を言われるか。それに、正規のオーダーマッチの成績は、今期のボーナスに直結する。別にお金に困っているワケではないとはいえ、ことお金が絡む話なので、できればこれだけは避けたかったのだが……まあ、負けなければそれで済む話だし、と開き直る事にする。
「たかが賭け試合のために、いちいちカラード本部くんだりまで来るのはイヤでしょう? 互いにスケジュールを合わせるのも面倒だしさ。お互いに手間が省けるんだもの。そちらにとっても、悪い話ではないと思いますが?」
余裕ぶった口調のまま、続けて言ってやる。最後の方は嫌味で陰険で慇懃無礼な事で有名なオーメルの仲介人の口調を真似て、だ。……うん、何だか楽しくなってきたぞ。
『だから、賭け試合じゃなくて……!』
などと言い訳をしようとしたカラードの管制官の声は、両者とも聞かなかった。
『…………』
《ストレイド》が無言のまま、一歩前に出る。バイザーの奥のピンク色の複眼が、獲物を求めて血走るかのように輝いていき、
「……ふぅん。やる気というワケね、それは結構!」
こちらも合わせるようにして一歩前に出る。同じく強い光をカメラアイに帯びた《メリーゲート》が、その両腕に握ったライフルと無反動砲を眼前の砂色のネクストへと向けて、
「見せてみなさい! あなたの力を、さ!」
そう、力強く吠えて両手のトリガーを引き。
後々、わたしにとっていろんな意味で忘れる事のできない激しい戦いが、幕を開けたのだった。
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