Written by ウィル


 ――そうして、その次の日から、おじさんは毎日病室に顔を出すようになった。
 あの日持っていたぼろぼろのギターケースを、おじさんは持っていなかった。代わりに持っていたのは、これまた年季が立った大きめのアタッシュケース。色褪せた革張りのケースは、表面のでこぼこが今はもう存在しない国家の国旗を表している。その上から色々なシールがべたべたと貼られているのは、あのギターケースと同じだった。
「あの後、ここの看護婦さんに本気で怒られてな。あれを持ち込んだら出入り禁止、って言われちまったんだ」
 前の日と同じようにベッドの脇の椅子に、どっこいしょと腰かけながら、おじさんが言う。そうして、「まあ、この病院も色々と問題があったみたいだが……その辺はちゃんと病院の偉い人に話を通しておいたからな。もう心配はいらないぞ」と付け加え、にかっ、と明るい笑顔を浮かべていた。
 おじさんの風体もあって、まるでヤクザか何かの物言いのように聞こえなくもなかったが……実際、あの後からこの病院が色々と居心地が良くなっていたのに気づいてはいた。
 まず、検診にやってくる看護婦さんが別の人に変わった。それにつれて、それまでは腫物を触るような扱いだったものがより優しくて親身な感じになったし、時々聞こえていた看護婦さんたちのわたしへの悪口が、ぴったりと聞こえなくなった。検診の際も、下の階の診療室にこちらから行くのではなく、お医者さんの方が病室までやって来るようになった。だから、途中で街の人たちと顔を合わせる事もなく、以前のように罵詈雑言や物を投げかけられるような事もなくなった。
 それから、わたしの病室の前には“面会謝絶”の札が張られるようになって、近くの廊下には警備員まで配置されているようだった。だからおとうさんも面会に来なくなった――それに対して、一抹の寂しさも無かったと言えば嘘になる――し、何よりもあいつらが病室までやって来れなくなった。わたしにとって、これが一番大きかったかもしれない。
 ともあれ、またやって来た事に戸惑いを隠せないでいるわたしを尻目に、おじさんはアタッシュケースをごそごそと漁りながら、
「さて……今日はお嬢ちゃんのために色々とお土産を持ってきてあげたぞ。ど・れ・に・し・よ・う・か・な~……っと」
 そんなコトを呟きながら取り出したのは、大きな箱のお菓子だった。といっても、お菓子がたくさん入っているのではない。いわゆる食玩というヤツで、高価で大きな箱の割に申し訳程度のガムやキャンディしか入ってなくて、その付属品という名目で立派な玩具がついているというヤツだ。だいたいはこちらを目当てに買われているらしく、子供から大きな大人まで人気だという代物だが、生憎とおじさんが持ってきたものは、格好いいポーズを決めたロボットが描かれたものであり、どう見ても男の子向けだった。
「さ~て、やるぞー。まずは梱包を取って、と……」
 箱を開けて包みのビニールを破り、胴体と思しき部位に頭や手足を組み立てていく。あっという間におじさんの掌に乗るくらいの大きさの、デフォルメされた人型が組み上がり、
「凄いだろ、お嬢ちゃん。これは《サンシャイン》っていうネクストの模型でな。ちょっと小さい上に頭身がデフォルメされてるんだけど、最初から細かい塗装がしてある上に……ほら、手足や頭が動かせるんだよ」
 カーキ色と黒に塗り分けられた、四角くてゴツい人型ロボットの手足をぐりぐりと動かしながら、おじさんはきらきらと目を輝かせていく。ここの色分けがどうの、可動範囲がどうの、細かいディテールの再現度がどうのと熱心に語っていて――それを見てわたしは、正直言ってちょっと引いていたものだった。
「おまけにな、この別売りの追加パーツをつける事で武装も完全再現だ! バズーカにガトリングガン、二種類のミサイルランチャーに連動ミサイルまでも装備! しかも、だな……背部兵装をオマケの大型ミサイルランチャー二個に変えて、付属のシールを左肩に貼って……ほら! GA最高戦力の《プリミティブライト》の完成ってワケだ! どうだ、凄いだろ!?」
 左肩に貼られたシール――赤子を抱えた聖女の絵を指し示し、おじさんが誇らしげに言う。その機体の名にはうっすらと聞き覚えがあった。多分ニュースか何かで聞いていたのだろうが、その時のわたしにはどうでもいい事だったので、黙ってスルーしていた。それをどう取ったのか、おじさんは足元に積んでいた別の箱を持ち上げて、こちらに見せてきた。
「何なら、他の機体もあるぞ。《サンシャインL》に《サンシャインE》、《スターレット》に《キリツミ》……それとも、他のとこのネクストが良かったかな?」
 流石にうるさく思えてきて、首を横に振る。するとおじさんは心底残念そうな顔をして、
「そうか……興味ないかぁ……。俺の渾身の《フィードバック》モデル、見てほしかったんだけどなぁ……」
 色塗りに墨入れまで、頑張ったんだけどな。そんな恨み言めいた言葉を呟きながら、うなだれつつ食玩の箱の数々を鞄にしまい込むと、おじさんはとぼとぼと病室を後にしていったのだった。

 ――で、その次の日。
「おもちゃがダメならお洋服はどうだ? ここのお医者さんにサイズを聞いて、いろいろと見繕ってきたんだ」
 にこやかに笑ったおじさんがこちらに向けて突き出してきたのは、鮮やかなピンク色で、派手な花飾りがついていて、フリルやリボンでふりふりになっていて、何というか……“可愛い”としか言いようのない服だった。西洋のお人形さんがよく着ているような、と言えば分かるだろうか。他にも白いのとか黒いのとかあったけど、例外なく花柄でふりふりで、少女趣味もここに極まれり、といった感じだった。それを大の大人が――それもクマのように大きくて厳つい三十路のおじさんが選んだというのだから、そのギャップたるや相当なもので、苦笑いをこらえるのに必死だったのを覚えている。
「ほら、靴とか髪飾りとかもあるぞ。なぁに、お代は気にする事はない。こう見えて高給取りだからなっ! ……さぁお嬢ちゃん、着てみてくれ!」
 がはは、と笑いながらごつい手を突き出してくるおじさん。そして、目の前で揺れるふりふりのお洋服。それを、わたしは頬を引きつらせながら見返していたものだった。
 ……結局、その洋服は受け取らなかった。仮にも女の子の体のサイズを勝手に聞き出すなんてセクハラもいいところだと思ったし、何よりもあまりにも少女趣味が過ぎて、わたしの趣味じゃなかったのだ。それこそアナトリアにおとうさんやおかあさんと住んでいた頃は、もっとシンプルな、ともすれば男っぽい感じの恰好をしていたものだったし。
「あれ? 気に入らなかったか? おかしいな……女の子って皆、こういうのが好きなんじゃなかったのか……?」
 テレジアのヤツが昔、そう言ってたんだけどなぁ。そんなコトを言いながら、おじさんはまたもや残念そうに荷物を鞄にしまい込むと、とぼとぼと病室を出ていったのだ。

 ――で、その次の日も、そのまた次の日も、おじさんは病室を訪れていた。そして、そのたびに何かしらのお土産を持ってきた。それは大きなクマのぬいぐるみだったり、女の子向けのおもちゃだったり、クリスマスで貰うようなバケツ一杯のお菓子だったりした。そうして、それらの全てを、わたしは頑として受け取らなかった。それらを必要としなかったというのもあるし、ある意味で意地になっていたというのもある。で、そのたびにおじさんはしょんぼりとした顔をして、しかしその次の日にはにこやかな笑顔で病室を訪れるのだった。
 おじさんに対して、申し訳ないという気持ちがなかったと言えば噓になる。おじさんの言葉に嘘がない事も、こう見えて優しい人だという事も、彼なりに真摯にこちらの身を案じてくれているのもきっと本当なんだろうなと分かってはいた。でも、それでもおじさんを――自分以外の他人を信じるという気持ちには、どうしてもなれなかった。そういう風に思うには、きっとわたしは傷つきすぎていたのだろう。心も、体も、両方とも。

 ――そうして、そんな日々が十日ほど続いた、ある日の事。
 この日、おじさんが持ってきたのは、十何冊かの本だった。ジャンルはマンガ雑誌から週刊誌、子供向けの図鑑までさまざまで、とりあえず目についたものを片っ端から持ってきたという感じだった。正直言って興味もなかったけど、とりあえず義理でぱらぱらと目を通していく。その様を、おじさんは興味深そうに眺めていたものだった。
 ……ただ、ジュニアスクールの子供相手に、婦人用の週刊誌だのファッション雑誌だのレディースコミックだの、そういったものまで持ってくるのはどうかと思った。子供には難しい単語ばかりだし、最新の流行を紹介されてもこの歳で着れるような服なんてないし、政治だの芸能だののゴシップを知っても意味がないし――それにこういうのって意外と、えっちな絵や刺激の強い描写とかが平然と載せられていたりするし。挙句、この“こうのとりクラブ”って雑誌にいたっては、結婚とか妊活とかの本じゃないか。こんなものを子供に見せていったいどうするつもりなのか、小一時間ぐらいおじさんを問い詰めてやろうかと思ったりしたものだ。
「おっ、動物図鑑か。いいな、やっぱり子供は動物好きじゃなきゃな」
 うんうん、と訳知り顔で頷くおじさんを尻目に、とりあえず無難な動物図鑑に目を通していく。犬や猫、牛や馬といった代表的なものから、とうの昔に絶滅したさまざまな動物たちまで。色とりどりのイラストをつらつらと眺めていく傍らで、おじさんも音楽雑誌を読みながら、時折一方通行の会話を投げかけるという風になったのだった。
「へぇ……“FreQuency”かぁ……。最近はこういうのが流行りなんだなぁ……」
「…………」
「俺の若い頃は、ビートルズとかクイーンとか、ローリングストーンズとかの古い曲ばっか聞いてたもんだが……こういうのを聞いてみるのも案外悪くないかもなぁ……」
「……そう」
「♪I’m a thinker to to to……これなら俺も歌えるな。お嬢ちゃん、ちょっと歌ってもいいかい?」
「……ダメ。絶対にダメ」
 そう素気無く答え、無数の眼と触手を持った甲虫のような生き物が描かれたページをめくった時だった。次のページから紙切れのようなものがはらりと出てきて、わたしのお腹の上に落ちてきたのだ。おや、とおじさんが顔をこちらに向ける中、その紙切れのようなものを手に取り、顔の前まで持ってくる。
「……写真?」
 それは、一葉の写真だった。二つの剣先を組み合わせた金色のエンブレムとともに“GAA”と書かれた壁を背後に、四人の男女が並んで立っている。その中には、今よりもちょっとだけ若く見えるおじさんの姿もあって。
「あ~、その写真! 無いと思ったら、そんなところに紛れ込んでやがったのか!?」
 思わず立ち上がったおじさんに視線を向け、再び写真に戻す。四人の男女――正確に言うと真ん中に立っている、キリスト教系の黒いシスター服に身を包んだ女の子だけが女性で、三人の男たちがその後ろと左右に立っているという感じだった。
 まず、女の子の後ろに立っているのは、相変わらずミュージシャン崩れっぽい恰好をしたおじさん。四人の中では一番背が高くて筋骨隆々で、女の子によって胴体が半ば隠れていても、その存在感が薄らいでいるという事はない。今よりも若く見えるのは先に語った通りだが、胸板を張って腰に両手を当てたポーズは、昔見たアメコミの有名なヒーローそのもののポーズだった。顔面に浮かんだ得意げな笑顔は、どう見ても確信犯のそれで……ああ、昔からこんなんだったんだな、と今更ながらに思わせてくれる。
 その右側に立っている、やや小柄に見える黒人男性も似たようなものだった。こちらは煽情的な女性の絵が描かれたTシャツに派手なイエローのベスト、インディゴのハーフパンツにバスケットシューズ、前後逆に被ったイエローのキャップという、如何にもストリート系ないで立ち。陽気そうに見える顔立ちに得意げな笑顔を浮かべたのはおじさんと同じだが、こちらは左手を腰だめに構え、右腕を斜め四十五度にまっすぐに構えている。このポーズも見た事があった。仮面なんとかいう東洋のヒーローの変身シーンのそれだ。
 で、その反対側に立っているのは、ベージュ色のスーツに身を包んだ、やや年嵩に見える中南米系の男性。背の高さはおじさんよりやや低いくらいだが、それでも十分に背が高い。褐色の肌に一見細身ながらもがっしりとした体つきをしていて、短く刈った黒髪や几帳面に切られた口髭からは、本人の真面目な性格が見て取れる。こちらは二人とは対照的にぴんと背筋を張った立ち姿だったが、その口元には苦々しげな渋面が浮かんでいて、焦げ跡めいた瞳はふざけたポーズをした二人をこれ見よがしに睨んでいた。
 そして最後に、三人の真ん中に立っている、シスター服の白人系の女の子。やや小柄な黒人男性よりもさらに背が低く、被り物から覗く白い肌や銀色の髪が鮮やかに見える。女の子というので分かるように、かなり若い。人形めいて可憐な顔立ちが幼く見えるのもあって、せいぜい十代半ばくらいにしか見えなかった。そのクセして、黒い法衣に覆われた胸元は凄まじく盛り上がっているのだから、世の中不公平だ、と思える。こちらは両手を口元で組んで目を閉じ、祈りを捧げるようなポーズをしているのだが、よくよく見てみれば僅かに覗いた口の端が引きつっている。中南米系の男性と同様に、おじさんと黒人男性のポーズに呆れているらしかった。
「……どうした、お嬢ちゃん? その写真がどうかしたのか?」
 わたしが写真をじっと見ているのが気になったのか、そばに寄ってきたおじさんがためらいがちに聞いてくる。それに、わたしは写真の中の四人を指差して、「この人たち……前に言っていた、おじさんの仲間なの?」と尋ねた。おじさんは写真を覗き込むと、懐かしさ、悲しさ、優しさ、辛さ、愛おしさ……そういった色々なものがない交ぜになった表情をした後で、
「ああ、そうだ。こいつらは俺の仲間……GAのリンクスたちと一緒に撮った写真だよ。もう何年も前、企業間戦闘が始まる前の、な……」
 何処か遠い声で、噛み締めるように、ゆっくりと語りだしていった。
 ……おじさんの話を要約すると、おじさんを含むこの四人は、GAと呼ばれる超巨大複合企業体の、アメリカにある本社――だからGAAというワケだ――直属のリンクスたちであったらしい。あった、と過去形なのは、この中でリンクスとして生き残る事ができたのはおじさんだけだったというのが理由であり、だからおじさんはあんな悲しそうな表情をしていたという事なのだろう。
 そうして、黙って聞いていたわたしを尻目に、おじさんの話は三人の仲間たちの話に移っていった。
 おじさんの隣にいた陽気そうな黒人男性はユナイトといって、おじさんの同僚であり、一緒に“粗製”と呼ばれていた事もあって、悪友のような関係だったらしい。アホでスケベでお調子者で、可愛い女の子と見りゃ口説かずにはいられないようなヤツだから、お嬢ちゃんにはとても会わせられなかっただろうがな、というのがおじさんの弁。
 一方、中南米系の年嵩の男性はエンリケという名前で、おじさんとユナイトさんの先輩にあたる人物なのだそうだ。おじさん曰く、元軍人で冷静で腕も立つが、規則や収支にうるさい小姑みたいな野郎でな、という事なのだが、そう愚痴るおじさんの顔は満更でもなさそうで。
 そして最後の一人、シスター服の女の子はメノという名前らしかった。おじさんよりも随分と年下ではあるが、実はリンクスとしてはずっと先輩で、エンリケさんよりもさらに先輩であり、ぶっちゃけこの四人の中では一番偉い人らしかった。
「……というワケなんだが、お嬢ちゃん。メノのやつ、酷いと思わないか? いくら俺がロクデナシだからって、その言い方はないよなぁ……」
 このメノという女の子についての話が、三人の中で一番長かった。
 エンリケさんと同等かそれ以上に規律に厳しくて、だからその辺が適当だったおじさんとは、最初から気が合わなくて。大人しそうな顔をしているくせに気が強くて、負けず嫌いで、シミュレーションとかで負けた時なんか、勝つまで何度も何度も挑んできて。
 信心深くて迷信深くて、優しくて子供や動物が大好きで、でもそのわりに虫とかは大の苦手で、おじさんがムカデを掴んで見せた時なんかこの世の終わりみたいな悲鳴を上げていて。生命というものをとても大事に思っていて、だから本当は戦いに身を置くべきじゃなかったっておじさんは思ってて。
 童顔で背が低いわりに御大層なものをぶら下げてるものだから、運動が大の苦手で。だからトレーニングのたびにおじさんにからかわれては、ムキになって反論や反撃をしてきて。悪口の応酬やセクハラの末に頬をはたかれる、なんてのはおじさんにとって日常茶飯事で。
 リンクスとしての適性は高かったけど、よくいる鼻持ちならないエリートとは毛色が違って、仲間や企業の皆をとても大切に思っていて。でもやっぱりおじさんにとっては、胸と態度だけはデカい、小生意気な妹みたいなヤツで。
 そんな話を延々と聞かされた後で、わたしはぽつりと呟いていた。
「……おじさん。その女の子の事、好きだったの?」
 何気なくのつもりだったその言葉は、我ながら刺々しく聞こえたものだった。それをどう受け取ったのか、おじさんは目を丸くして、「おいおい、どうしたんだ、お嬢ちゃん? 随分とマセた事を聞いてくるじゃないか」と聞き返してくる。そうして、
「いいかい、お嬢ちゃん。大人の世界には、プライベートとか個人の信条の自由とか、そういう面倒な事が色々あるんだ。答えたくない、答えられない質問もあるし、そうする自由もあるって事でな。つまり、何が言いたいかというと……」
 そう言い含めようとしたおじさんの言葉を遮り、「答えて」とはっきりとした声で言う。おじさんは何か言いたげにこちらを見ていたものの、こちらが真っ直ぐに見つめているのが分かると、観念したように大きく息を吐いた。そうして、数秒ほど考え込んだ後で、
「……そう、だな。お嬢ちゃんの言う通りさ……」
 静かに、しかしはっきりとした声で、おじさんはぽつりぽつりと語り始めた。
「何だかんだ言って、俺はあいつの事が好きだった。俺はきっと一人の男として、あいつの事を愛していたんだと思う……」
 おじさんの視線がわたしの顔を外れ、徐々に下がっていく。それと同時に、声のトーンも下がっていく。まるで自らの咎を悔いる罪人のように。
「……だが、俺にはあいつを守れなかった……。あいつが傷ついていくのを、全てに絶望していくのを、俺は止める事が出来なかったんだ……」
 最後に消え入るような声でそう語ると、おじさんは自らの額を両手で抑えた。そのせいで顔は見えなかったけれど、それでも苦悩に満ちた顔をしているのは、あの陽気なおじさんがそこまで思い詰めるほどに苦しんでいるのだけは分かって。
 ……その時、薄い胸の奥にちくりと刺さった痛みの意味を、その時のわたしは、まだ知らなかったのだった。

 
 

 ACfA Smiley Sunshine
 Episode6:Order match(後編)

 
 

 十一時四十分。欧州・旧イギリス領、コロニー・ロンドン。リンクス管理機構カラード本部にて。

 ほの暗い闇に満たされた部屋で、老人はすっかり白くなった顎鬚を撫でながら、呟いた。
「ふぅむ……さて、どうしたものかな……」
 豪奢な内装の部屋には明かりがつけられておらず、中華に由来する華美な彫刻が施された木製のテーブル、そこに置かれた端末のモニターの青白い光のみが、老人の痩せた顔を幽鬼のように照らし出している。
 老人が凝視するモニター、そこには大小無数のウィンドウに表示された文字の羅列とともに北米・旧カナダ領北東部の地図が映し出されており、その中で交差する二本の線が、沿岸部のある地点を指し示していた。
 それは、とある軍事基地の座標だった。北米の大半を支配するGAのものではない。そこはかつてGAと敵対したレイレナードの基地があった場所であり、リンクス戦車を経た現在では、欧州に身を置く一大メガコングロマリットが来るべき北米侵攻のための拠点としている場所である。
 老人は画面を凝視したまま、慣れた手つきで端末を操作する。軍事基地の座標を示していた地図から、軍事施設そのものの詳細な地形図へと切り替わっていく。それに付随して表示されたのは、軍事基地内の各施設の位置やそこに配備されている兵器の状況、主要な人員の個人情報にいたるまで、ありとあらゆる情報が載せられていた。本来であればトップシークレットの、それこそその企業の人間ですら知る事の叶わない、それほどの重要度を持った情報であったが、老人はそれを遠く離れた自室の端末に平然と落とし込んでいる。
「確かに厳重な警備だ……これでは以前の襲撃のようにはいかんか……」
 分単位で変わっていく情報の羅列は、それらがほぼリアルタイムといっていい頻度で更新されている事の表れであったが、しかし老人はセキュリティや追及の手をまるで警戒する事もなく、ウェッジウッドのティーカップに満たした琥珀色の液体を、落ち着き払った仕草で口に運んでいる。それは即ち、老人は厳重に護られたデータベースの情報を盗み見ているのではなく、正規のアクセス権を行使して、データベースの生の情報に触れているという事だった。
 そして真に驚くべきは、老人が身を置くのはその軍事基地を保有する企業の側ではなく、それに真っ向から敵対するメガコングロマリット――すなわちGAグループである事だった。
 敵対企業の機密情報、それもここまで重要かつ詳細な情報を、正規の手段でもって入手している。つまり相当の癒着がある事もそうだが、そうまでして得た情報の一切を、老人は自身が仕えるべきGAに流してはいないし、かといって敵対企業にGAの情報を流すような事もしていないのだ。二重の意味での背信であるが、老人が属するGAも、そして敵対企業の要人でさえもそれを咎めるような事はなかった。
「アンプルールにマウロスク……ムラクモにセレスチャル……ほう、ストラトフォードの老嬢までもか……。なるほど、これはこれは……厳重になるのも致し方なしといったところか……」
 老人がそれだけ上手くやっているという事でもあるし、一切の証拠を残さないでいるという事でもある。しかし、少なくともGAは薄々感づいていると老人は考えていたし、それは実際にその通りであった。時代遅れの巨人と揶揄される事も多いGAだが、だからこそありとあらゆる技術や情報の管理・運用に細心の注意を払っていたし、事実として彼らにはそれだけの知恵と能力があった。自分たちの前では平身低頭、唯々諾々と従う老人が、その実策謀を巡らし敵味方を欺いている事など、GAの首脳はとうに気づいていたのだ。
 にもかかわらず、老人が誰にも咎められない理由。算術権謀を重ね、数多の企業を手玉に取りながらも誰も手出しをしようとしない理由は、いたって単純だった。
 老人には、力があったからだ。
 “オリジナル”にしてトップリンクスの一角という武力、かつての欧州第一位の企業であるBFFの遺産という財力。そして何よりも、リンクス管理機構カラードの事実上の支配者であるという権力が。
「これだけの面子、確かに一網打尽の好機ではある……が、リスクも大きい……。並みのリンクスではこなしきれんだろうな……」
 モニターに表示された防衛部隊の配備状況を眺めながら、老人が呟く。実際、それは一介の軍事基地としては異例の厳重さだった。数週間前の襲撃の時とは比べ物にならないほどに。これほどの守りとあっては、如何に超兵器たるネクストであろうとも侵攻は困難を極めるだろう。
 さて、これだけの相手に目的を達成するには、どれほどの腕が必要か――老人の脳裏にいくつかの顔が浮かび、
「リリウムは……駄目だ。万が一にもこんなところで使い潰すわけにはいかん」
 真っ先に浮かんだ少女の顔を打ち消す。少女は老人が持つ手札の中でも最強の札ではあるが、だからこそ失った時の損失が大きいと老人は判断する。同時にそれは、トップリンクスの一角たる少女の実力をもってしても困難な作戦であるという事の表れでもあった。
「であれば、ローディーも同様か……。あれも愚鈍な猪武者ではあるが、他に使いようはあるからな……」
 自身が仕えるべきGAのトップリンクスを自らの手駒であるかのように評しながらも、老人は考えを巡らせていく。有澤にグリンフィールド……この辺りは少々力不足とも思える上、切り捨てたら切り捨てたで面倒が残る相手でもある。迂闊に使うのは得策ではない。とはいえ、それ以下の者たちにいたっては単なる数合わせであり、リンクスと呼ぶのも憚られるような連中でしかない。となれば――
「新たな手駒が要るな……。並み以上に腕が立ち、かつ失っても痛手でない……そのような手駒が……」
 顎鬚を撫でながら、老人は刃のように鋭い目を細めていく。老人が欲する手駒。それは腕が立つという事も然る事ながら、他の企業の首輪――すなわち専属契約を交わしていない独立傭兵という事になる。だが、
「まず、ランク七位のザーランドか……こいつは駄目だな」
 端末を操作し、カラード内の情報を呼び出す。最初に画面に映し出された、厳つい白人系の男性の顔を見た老人が、不快そうに顔を歪めた。
 独立傭兵の中では一番ランクが高いランク七位のロイ・ザーランドは、希少価値の高いアルドラの旧標準機《ヒルベルト》を駆る事からも分かる通り、デビュー当初からインテリオルとの強い繋がりが噂されている。実際に彼が受ける依頼はインテリオル陣営のものが大半であり、一応はGAなどの依頼も受けてはいるようだが、インテリオルと事を構えるのを避けているような節も見て取れる。とはいえ、その割にインテリオルとは妙な距離感があるようではあるが。
 本人に直接会った事もあるが、傭兵としては信用できない人物と評されるだけあって、掴みどころのない、空とぼけた男だったのを記憶している。その時は社交辞令を兼ねて誘いをかけてみたものの、「美人の涙が最優先」などというふざけた言葉とともにきっぱりと断られている。今更、こちらの懐柔に乗るような事はないだろう。
 老人が端末を操作し、異なる人物のプロフィールが表示される。正面からの立ち姿ではなく、隠し撮りされたと思しき写真――ヘッドホンを頭に掛けた赤毛の青年の横顔を見、老人は不満そうな呟きを漏らした。
「次はアスピナの若造か……悪くはないが、少々じゃじゃ馬が過ぎるか……」
 次点であるランク十位のハリは、アスピナ機関出身とも噂されるリンクスであり、こちらは比較的様々な陣営の依頼を請け負っている。“時間限定の天才”と揶揄される特異なAMS適性の持ち主で、長期戦に耐えられないという不安要素こそあるものの、腕そのものは最上位リンクスにも引けを取るものではない。アスピナはオーメルと関係が深いとされるが、ハリ自身はそのような素振りを見せる事はなく、例えどのような相手であっても徹底的な殲滅を貫く事で知られていた。
 とはいえ、デビュー当初から反骨的かつ反体制的な気質で知られており、ロイ・ザーランドとは違う意味で扱い辛い人物ではある。とくに最近では何やら怪しげな連中と関わっているらしいという噂まであり、やはりこちらの意のままになるとは思えなかった。
「それ以外の連中は……ふん、そもそも使い物にならん連中ばかりか……」
 次いで表示された何人かのプロフィールを眺めた後、老人は深々とため息をついた。この二人よりも下位のランクはいずれかの企業専属のリンクスがほとんどであり、独立傭兵となるとランク二十一位のカミソリ・ジョニーまで下がらなくてはならなくなる。この辺りには二十二位のカニス、二十三位のフランソワ・ネリスといった独立傭兵がいるものの、ロイ・ザーランドやハリと比べると、実力も実績も大きく下がってくる。信用の面も然る事ながら、自分が要求するだけの仕事をこなせるとは、到底思えなかった。
「独立傭兵などと名乗ったところで、所詮は企業に選ばれなかった瘦せ猫ども。そこに期待した私が愚かであったか……」
 そもそも、ネクストという兵器それ自体が企業によって開発されたものであり、その管理・運用には企業の強力なバックアップが不可欠である。事実、国家解体戦争やリンクス戦争の頃のリンクスはすべからく企業に属する存在であり、それに属さないごく少数の者たちを“イレギュラー”と呼んで唾棄していたものだった。
 そしてそれは、リンクス管理機構カラードが成立し、企業によるリンクスの共同管理が叫ばれるようになった今となっても変わる事はなかった。ランク一位のオッツダルヴァを始め、大半のリンクスはいずれかの企業に属しているのが現状で、傭兵というのは形だけのものでしかない。その中にあって独立傭兵と呼ばれる者たちも、いずれの企業からも相手にされない弱小リンクスか、企業と関係してはいるものの何らかの事情があって専属契約を結んでいないだけの連中が大半であり、本当の意味で企業から独立した傭兵など数えるほどしかいないのが現状だった。
 企業が全てを支配する世界にあって、その後ろ盾を、庇護を欲しない人間などいない。それは個人だけでなく、自由と民主主義を謳うラインアークや、有象無象の反体制勢力のような非合法組織すらも同様であり、表向き反動分子の受け皿を演じているだけで、裏では企業の支援を受け、企業の意に沿った活動をしているに過ぎない。真の意味で企業の力を必要としない独立独歩の存在――国家解体戦争以前、“レイヴン”と呼ばれた者たちがそうであったように――は、今や物好きな少数派でしかない。そしてそれは、リンクスと呼ばれる人種とて例外でなかったのだ。
 今や企業の主力は巨大兵器アームズフォートに移行し、ネクスト戦力はアームズフォートに向かない雑事をこなす掃除屋(スカベンジャー)のような存在となった。それに伴って、リンクスそのものも企業の最エリートという扱いから、無頼の傭兵という扱いへと変わっていった。それはリンクス戦争後、“繋がる者”を意味するリンクス(Links)を、同じ響きであるオオヤマネコ(Lynx)と揶揄するようになったのと無関係ではなかった。
 猫という生き物は人間に飼われ、共生する事によって繁栄してきた。それと同じようにリンクスという生き物も、企業によって首輪を嵌められる事によって、居場所を与えられているに過ぎないのだと。
 そうして、えも言われぬ徒労感を抱いた老人がモニターから目を離し、枯れ枝のような指で目元を揉みしだいた時だった。
『――王大人。少しよろしいでしょうか?』
 端末の隣に置いておいた通信機から、王大人と呼ばれた老人にとって聞き慣れた若い女の声が響いてきた。怜悧ではあるが何処か感情の乏しい、自動音声めいた声をした秘書官の呼びかけに、老人――カラードランク八位のリンクス、王小龍は通信機のスイッチを押し、「……何用だ、セシリア?」と返していた。
『お忙しいところ、失礼いたします。以前から王大人がお気にされていた、セレン・ヘイズ女史の後援する新人リンクスの件なのですが……』
 その言葉に、王小龍は不快そうに眉根を寄せた。プライベートを遮られた事が不快なのではない。秘書官が口にした名前の響きが不快だったのだ。しかし老人はそれを声に出す事はなく、「……ああ、霞スミカのところの小倅か。そういえば、今日はそやつの試合があるのだったな」と、自身にとって忌々しい名を口にしていた。
 ――霞スミカ。
 インテリオル所属のリンクスで、国家解体戦争に参加した“オリジナル”にして、かつてのカラードランク一位。それほどの地位にありながら数年前に突如として出奔し、行方をくらませていた彼女が、無名のリンクスを連れて戦場に舞い戻ったのはごく最近の事である。
 その無名のリンクスは新人ながらもなかなかの腕前を持っており、デビューから数か月しか経っていないにも関わらず、各方面からの注目を集めつつあった。それはGAグループも、そして王小龍自身も例外ではなかったのだが――
『はい、その《ストレイド》のリンクスの試合が、先程終わったのですが……その、妙な事になっておりまして……』
「妙な事……? まさか、あの粗製が勝ったとでもいうのか?」
 想像の埒外だった結果を想像し、王小龍は通信機を凝視した。“Unknown”と名乗っているその新人リンクスは、数か月の戦歴にもかかわらず既に数多の武功を挙げており、“オリジナル”の一角であるミセス・テレジアをオーダーマッチで下したのみならず、BFF最大の戦力だった《スピリット・オブ・マザーウィル》を撃破してもいる。そのようなリンクスが、いくら消耗した状態であろうとも、GAの粗製リンクス風情に後れを取るとは思えなかったのだが。
 王小龍の問いに、しかし秘書官は『いえ、そうではありません。オーダーマッチそのものは王大人が予想された通り、《ストレイド》が圧勝したのですが……その……』と、聡明かつ容赦のない彼女にしては珍しく、口よどんだ様子を見せた。それを不審に思った老人の「その……何だ? 要件ははっきりと言え」という言葉に、
『は、申し訳ございません。《ストレイド》と《ワンダフルボディ》の戦闘が終わった直後、ランク十八位の《メリーゲート》がシミュレーターにハッキングを行ったようで……その、試合の場に乱入してきてしまったのです」
 秘書官の言葉に、王小龍は今度こそ開いた口が塞がらなかった。乱入? ハッキング? カラードのホストコンピューターが厳重に管理している仮想空間内に? いったい、どうやって? 施設のセキュリティは、カラード内の技術者どもは何をやっていたのだ?
 脳内に湧き出る疑問の数々を押し殺し、「ローディーの義娘がか? それで、今はどうなっている?」と現状確認の声を上げた王小龍は、
『カラードの管制官が制止したのですが、賭け試合がどうのと反論され、押し切られてしまったようです。現在、両社が仮想空間内で戦闘中ですが……如何なさいますか?』
 秘書官の返事に再び絶句していた。リンクスの管理をお題目にするのがカラードである以上、お飾りの責任者こそ置いてあるものの、老人こそが事実上の支配者である事は、この業界に携わる者の誰もが知っている。その権威の表れである場で、このような蛮行を許す――自身の面目が丸潰れになるのは確実であり、その事に対して強い怒りを抱きもしたが、しかしその時王小龍の胸に去来したのは、それとは逆のものだった。
「……待て。つまりその二人は、今は戦闘中という事なのだな?」
『はい。すぐに戦闘を中断させますか? それとも、ホストコンピューターのセキュリティを強制作動させて――』
 何やら物騒な事を言いかけた秘書官を、「いや、そうではない」と制止し、王小龍は顎鬚に指を這わせていった。
 テレジアとの試合の時は、結果を知って試合の映像記録を確認していた。その時の新人リンクスは、動きこそ一般的なリンクスのそれを凌駕していたものの、とくにおかしな点は見当たらなかった。念のために他の試合やミッションの記録も確認してみたが、やはり同様だった。腕は確かだ。一流と呼ばれるだけの腕はある、と老人は結論付けていたが――それでは説明がつかないのだ。
 ただの一流に、あの《スピリット・オブ・マザーウィル》が敗れるわけがない。一流程度のリンクスに、あの異常な戦いぶりができるわけがない。あの時に見せた獣の如き動きと、凄まじいとしか言いようのない戦闘機動が、一流などという言葉で片付けてたまるものか。
 防衛部隊の映像記録や証言、高空からの監視だけでは解明できなかった、あの不可解な動き。そして急に性能が上がったとしか思えない《ストレイド》という機体そのものの謎。それを解明できれば。あるいは、それを御す事ができるのであれば。それこそが自身が欲する手駒に、求めていたものの“答え”になるのではないか。そう考えた王小龍は、「セシリア、その戦闘の様子をこちらの端末に回せ。今すぐにだ」と口走っていた。
『は……? 転送、ですか? 中断ではなく?』
 流石に呆気に取られたと分かる秘書官の声色に、「二度は言わん。記録も忘れるな」と重ねた王小龍は、返事を待たずに端末に向き合うとキーボードを操作し、画面を切り替えていく。数秒ほどして、モニターに一面の砂漠と、その中を高速で駆ける二機のネクストの映像が映し出されていく。
 地平線まで続く灰色の砂漠と、その中に飲み込まれたいくつかの廃墟。そしてその中を高速で駆けていく砂色の中量二脚機を見定めた王小龍は、白い髭に覆われた口元をにやりと歪めた。砂地を蹴り下して自身の推力と掛け合わせ、圧倒的な加速度で飛翔していく姿は、老人の記憶の中にある忌まわしい機体を否が応でも思い起こさせ、これは匹敵するか、と思わせてくる。
 そしてそれが相対するのは、空中を滑空しながら大量のミサイルをばら撒いていく緑色の重量二脚機。それを駆る少女の顔を思い浮かべ、老人の笑みが深まっていく。今までは単なる小物と思っていたローディーの義娘だが、ここまで思い切った真似をするとは思っていなかった。いったいどうやってカラードのコンピューターにアクセスしたのかも気になるし、何よりもこうしてわざわざ乱入してきたという事は、あの新人リンクを相手に彼女なりに勝機を見出しているという事でもある。そういった意味では、評価を改める必要があるのかもしれない。そして、もしも自分の想像通りであるのなら――
「……見せてもらおうか。《マザーウィル》を撃破した実力とやらを」
 ほの暗い闇の中、どす黒い野心を滾らせていく。激突する二機のネクストを凝視し、王小龍が嗤った。

 

 

 十一時四十五分。リンクス管理機構カラード本部。ホストコンピューター内の仮想空間、旧ピース・シティ・エリアにて。

 砂塵舞う荒涼とした廃墟の群れ、その外れにどこまでも広がっていく灰色の砂漠を、砲弾とレーザーとが交差していく。
 緩やかな曲線を描く砂丘を右方向へと滑っていく、緑色に塗られた巨体――GAの《サンシャイン》ベースの重量二脚型ネクスト、《メリーゲート》が両腕のライフルと大口径無反動砲を撃ち散らしていく。正確無比な狙いでもって放たれたそれらは、しかし獣めいて身を沈めながら、《メリーゲート》を上回る急激な速度で横滑りした敵の動きによって回避されていた。
 そうして、砂色の敵機――ローゼンタール機ベースの中量二脚型ネクスト、《ストレイド》が、身を沈めた勢いのまま両脚で大地を踏みしめ、同時に前方にクイックブースト。地を蹴った反動と強大な推進力をかけ合わせた、爆発的と言っていい勢いで突進しつつ、左腕に装備された高出力レーザーブレードを振るってくる。だが、
「見えてるっての!」
 その挙動を見切り、《ストレイド》のメインブースターが火を噴く一瞬前に、《メリーゲート》は両脚大腿部に内蔵されたバックブースターを咆哮させていた。重量級バックブースターのクイックブーストによる強烈な推進力が、重厚な巨躯を急激に後退させ、《ストレイド》の突進に先んじて飛翔させていく。とはいえ、その名の通り主推進器であるメインブースターと補助に過ぎないバックブースターとでは、推進力に根本的な差がある。このままならば半秒後には確実に追い付かれ、両断されるというほんのわずかな、しかし狙いをつけ反撃のトリガーを引くには十分な、値千金の半秒間。
「そこっ!」
 そうして、斬撃の一瞬前に《メリーゲート》の大口径無反動砲から放たれた二百ミリ成形炸薬弾が、《ストレイド》の右肩めがけて突き進み――砂色のネクストがわずかに身を捻ろうとするも間に合わず、右肩のハードポイントに装備されたフレア・ディスペンサーを直撃していた。重金属の噴流に焼き貫かれたフレア・ディスペンサーが脱落し、同時に被弾の衝撃で《ストレイド》の突進が強制中断させられる。推進力の大半を失い、こちらの眼前でたたらを踏む砂色の機体に、今度は右のライフルをフルオートで叩き込む。とっさにコックピットを庇うようにして持ち上げた左腕に、そこから外れた胴体部の曲面装甲に、六十ミリ重徹甲弾の雨が突き刺さり、深々とした弾痕を刻んでいく。
『…………!』
 火力と装甲に勝る相手に至近距離で相対する不利を悟ったのか、《ストレイド》はよろめくように後退した。傾きかけた脚で地を蹴り、同時にバックブースターが咆哮。急速に後退していった機体への追撃に大口径無反動砲を放つも、それは即座に横方向にクイックブーストした《ストレイド》の機動を追いきれず、青空の彼方へと吸い込まれていった。
『……ええい、やり辛い! 重量級のクセに、のらりくらりと動き回って……! ウナギか、こいつは……!』
 崩れた重量バランスを戻すため、左肩のフレア・ディスペンサーをパージしながら距離を取っていく《ストレイド》の声を代弁するように、オペレーターのセレン・ヘイズがよく分からない罵声を吐き捨ててくる。
(……よしっ!)
 わずか数秒間の攻防に、しかし確かな手ごたえを感じていたわたしは、内心でガッツポーズを取りつつ、機動性に劣る《メリーゲート》を高速で飛び回る砂色の機体に相対させていった。
(こっちの読み通り! 向こうは思うように動けていない!)
 ……どうもこの《ストレイド》のリンクス、高機動戦闘を得意とする手合いにしては珍しく、複雑な地形をこそ好む傾向にあるらしい。現にさっきの戦闘では、《ワンダフルボディ》を廃ビルの群れの中におびき寄せるようなコトまでしていたらしい。まあ、あんな地形を利用して急加速するようなテクニックを心得ている以上、当然の話ではあるんだけど。
 でも、だからこそ。それを分かっていればこそ、やりようというものがある。相手の得意分野で戦ってやる必要はない。相手が地形戦を好むなら、その地形という武器を奪ってやればいい。障害物が林立するようなエリアが相手にとって有利であるのなら、こちらは逆に徹底して開けた場所で戦えばいいだけの話だ。
(あぶり出し作戦、大成功! ミサイルの半分を使い切った甲斐があったってものよ!)
 つまりわたしがこれまでどうしたかというと、戦闘エリア外縁の砂漠から決して出ずに、廃墟エリアを動き回る《ストレイド》に向けて長距離ミサイル攻撃を敢行。相手が廃墟を盾にするのも構わずに、むしろ廃墟の方をこそ粉砕するつもりで攻撃して、敵の足場を次々と奪っていったのだ。そうしてこちらのミサイルの残弾が半分を切る頃になって、我慢の限界に達したのだろう《ストレイド》が廃墟のエリアを出てきて、先程の攻防にいたったというワケだ。
(足場さえなければ、こっちのものよね……!)
 何しろ蹴るものさえなければ、相手のあのテクニックは無効化できるのだから。地面を蹴るのまではさすがに封じようがないが、それもこうも開けた場所ではあまり多用できるものではないし、通常にはない予備動作を必要とする分、その兆候を察知するのはむしろ容易だった。だから、こっちはその兆候を待ってから攻撃を加えていけばいい。
 結果として、相手は自分の思うように動けず、その機動性は大幅に削がれ、だいぶ速めとはいえ中量級ネクストとしては常識的な範囲にまで落ち込んでしまっている。向こうにとって見れば、機動性で劣るくせに常に後の先を取り続けるこちらに対するイライラ具合が半端なものではないのは想像がつき、そしてそれは今のセレン・ヘイズの罵声にはっきりと表れていた。
(……いや~、まさかあのクモ女相手に練っていた作戦が、こんなところで役に立つなんて、ね!)
 こっちよりもランクが上のくせに、常日頃妙に突っかかって来る赤毛の女リンクスの険悪な顔を思い出し、口の端を吊り上げる。あの待ち伏せ大好きな陰険性悪姑息サディスト赤毛入れ墨女にちょっとだけ感謝……なんて誰がするかっ!
「また来ようったって、そうはいかないんだからっ!」
 そうして、わたしは左に右に機体を振りながら、散布型ミサイルとチェインガンを撃ち散らしていく相手に、ライフルと大口径無反動砲の斉射で牽制していく。今度は射程外まで離れようとした相手に追撃を加えるべく、前進しつつ武装を切り替え、左背部の垂直式ミサイルランチャーのロックオンを合わせていこうとした時だった。不意にAMSに軽度のノイズが奔り、それはざらついた野太い男の声となって脳に直接響いてきていた。
『……お前な。いくらシミュレーターとはいえ、機体に接続中のリンクスからAMSケーブルを引っこ抜くなんて、何考えてんだ? まかり間違って半身不随とかにでもなったらどうしてくれるつもりだったんだ、ええ?』
 そんな恨み言めいたコトを言ってくるのは、いつものGA……じゃなかった、ドン・カーネル。先程《ストレイド》に敗れた《ワンダフルボディ》のリンクスにして、わたしの先輩格にあたる人物である。おそらくはシミュレーターの通信回線を使って、外部から話しかけてきているのだろう。
『正直言って、あの時はマジで死ぬかと思ったぞ。あの背骨を神経ごと引っこ抜かれるような感覚、お前に想像つくのかよ? お~い、聞いてンのか、この馬鹿娘が』
 わたしよりもずっと年上のクセして、過ぎた事でねちねちと文句を垂れてくるドン。そうこうしているうちに反転攻勢に出た《ストレイド》に、わたしはとっさに機体を後退させて垂直式ミサイルを撃ち込みながら、気楽な声で返した。
「あはは、そんなワケないでしょう? 稼働中に強制的に接続を切ったぐらいじゃ、そこまで致命的な影響は起きないわよ。せいぜい気分が悪くなって、一日中寝込んじゃうぐらいだって」
『……それでも随分と大事じゃねぇかよ! この試合が終わったらエンリケ部長やミス・コードウェルに言いつけてやるからな、覚悟しとけよこの馬鹿娘が。……ったく、まあいいさ。それはそうとして、だ』
 と、そこで、ごほん、と咳払いをするドン。そうして、その声色がやおら真剣味を帯びたものとなって、
『一応注意しといてやる。あいつの“蛙飛び”には気をつけろ。距離を取ったくらいで安心してると、痛い目を見るぞ』
 そんな、聞いた事もない言葉を口にしていた。
「……“蛙飛び”? あの、噴射と同時に蹴る動きのコト? もちろん気をつけてるけど……何か知ってるの、ドン?」
 まさにその“蛙飛び”とやらで急接近を図ってくる《ストレイド》を、横っ飛びの急速機動でいなしつつ問い返すと、ドンは待ってましたとばかりに語り始めた。
『ああ。俺のような元々ノーマル乗りだった連中の間での呼び名で、“蛙飛び”。他所では“小ジャンプ移動”、なんて言い方をする時もあったらしいがな。ノーマル乗りの機動テクニックの一つで、一瞬だけブースターを噴かすと同時にジャンプする事で瞬間的なスピードを確保し、後は余剰モーメントで慣性移動しながらエネルギーを回復させ、効率的な戦闘マニューバを行う――そういうやり方だ。元々は“レイヴン”と呼ばれた精鋭AC乗りがよく使っていたテクニックなんだよ』
 そうして、『まさか、それをネクストのクイックブーストでやると、あんな風になるとは思わなかったがな』とつけ加え、彼の長い解説は終わった。それに、わたしはクイックブーストを駆使した高機動戦闘をこなしつつ、頭の中で整理した答えを返した。
「……つまり、あいつはリンクスになる前は凄腕のノーマル乗りだったってコト? それで、あんな動きをしてるって?」
 自分で言いつつ、首を傾げる。リッチランドの時にも、《ストレイド》の動きは新人にしては戦い慣れしているな、とは思っていた。だが、それと同時にドンの話を聞いて、何か思っていたイメージと違うな、とも感じていたのだ。
 あの砂色のネクストの戦いぶりは、戦術的な動きやクレバーな判断力を見せはするものの、基本となる動きそれ自体は割と単純で直情的な――何というか、若さを感じさせるものだった。そこまで熟練したパイロットになれるような歳ならば、もっと老練に、慎重に立ち回ってもよさそうなものなのだが。それこそ、わたしの小手先の戦法なんて通用しないくらいに。
 そんなわたしの思考にはお構いなしで、ドンは頷くような気配を見せると、
『おそらくな。だが、規律が厳しい企業軍にいた手合いじゃないな。もっと在野の……それこそ元レイヴンか何かだ。噂では、リンクス戦争当時のリンクスの中にも元レイヴンだったやつらがいて、そいつらもこうやって“蛙飛び”めいた動きを使ってたって話だ。まあ、あそこまで極端な動きをしてたのは、それこそあの“アナトリアの傭兵”くらいだろうがな』
「…………!」
 “アナトリアの傭兵”。その言葉に、こちらの思考はあっさりと霧散されられていた。もはやドンの言葉や眼前のリンクスのコトなんて、どうでもよくなったと言っても過言ではなかった。
『そういった連中の同類と考えりゃあ、あいつの新人のクセに妙に手慣れた動きや判断にも納得がいくってもんだ。リンクスとしてあれだけ動ける上にそういう経験まであるんなら、カラード下位のリンクスじゃ相手にならんのも当然だったわけだ』
 ……ほほう、“彼”もまた、あの動きを使っていた、とな? わたしが知らなかった、わたしにとって憧れと言ってもいい人物の一側面。それを目の前のあいつ、どこの馬の骨とも知れないリンクスが、知ってか知らずか使っている――ふ、ふふふ……上等じゃないの……!
『まあ、有用性はともかくとして、もうとっくに廃れたテクニックであるのは変わらんがな。本来のネクストの機動性を考えれば過剰すぎる動きだし、何よりブースターや脚のアクチュエータ複雑系をひどく酷使するやり方だ。短期決戦ならいざ知らず、長時間の戦いには向かんテクニックではあるな。現に今のノーマル乗りの間じゃ、半ば禁止されていて――って、お、おい!?』
 なおも何か言ってくるドンの言葉は聞かなかった。例の“蛙飛び”でもって右に移動しようとする兆候を見せる《ストレイド》を、強い負けん気でもって正面から睨む。
 ドンはあの動きを、小ジャンプ移動とも呼んでいた。であるならば、本質的には機体をジャンプさせる時と同じ。脚の動きはブースターを使わずに跳躍する時と、同じ要領でいけるはずだ。後は、そこにタイミングよくクイックブーストを重ねてやりさえすれば、それでいい……!
「……噴射と同時に、蹴る! 要するに、こういう事でしょ!?」
 吠えて、思考を激発させる。それに応えるように《メリーゲート》が太い両脚を踏ん張り、バネめいて一気に跳ね上げると同時に、右肩のサイドブースターが咆哮。重厚な装甲に覆われた機体を、爆発的としか言いようのない勢いで左に跳躍させていた。
『…………!?』
 一瞬遅れて右に跳躍した《ストレイド》のリンクスの、動揺の気配が伝わってくる。まさか自分がやったのと同じ事を、相手がそのまんまやり返してくるとは思っていなかったのだろう。右腕のレーザーライフルを持ち上げる挙動が一瞬遅れ――その一瞬が命取り!
「はぁああああああっ!」
 吠えて、両腕の武器を二次ロックオンも待たずに斉射する。今や両者に速度の優劣はない。大口径無反動砲から放たれた成型炸薬弾が相手の右肩を深々と抉り焼き、右のライフルが撃ち込む徹甲弾の群れが、全身に無数の弾痕を刻み込んでいった。リングの隅で乱打されるボクサーのように全身を踊らせた《ストレイド》が、たまらずにバックブースターとサイドブースターをジグザグに噴射させ、脇目も振らずに距離を取ろうとしていた。だが、
「あはっ! これはいいわ、これは使えるっ!」
 機体を着地させつつ、その反作用を利用して前方へ跳躍。同時に噴射されたクイックブーストがその勢いを倍加させ、重量級に似合わぬ加速度で急速前進した《メリーゲート》に半ば振り回されながらも、わたしは会心の笑みを浮かべていた。
(これでわたしはもっと強くなれる! 今までのように、お義父さんに一方的に守ってもらうだけじゃない! 逆にお義父さんのコトを守れるくらいに、もっともっと強く――!)
 そんな燃え上がるような高揚感とともに、持ち上げたままだった両腕の銃を斉射する。ほぼ至近距離と言っていい距離から、右から左へと薙ぎ払うようにして撃ち込まれた重徹甲弾の雨が《ストレイド》の左肩を、頭部左側のカメラアイを撃ち抜いていき、追撃として放たれた二百ミリ成形炸薬弾が、今まさに反撃を繰り出そうとしていた右背部の散布型ミサイルランチャーを、十数発の小型ミサイルごと粉砕していった。
『お、お前……!』
 通信回線から聞こえてくる、ドンの驚愕の声。撃ち出したばかりのミサイルに引火し、誘爆していく散布型ミサイルランチャー。そして、とっさにパージしたそれの爆風に呑まれ、きりもみしながら地面に落ちていく《ストレイド》。アドレナリンでハイになった頭の中を、それらの諸々の情報が半ばスローモーションとなって流れていく。
 そしてそれは、目の前で叩きつけられるように着地し、砂塵に覆われながら、それでもなおこちらを睨み据え、左腕のレーザーブレードを構える《ストレイド》の姿も同様だった。荒々しい着地の衝撃を、膝を限界まで曲げて吸収し、その勢いすら利用して反発するバネのように地を蹴り下す。全開になったメインブースターが巨大な噴射炎を噴き出し、ベースボールのホームランボールめいてこちらに跳ね返ってくる砂色の機体――!
(その機転、その判断、そしてその諦めを知らない闘志や良し! だけど……!)
 負けたくない、負けられないのはこっちだって同じ! ならば全力でぶつかってやるまでの事!
「…………っ!」
 激発する思考が、意志の力が緑色の巨躯を巡る。強烈な精神負荷の代価として機体のリミッターが一時的に外れ、限界を超えた乗算めいた、爆発的なとしか言いようのない巨大な噴射炎を吐き出したメインブースターが、限界近くまで加速していた二百五十トン超の機体を、さらに限界を超えて加速させていく。
 クイックブースト・ダブルアクセル。わたしが持ちうる切り札の一つで、あのリッチランドの戦闘でも使っていた技だ。卑怯だとは言わせないぞ、《ストレイド》!
『…………!』
 そうして、二機のネクストが互いに限界を超えた速度で、真正面から接近し合っていく。予想外のこちらの急接近に対応すべく、当初よりも早く振り抜いた紫色の光刃が向けられてくる。一方で、こちらには近接兵装は存在しない。至近距離での戦闘は不利に思えるが、そんなコトはない! こっちには機体の限界を超えた速度と、何よりもGA社の技術の粋を結集させた装甲とパワーがある!
(地面を蹴るのがありなら、こういうのだって当然ありよね……!)
 左脚後部のサブブースターが、脚部全体のアクチュエータ複雑系が限界を超えたハイパワーで咆哮し、左脚を高速で持ち上げる。現存する二脚型ネクストの中で最も重く、最も硬い機体である《サンシャイン》。その中で一番ぶ厚い部分である脛部正面装甲が《ストレイド》めがけて突き出され、
「――うりゃあああああああああああああああああっっ!!」
 喉が裂けんとばかりに吐き出した咆哮とともに、膝蹴りの要領で一気に叩きつける……!
『…………!』
 裂帛の気合とともに繰り出された太く短い光の刃が《メリーゲート》の左脚を深々と焼き抉り、ぶ厚い装甲板がその光刃ごと《ストレイド》の左腕を叩き潰していき、
「『…………っ!!』」
 そうして、二人分の吐息が漏れ出る。相対速度千数百キロで真正面から激突した二機のネクストは、数瞬ほどめり込み、軋み合った後で、互いに弾かれるようにしてその巨体を宙へ舞わせた。凄まじいという表現すら生温い衝撃が、全身の多層複合装甲を破断させ、限界を超えたアクチュエータ複雑系が微細なギアや部品をばら撒いていく。
 陽光を受け、きらきらと輝く破片が雪めいて見える。全身をひしゃげさせたまま、スローモーションのようにゆっくりと墜落していく二機のネクスト。そうして崩れ落ちるようにして着地した二機は、墜落した勢いのまま、もんどり打って砂漠へと倒れ込んでいき――

 

 

 十一時四十八分。リンクス管理機構カラード本部にて。

 その光景を、白い軍服に身を包んだ、淡い金色の髪の十代前半の少女――リリウム・ウォルコットは、シミュレーションルームから遠く離れた場所で、呆然と見つめていた。
「――なんて、デタラメ」
 そんな言葉しか浮かんでこない。それほどまでに、目の前のモニターに映る戦闘は、彼女にとって常軌を逸するものだったのだ。
 其処は、カラード本部の最奥に位置する一室だった。広大な部屋の中央にはカラードのエンブレムを模した金属のオブジェが置かれており、それを囲むようにして天然の木材でできた円卓が設けられている。部屋の一面は壁面の大半を埋める大型モニターとなっており、そこには二機のネクストの戦いの様子が、克明に映し出されていた。
 カラードに属するリンクスの中でもごく限られた者しか入れないその部屋は、最上位リンクスたちの集まりに用いられる、専用の会議室だった。カラードのトップである事務局長よりも、ある意味においてより強い権限を持つ者たちが集う場所であるため、この部屋では合法非合法問わず、カラードに関するありとあらゆる情報が手に入る。当然、このカラード本部で行われる公式の模擬戦闘、“オーダーマッチ”のリアルタイムでの戦闘映像もだ。
「あのリンクスに対する小手調べのつもりだったのに、まさかこんな事になるなんて……」
 目の前で行われた戦闘に戦慄しつつ、白い少女は呟いた。
 ――事の始まりは、残務処理のために朝からこの場所に詰めていたリリウムが、何気なく見たスケジュール表から、《ストレイド》のオーダーマッチが今日行われるという事実を知った事だった。
 この《ストレイド》は、リリウムが所属するBFF社の主力アームズフォート、《スピリット・オブ・マザーウィル》を撃破したネクストであり、同時にそれは、リリウムにとって敬愛する大叔父であるウィリアム・ウォルコットの仇という事でもあった。
 オーダーマッチの相手は、ランク二十四位の《ワンダフルボディ》。リリウムと同じGA陣営ではあるものの、リリウムにとっては全く取るに足らない、低レベルのネクスト戦力だった。正直言って戦力を測るには不足の相手ではあるのだが、それでも何かの参考にはなるかもしれないと思い、こうやって試合を見物する事に決めたのだ。
 そうして案の定、《ストレイド》は圧倒的な実力差でもって《ワンダフルボディ》を下していた。その様子を逐一モニターしていたリリウムは、軽い失望を覚えたものだった。
 多少なりとも実力を隠していたと見積もっても、現時点での《ストレイド》は、ネクスト戦力としてはランク十位前後といったレベル。間違いなく一流の実力ではあるものの、それ以上でも以下でもない。超一流と称されるリンクス、すなわちリリウム自身には及ばないだろうというのが、リリウムの下した判断だったからだ。
 それと同時に、違和感も覚えた。その程度の実力で、あの《スピリット・オブ・マザーウィル》を。有能な艦長であるウィリアムが指揮し、切り札である特殊弾頭すら惜しみなく投入したそれを、はたして撃破できるものなのだろうか……?
 そう疑問に思いつつ、惰性でモニターを眺めていたリリウムだったが、試合が終わってしばらく経った頃になって、様子がおかしくなってきた。《ワンダフルボディ》と同じGA陣営のネクストである《メリーゲート》が、突如として対戦の場に乱入してきたのである。そうして、いくらかの聞くに堪えない問答を繰り広げた末に、あろう事か《ストレイド》と戦闘を始めたのだった。
 最初は、馬鹿な事を、と思った。敵討ちだか何だか知らないが、ただの支援機があのリンクスと単身で戦おうだなんて、無謀もいいところだと思った。だが、それからしばらく経って、呆れは驚きとなり、そして戦慄へと変わっていった。当初の見立てでは敵わないと思っていたはずの《メリーゲート》が、実際にはリリウムの予想以上に……否、想定をはるかに超えた戦いぶりを見せて、あまつさえ《ストレイド》を追い込むような事すらしてみせたのだ。相手のテクニックの特性を見抜いて抑え込むのみならず、模倣して自分のものとし、挙句にあの蹴りである。ネクストを使用した、文字通りの肉弾戦など、リリウムにとって想像の埒外としか言いようのないものだった。
 まさしくデタラメとしか言いようがない。こんなものはリリウムの知るネクストの戦いではない。リリウム・ウォルコットにとってのネクストによる闘争というものは、もっと冷静に、冷酷に、無慈悲に行われるべきものだったはずだ。こんな戦い方は知らない。こんな、リンクスの感情を剥き出しにしたような、血沸き肉躍るような戦い方は――
「――ふん、生の感情丸出しで戦うとはな。これでは、連中に品性を求めるなど絶望的だ」
 その時だった。まだ若く、艶めいた声色をした男の声が割り込んできたのは。とっさに振り返って見れば、いつの間にこの会議室に入っていたのか、青と黒に彩られた三十前後の若い男が、腕組みをして壁にもたれかかっているところだった。
 やや長めの濡れ羽色の髪に、中東の血を示す浅黒い肌、端正でありながら酷薄な顔立ち。背は高く細身で、青紫のシャツと黒のレザーパンツに、うるさくない程度にその身を飾るシルバーのアクセサリー。長く垂らした前髪の奥で、昏いブルーの瞳が値踏みするようにこちらを見ている――
「……オッツダルヴァ、様」
 リリウムは警戒心を隠さずに、その男の名を呼んだ。
 カラードランク一位、オッツダルヴァ。第三位の勢力ながらも政治力に長け、企業連やカラードにおいて最大勢力であるオーメル・サイエンス社専属のリンクスにして、同社最強のトップガン。リンクス戦争で敗北した旧レイレナードの出身とも噂される男であり、二位という地位に多分に政治的磁力が働いていると言われるリリウムとは異なり、ただ己の実力のみでカラード最高戦力の座をもぎ取ったと言われる、実戦派の天才。戦場にあるありとあらゆる存在を「自分以外は止まって見える」と豪語する、傲岸不遜で鼻持ちならない男。目下のところ、自身と王小龍にとって再優先に警戒すべき存在――
 そんな彼が、どうしてここに……? 自身がここにいる事は、王小龍以外誰も知らないはずなのに? その疑問にリリウムが口を開くよりも早く、オッツダルヴァは自分から口火を切っていた。
「何やらローディーの “娘”が面白い事をしていると聞いてな。暇つぶしくらいにはなるだろうと来てみたのだが……まさか、あの狂犬相手に、こんな野良試合めいた展開になっているとはな」
 その発言に、リリウムの美麗な眉がわずかにひそめられる。
 確かに、メイ・グリンフィールドがローディー――ローガン・D・グリンフィールドの養女であるというのは、GA陣営では比較的広く知られた事実ではある。とはいえ、それもあくまでもGA陣営内での事。ものがリンクスの個人情報という事もあり、基本的には厳重に管理された機密の類であるのは間違いない。リリウム自身、王小龍に教えられてその事を知っているに過ぎない。
 そんな情報を、どうして異なる陣営のリンクスが。それも、そもそも他人というものに関心が薄そうなこの男が、どうして知っているのか……?
 それに疑問を抱いたのもほんの一瞬、オッツダルヴァはやおら立ち上がると、こちらにつかつかと歩み寄り――右の肘でリリウムを突き飛ばすようにして、強引にモニターの前に割り込んできていた。たたらを踏みながら「ちょっと……!」と抗議の声を上げるリリウムにはお構いなしで、モニターの真正面に陣取ったオッツダルヴァは、レザーパンツの前ポケットに両手を突っ込むと、モニターの中で身を起こしていく二機のネクストを眺め、
「地を蹴って跳ぶ、か……まさに地を這うものならではの発想だな。私たちではこうはいかん。自由自在に空を舞う事を当然と考える、私たちのような生粋の“山猫(リンクス)”には、な。まあ、GAの牛女の場合は、若干事情が違うようだが」
「う、牛女……?」
 オッツダルヴァの言葉に、彼の右側に陣取ったリリウムの頬が引きつる。その“牛女”という表現は、《メリーゲート》の猪突猛進めいた戦闘スタイルの事を言っているのか、それともリンクス個人の身体的特徴――具体的に言えば、あのたっぷりと育った胸の事を言っているのか、リリウムには判断がつきかねた。
「はぁ……」
 自身の未成熟な薄い胸を見下ろし、ため息をつくリリウムの事は無視して、オッツダルヴァはなおも言葉を重ねていく。
「しかし、流石に猿真似が得意なGAでリンクスをやっているだけの事はあるな。目の前に手本があるとはいえ、見よう見まねでここまで模倣してみせるとは。猿真似もここまで来れば、ある意味、見直すべきなのかもしれんな」
 リリウムにとって意外な事に、それはメイ・グリンフィールドに対する称賛めいた言葉だった。もっとも皮肉屋のこの男らしく、多分に毒が入り混じったものではあったが。そうして、横目でちらりとこちらを見て、
「何なら、お前も真似してみたらどうだ、リリウム・ウォルコット。少なくとも私の《ステイシス》ではできん芸当だ。脚部が強度の負荷を想定していない造りだからな。お前の《アンビエント》ならば、あるいは可能なのではないのか?」
「……いえ。リリウムには、あのような真似は――」
 オッツダルヴァの探るような言葉に、リリウムは首を横に振った。
 自分にはあのような芸当はできない。あの蹴るような動きそれ自体なら、練習すればおそらく模倣できるのだろうが、それを即座に、戦術的に使いこなせるかというのは、それとは全く別の問題だった。少なくとも、従来機である《047AN》と比べて徹底的な軽量化を施し、空中戦主体となった《063AN》の戦闘スタイルと――何よりも、蝶のように舞い蜂のように刺す、を徹底的に叩き込まれてきたリリウム自身の戦闘スタイルとは、噛み合うとは思えなかった。
(だから必要ない? ……いいえ、違う。本当はそうではない……)
 ――だが、それは言い訳にすぎない。
 結局のところ、王女然と祭り上げられながらも、自分にはあの二人のような真似をしてみせるだけの自信がないのだ。あの《ストレイド》のリンクスのようにどこまでも苛烈に振る舞う事も、そしてメイ・グリンフィールドのように率直に学び、即座に吸収してみせる事も。さらに言えば、目の前のこの男のように、全てを傲岸不遜に見下しながらも、その実、全ての本質を的確に言い当てるような事も。
(全く……我ながら、情けない話です、ね……)
 まさか、あの新人リンクスやこの男はもちろんの事、自身より格下と思っていた少女にまで、このような敗北感めいた感情を覚えさせられるとは。世界は、自分が思っていたのよりもずっと広かったのかもしれない。
 そうして、リリウムが表情を陰らせていく隣で、画面の中の半壊した《ストレイド》を睨んでいたオッツダルヴァは、なおも痛烈な言葉を吐いていく。
「ある意味、オーメルやアスピナの技術屋連中にこそ見せてやりたい光景だな。連中は二言目には「速さが足りない」ばかりだが、する事といえば徹底した軽量化と高出力化、そして空力特性の追求ばかりで、こういった形での“速さ”があるという事に全く気がついていない。ネクストは単なるレーシング・マシンではなく、もっと強大な敵を駆逐するための兵器として生まれたはずなのだ。だというのに、そんな事も理解できずに速度だけを追求し続けた結果が、《ライール》や《ソブレロ》のような脆弱極まる機体だ。机上の空論ならばまだしも、実戦の中でそれでは、な」
「……貴方にとって《ライール》は半身とも言える存在でしょうに、ずいぶんな仰り様なのですね、オッツダルヴァ様?」
 自分が属する組織に対する批判そのものの言葉に、リリウムは思わず皮肉めいた言葉を口にしていた。
 オッツダルヴァの現在の乗機である《ステイシス》――そのベースとなった、現行のネクストの中でも最強最速と名高い最新鋭機《タイプ・ライール》の機体性能に、しかし彼が強い不満を持っているというのは、カラードの関係者の間では有名な話だった。
 何しろ、オッツダルヴァの戦闘スタイルそれ自体が、本来は近距離での高速機動戦を想定した《タイプ・ライール》のコンセプトをあからさまに無視した、中距離射撃戦をメインとしたものなのである。その戦闘スタイルの差異それ自体が、オーメルと彼との距離感を如実に表しているという話もあれば、《ステイシス》の持つ高出力レーザーバズーカ《ER-0705》や新型PMミサイル《MP-0901》などは、射撃戦を志向するオッツダルヴァの専用装備としてわざわざ用意された、なんて話もあるほどだ。
 しかし、当のオッツダルヴァはといえば、こちらを見る事すらせずに鼻を鳴らすと、
「何だ、問い返しの次は皮肉か? 随分と口が立つようになったじゃないか、リリウム・ウォルコット。大好きな大叔父様とやらの死がよほど堪えたと見える」
「…………っ!」
 当のウィリアム・ウォルコット本人と後見人であり敬愛する王小龍以外、誰にも触れられた事のないデリケートな部分を指摘され、しかしリリウムの胸に去来したのは、憤りではなく驚愕だった。
 まただ。またこの男は、本来ならばこの男の地位では本来知り得るはずのない、リンクス個人の詳細な情報を口にした。少なくともこの男には、敵対する企業の内部情報を知る術がある。政治力に長けたオーメルのリンクスだからではなく、彼個人だからこそできる何かが。それが何を意味するのかは自分には分からないが、せめてその事実だけでも、すぐに王大人に伝えなければ――
 男の横顔を睨み、決心したリリウムは、しかし、だからこそ気づけなかった。口では嘲るように言いながらも、オッツダルヴァの鋭い眼差しが虎視眈々と目の前の戦闘を見据えている事に。
(……先程は押されていたが、それでもなかなかの動きと判断だ。ふん、少なくとも、カラードでなら上位十人くらいの中には入るか。この時点でも、能力的には“駒”とするには十分ではある。対するローディーの義娘の動きも悪くない。こちらは親子ともども、後々障害になるやもしれんな……)
 その怜悧な頭脳が、研ぎ澄まされた思考が、コンピューター顔負けの冷静沈着さでもって先程の戦闘を徹底的に分析していく。
 圧倒的な戦闘力と類まれなセンスゆえに、周囲から“天才”などともてはやされているオッツダルヴァだが、その実、彼自身は自分の才能に自惚れた事などなかった。彼の生涯において、そのように慢心している暇など一度足りとてありはしなかったし、挫折や苦悩など数えきれないくらい経験している。無残な敗北や不名誉な撤退、無価値な喪失など彼にとっては珍しい事ですらなかった。
 彼にとって敵とは、常にそういうものだった。真の意味で彼が見据えている“敵”は、彼自身よりも遥かに強大で、数多で、老獪で、醜悪で、何よりも恐ろしいものだったのだ。
 当然である。彼が敵に回そうとしているものは、ある意味ではこの世界そのもの。欲望と陰謀渦巻くこの世界を動かしてきた、ルールそのものと言ってもいい存在なのだから。
 だが、それでも。それでも彼は、否、“彼ら”は戦わねばならなかった。
 ――全ては、自身の、そして自分たちの“答え”のため。
 そして、この閉ざされた星に住まう、人類全ての“未来”のために。
 ゆえに、オッツダルヴァという男に慢心はない。圧倒的な才覚に恵まれながらも、どこまでも用心深く立ち回り、どこまでも諦めずに戦い続け、利用できるものはとことん利用し、吸収できるものは吸収し続けてきた。だからこそ彼は、この化け物揃いの最上位リンクスの中にあって、トップランカーの地位にあり続けられたのだ。
(正体不明の独立傭兵……そしてあのエンブレム……やはり、あの男の……メルツェルの話では、あの霞スミカが関わっているという話だが……。ふん、言うに事欠いて“亡霊”とはな……王の老いぼれも、何か感づいていると見るべきか……)
 そうして、完全に身を起こした二機のネクストを見やる。やはり彼我の装甲の差は歴然。小さくないダメージを負ったとはいえ、未だ全ての機能が健在な《メリーゲート》と、半壊し、武装の大半と左腕を潰された《ストレイド》とでは、もはや勝敗は明らかだった。
 ……そう、彼我の状況を見て、まともな判断を下したならば。だが同時に、このままでは終わるまい、ともオッツダルヴァは踏んでいた。
(……だが、この程度では足りん。あの《マザーウィル》を落とした力、こんなものではあるまい。押されているというのならむしろ好都合だ。見せてみろ、貴様の本当の力を……!)
 オッツダルヴァの昏いブルーの瞳が獰猛な光を帯びる。その眼前で、砂色のネクストのカメラアイが、禍々しい赤色に輝いていき――

 

 

 十一時五十分。リンクス管理機構カラード本部。ホストコンピューター内の仮想空間、旧ピース・シティ・エリアにて。

「あいたたた……やっぱ、無茶だったか……!」
 激突の衝撃でバランスを崩して倒れ込んだ機体を起き上がらせながら、わたしは全身を奔る痛みに頭を振った。ヘルメット越しとはいえ、操作パネルやヘッドレストに何度も叩きつけられた頭がずきずきと疼く。強烈なGに幾度となく振り回された体は、がっちりと固定しているはずのガードバーやシートベルトが食い込み、はり裂けそうなほどに痛い。パイロットスーツを着ているとはいえ、あざや傷になっていてもおかしくない――いや、確実になっているな、これは。
 時速七百キロを優に超したネクスト同士の正面衝突。それがもたらした衝撃は、凄まじい、なんていう言葉で片付けていいほど生易しいものではなかった。コジマ粒子を利用した耐G緩和装置や強固な構造のパイロットスーツ、厳重に固定したガードバーやシートベルトがあってもなおこの有様である。実際にシートベルト無しで自動車事故に遭う方がなんぼかマシなんじゃないかと思えてくるような、そういうレベルだったのだ。
(……いや、リアルなのはいいけどさ。もう少しこう、何というか、手心というか……)
 基本的にネクストのコックピットというものは、ノーマルやMTのような機体と一体になったタイプと異なり、機体と独立した球状の構造物となっている。ある意味で機体そのものよりも搭乗者の方が貴重であるネクストならではの構造で、当然のように脱出ポッドとしての機能を有しているのだが、独立構造による副次的な効果として、機体の向きによらず自在に向きを変えられるという機能もあった。そしてそれは、ネクストの実機を流用して建造されたこのシミュレーターも同じ構造だったりする。
 つまり何が言いたいかというと、このシミュレーターのコックピットブロックは、仮想空間内のネクストの動きに応じて、回転したり震動したりする構造になっているという事だ。それも、もの凄い勢いで。さらに通常であればその名の通りGを抑えるために使われる耐G緩和装置を、逆に疑似的なGを発生させるのに使っているとなれば、リンクスに掛かる衝撃や負担はもう実機に乗っているのと何ら変わりがないものとなる。ましてや、あの速度で真正面から衝突したとなれば、そのダメージは推して知るべしというものだった。
「左脚は……ああ、ダメだこりゃ。駆動系が全部イカれちゃってる……」
 統合制御システムに命じて、機体のダメージをチェックし――その深刻さに肩をすくめる。ありとあらゆる箇所に異常を示すアラームが点灯し、関節系は動かすだけでぎしぎしと異音を出してくる。特に直接の激突箇所である左脚のダメージは想像以上に深刻だった。ぶ厚いはずの装甲板はべこべこにへこみ、多重複合装甲も何層に渡って断裂している。アクチュエータ複雑系のダメージも相当なもので、もうさっきのように地面を蹴って加速する、なんて事はできそうにない。現実であれば即オーバーホールか、いっそ脚部丸ごと総取り換えが必要なくらいだ。
 ……まあこれは、互いに限界を超えて加速した機体同士の激突のいうのも大きいのだろうが。仮に片方が停止した状態であれば、ここまで酷くはないのだろうか? まあ何にせよ、結論としては、
(実戦では間違いなく使えるけど、同時に多用もできそうもないわね……ていうか、したくない……)
 この威力と衝撃。ネクストはともかくとしてノーマルくらいなら一撃だろうけど、こんなコトをやり続けようものなら機体やわたしの方が持ちこたえられなくなる。いくらとっさの事とはいえ、その場のノリであんな無茶をするんじゃなかった……いや、実戦でやらかしていたよりはマシなのかな? 痛くなければ覚えないとも言うし。
「えっと、《ストレイド》の方は……うわぁ、あっちの方も随分と酷いコトになってる……」
 少し離れたところでこちらに相対しながら身を起こす砂色の機体を見やり、思わずそんな言葉が口をついて出る。
 《ストレイド》は全身の装甲がぐしゃぐしゃになり、関節や装甲の割れ目など、いろんなところから火花を散らしていて、《メリーゲート》と同等、いやそれ以上に深刻なダメージを負っているのが見て取れる。
 特にだらりと垂れ下がった左腕は、一目で用を足さないと分かる有様で、腕を覆う装甲はあらゆる箇所が裂け、内部のアクチュエータ複雑系やケーブル類までもが露出して見える。関節は完全に馬鹿になっていて、機体の動きでもってぷらりぷらりと揺れ動き、もう繋がっているのが不思議なほど。当然、そこに接続されていたレーザーブレード発振器も原型を留めないほどに潰れていて、もはや何の役に立たないのは明らかだった。倒れ込んだ時のものか、背部のチェインガンの砲身は途中で折れ曲がり、散布型ミサイルランチャーは先の攻防で失われ、無事な火器は右腕のレーザーライフルのみという有様である。
『…………』
 リンクスが無言の敵意を叩きつけ、左半分が潰れたカメラアイが、ピンク色の眼光をこちらに向けてくる。
 その有様でもなお立ち上がるというのは、つまりはそういう事だろう。機体がこんなになっても、あいつはまだ諦めていない。あいつはまだ、わたしに勝てると思っているのだ。頼みの綱だっただろうレーザーブレードも破壊され、使える武装も戦術ももう限られているというのに。
(呆れた……こいつ、とんだ猪武者じゃないの……)
 その姿に、わたしは驚きを通り越して、ある種の憐憫すら覚えていた。きっとあいつは、今まで一度も負けた事がないのだろう。だから、引き際を知らない。シミュレーションだからという問題じゃない。これ以上は無理だという生死の境目が分からないのだ。今思えば、リッチランドの時だってそうだった。不用意にアームズフォートの弾幕に突貫して、こっちが助けに入らなければ、危うく死ぬところだったかもしれないというのに――
「はぁ……」
 相手に聞こえるくらい仰々しく、ため息をついてやる。
 今まで昂っていた気持ちが、戦意が急速に萎えていくのを感じた。代わりに感じたのは、目の前のリンクスに対する失望感だった。
 もういい。見込み違いもいいところだ。こんなヤツに興味なんて持ったわたしが、相性がいいなんて思ってしまったわたしが馬鹿だった。これまでの戦果の数々も、きっと《マザーウィル》を撃破したのだって、幸運に幸運が重なった結果に過ぎなかった。それこそ明日にでも野垂れ死んでもおかしくないような、その程度のヤツに過ぎなかったのだ。
 ……まあでも、結果的にはこれで良かったのかもしれない。もう会う事もないだろうあいつがどこかでくたばる前に、使えそうな技術だけはこっちのモノにできたのだから。
(……さようなら、新人さん。これで自分の実力に気づいて、こんな世界から足を洗えたらいいのにね……)
 そんなコトを考えながら、両腕の武器を持ち上げる。後はロックオンを待ってトリガーを引くだけ。これでこの下らない戦いも終わる。この新人とも、もう相見える事は――そう思った、まさにその時だった。
『……す、……す、……す』
 何を言っているのか聞き取れない、うわ言めいたその声が聞こえたのは。
「……え?」
 思わずトリガーを引きかけた意識を止め、聞き返す。それがまだ若い――ずっと若い少年の声だと気づいたのも一瞬。《ストレイド》の複眼型のカメラアイが、禍々しい赤い光を発して、
「……なっ!?」
 瞬間、その姿が目の前から掻き消えていた。機体の倍はあろうかという巨大な噴射炎を肩から、背中から噴き出し、もはや炎と一体となったぼやけた影となりながら、《ストレイド》の姿が高速でスライドしていく。その中で爛々と光る赤いカメラアイの輝きを、まるで残像のように残しながら、こちらの周囲を縦横無尽に奔り続ける砂色の影――!
「何なの、これは……!? ……っ!」
 刹那、あらぬところからオレンジ色の光条が伸びてきて、《メリーゲート》の右腕に握られたライフルを直撃していた。長大な砲身が、大型のマガジンが熱した飴のように溶け落ち、とっさに手放した次の瞬間、それは周囲に爆炎と破片をまき散らしながら四散していった。
 慌てて機体を急速後退させて被害半径から離脱し、残った大口径無反動砲を構える。あの動き……クイックブースト? またしても地を蹴って? ……いや、違う! ただのクイックブーストじゃない! あの二つの炎が重なって見える、巨大かつ特徴的な噴射炎。そしてこの常識外れとしか言いようのないスピードは――!
「だ、ダブルアクセル!? しかも、こんな連続で……!?」
 さっきの激突の際、こちらが使った荒技。それを《ストレイド》は使っている。しかもわたしの時のような単発じゃない。左右に、前後に。移動に使っているクイックブースト、その全てをダブルアクセルでやっているとしか思えないスピードだった。
 中量級であるにも関わらずこのスピード。先の《フラジール》戦に匹敵――いや、あの時は距離があったし、敵も攻めに消極的だった。だが、こいつは違う! これだけの近距離で、しかも積極的に攻勢に出られては、重量級であるこちらにはなす術がない……!
「ろ、ロックオンが……間に合わな……、……っ!?」
 気づいた時には懐に入り込まれていた。《ストレイド》が右腕に装備したレーザーライフルからレーザーを連続で照射しながら、右腕を横に振るう。まるでレーザーブレードのそれを思わせる光景は、まさしく同様の効果をもたらしていた。《メリーゲート》の左腕に装備された無反動砲の太い砲身が、それを保持した左腕ごとオレンジ色の光軸によって両断されたのだ。
「嘘でしょ!?」
 焼き切られた弾倉が至近距離で暴発し、《メリーゲート》の左半身を焼き焦がしていく。あっという間に両腕の火器を失った《メリーゲート》は、もはや至近距離戦に対応する術を失っていた。さっきの《ワンダフルボディ》戦そのものの光景にぞっとしながら、それでも何とか反撃しようと、両肩のミサイルポッドを展開しようとして――
「きゃっ……!?」
 そこに、凄まじい衝撃が来た。地を蹴ってのクイックブーストで急加速した《ストレイド》が、その勢いのまま、あろう事か《メリーゲート》の腹部めがけて、強烈な蹴りを喰らわせてきたのだ……!
「ああああああああああああっ!」
 猛烈な震動に悲鳴を上げる。《メリーゲート》の重量二百五十トン超に比べ、向こうは二百トンにも及ばない。通常であれば競り勝つのはこちらだが、この時は圧倒的な速度差が向こうに味方した。質量に速度を掛け合わせた破滅的な反作用に耐え切れずに倒れ込む《メリーゲート》の動きに合わせて、コックピットブロックが後ろに九十度傾きながらがくんがくんと震動していき、あまりの衝撃に舌を噛みそうになる。
「うう……こんな……うあぁっ!?」
 機体同様に仰向けになりながらも言いかけた言葉は、なおも襲った震動に掻き消された。いつの間にこちらの至近距離まで踏み込んだのか、倒れ伏した《メリーゲート》を抑え込むかのように、《ストレイド》が全体重を乗せた左足でもって踏みつけてきたのだ。二百トン近い強烈な荷重に耐えきれず、胴体部の装甲板やフレームに強烈な負荷がかかり、コックピットに次々とアラームが瞬いていく。
「は、反撃を……!」
 それでも必死で意識を動かし、眼前の敵を睨みつける。唯一残った背部の垂直式ミサイルランチャーは倒れ込んだ機体に押し潰され、このままでは発射できない。それでも連動ミサイルの直当て狙いで、せめて刺し違えるくらいは、と発射モードを切り替えていくが、それはこの敵を前にしてはあまりにも遅すぎる動きだった。
 ごつん、という音にとっさに視線を下に向ける。すると、コックピットの真上にある腹部装甲板に半ば突き立てられるようにして、《ストレイド》のレーザーライフルの銃口があって――
「ちょ……、待っ……」
 こちらが言葉を言い切るよりも早く。ゼロ距離から次々と照射されていく膨大な熱量を持った光条が、《メリーゲート》の装甲を焼き抉っていった。視界がオレンジ色の光で埋め尽くされ、コックピットが激しく震動していって――そうして数秒も経たないうちに、その震動は治まっていた。攻撃に耐えきったのではない。腹部装甲板が焼き切られ、コックピットごとリンクスを潰されたとシミュレーターに判断されたのだ。視界の端に赤色で表示された、ゼロとなった自機のAP(アーマーポイント)がそれを証明していた。
「……負け、た……? こんな……こんな事が……」
 かすれたような呟きしか出てこない。
 負けた。完膚なきまでに負けた。
 このわたしが。あの状況から。こんなにも、あっさりと。
 もはや呆然と見上げるしかないわたしの視界の中で、倒れ伏した《メリーゲート》に左足をかけたまま、傲然とこちらを見下ろす砂色の機体。そのカメラアイから、禍々しい赤い光がゆっくりと消えていき――

 

 

 十一時五十五分。リンクス管理機構カラード本部にて。

「こんな……こんな事が……」
 奇しくもメイ・グリンフィールドと全く同じ言葉を呟きながら、リリウム・ウォルコットは呆然とモニターを見つめていた。もはや彼女には眼前のモニター以外は何も見えず、何も聞こえていない。それほどまでに、その光景は異常だったのだ。
 半壊した《ストレイド》のカメラアイが禍々しく輝いたと思った刹那、その動きは一変していた。機体に倍する噴射炎を噴き出しながら、獣めいた、としか形容しようがない荒々しい動きでもって接近した砂色の機体は、あっという間に《メリーゲート》の両腕の武器を破壊すると、その巨体を蹴り倒し、コックピットに直接攻撃を仕掛け、瞬く間にこれを破壊していたのだ。
 時間にしてわずか三十秒。相手にある程度のダメージこそあったとはいえ、ネクスト相手に攻勢に出てから撃破するまでに要する時間としては、破格の短さだった。
(相手が弱すぎた? ……違う、そうじゃない……!)
 メイ・グリンフィールドは決して弱いリンクスではない。ランクこそ中の下といったところだが、先程の戦いぶりを加味すれば、実際にはランク以上の実力を隠し持っていたのは明らかだった。仮にリリウムが相手だったとしても、それなり以上には粘られただろう。
 ……にも関わらず、《ストレイド》はそれを圧倒的な力で捻り潰した。あれだけダメージを受けた状態の機体でだ。相当な実力差がなければできるものではない。
 いや、そもそも。実力がどうこう以前に、何なのだ、あの動きは。あの地を蹴るような動きですら尋常ではないのに、レーザーライフルをあんな風に使いこなすだけでなく、あまつさえクイックブースト・ダブルアクセルすらも完全に制御しているだと? 本来はリンクス自身を守るために存在する機体のリミッターを無理やり外さなければ使えない、あの人外の業を?
(無理だ……そんなコト、リリウムには……!)
 最高レベルのAMS適正を有した自分ですら、あのような動きはできない。クイックブースト・ダブルアクセルはもちろん知っているし、実際に使えもする。だが、使える事は使えるが、要所要所で使う程度だ。過剰すぎる推進力は戦闘の局面によっては何の意味もないし、何より多大な精神負荷は戦闘の妨げにしかならない。自分で自分の首を絞めるだけだ――そのように自分に自分で言い訳をして。
 それを、あのリンクスは連続で使い続けていた。ダブルアクセルすら負荷にならない次元違いのAMS適性を有しているのか、それとも驚異的な精神力でもって精神負荷を無理やりねじ伏せているのか――どちらにせよ、異常すぎる相手としか言いようがなかった。
(どうやって止めればいいの? こんな相手、どうやったら……!)
 もはや一流だの超一流だのという話ではない。あのリンクスは、まさしく化け物だ。あれが相手では、ウィリアムが指揮する《スピリット・オブ・マザーウィル》が敗れるのも無理なからぬ話だったのだ。あんなものを止められる自信は、今の自分にはない。仮に王小龍と二人がかりで挑んだとしても、必ず勝てるとは断言できない。できるわけがない。……否、そもそもとして、あんな化け物めいたリンクスを止められる存在が、はたしてこのカラードにいるのだろうか……?
(……いえ、“彼女”なら……あの人ならば、あるいは……!)
 その時、リリウムに思い当たる事があった。ランクこそ自分を下回るものの、実力においても実績においても自分を上回る、あのリンクスなら。その凄まじい戦闘力と苛烈な戦いぶりで、BFFはおろかGAからも恐れられているあの女傑ならば、あるいは。
 元々が敵対関係にある人物であるが故に今まで思考の外に置いていたが、彼女の実力であれば、あの《ストレイド》を止める事も不可能ではないかもしれない。そして、そんな彼女に匹敵する腕を持つと言われる、隣にいるこの男の力があれば、あるいは――
 そう思い立ち、縋るように隣に視線を移した時だった。
「……オッツダルヴァ、様……?」
 リリウムの声が所在なさげに虚空を泳ぐ。先ほどまで隣にいたはずの男の姿が、ない。
 開けっ放しになった天然木製のドアが、きいきいと耳障りな音を立てる。立派な造りのはずのそれが、まるで今のリリウム自身の心情のように、頼りなげに揺れ動いていき――

****

 その頃、オッツダルヴァは既に会議室の外に出て、薄暗い廊下を歩いていた。試合が終わったのを見届けた彼は、リリウム・ウォルコットが呆然としているのを尻目にさっさと退出し、自分用に割り当てられた個室に戻るところだったのだ。首を長くして待っているであろう同志たちに、手に入れたばかりの朗報を伝えるために。
「くくく……」
 喉から笑い声が漏れる。リリウムと違って、驚きはなかった。ある意味でオッツダルヴァが予想した通りの結末だったからだ。いや、むしろ予想以上と言ってもよかった。彼が待ち望んでいた、圧倒的な実力を持ったリンクスの出現――ほくそ笑むなと言って、無理があろうというものだ。
「これはいい……! ある意味、最大の問題の目途がついたという事だ……!」
 歓喜の声を上げるオッツダルヴァの脳裏には、純白に染め上げられたネクストの姿があった。
 ――ラインアークの“白い閃光”。リンクス戦争最大の英雄にして、カラード最大の敵対勢力。かつて自分たちの意志を打ち砕いた、憎むべき仇敵。
 オッツダルヴァがカラードの最高戦力だというなら、ヤツはまさしくこの世界における最強のネクスト戦力だ。世界の命運を左右する事よりも下らない女とともに生きる事を選び、今やリベルタリア気取りの政治屋どもの用心棒めいた地位に納まっているだけの下らない男に過ぎないが、それでも自分たちが果たそうとしている“目的”の障害となるであろう事は、火を見るよりも明らかだった。来るべき決起の時までに、何としてでも片付けておかねばならない相手である、というのが彼とその同志たちの共通の認識だったのだ。
 ヤツを倒すためにあと一手、二手は必要だとオッツダルヴァは踏んでいたのだが、超一流どころのリンクスが無益な戦いに動くはずもなく、さりとて有象無象のリンクスでは足を引っ張るだけ。だからといって、同志の貴重な戦力を割くわけにもいかない。さて如何にすべきかと思案していたところに、まさに絶好の手札が転がり込んできたようなものだった。おそらくは向こうにとってもノーマークな、使い潰しても構わず、かつ重要な場面で使うに足るだけの実力を持った手札が。
「凡俗の傭兵どもであれば、金なり、女なり、理想なり、何かしら代価がいるところだが、おそらくあの独立傭兵にそれは必要あるまい……」
 オッツダルヴァの推測が正しければ、あの独立傭兵とは利害が、目的が一致する。であるならば、話の持って行き方次第では駒として利用する事も、さらに向こうの考え方次第では、同志として懐柔する事すらも可能だという事だ。
 ――あの独立傭兵が、人語も介さない獣でもない限りは。
「あの忌々しい“アナトリアの傭兵”さえ排除できれば、もうこんなところに用はない。思っていたよりも早く帰還できそうだぞ、メルツェル……!」
 そのためには情報がいる。あの独立傭兵に繋がる、ありとあらゆる情報が。どんな人間だろうと過去というものはある。錆びついた鎖めいて人を縛りつける、人と人の繋がりというものが。それを調べるのはオッツダルヴァではない。彼の最大の同志である、ありとあらゆる面倒や労苦をいとわぬ男が必ずややってくれるに違いない。そうして露わになった傷に楔を打ち込み、鎖を断ち切る事こそが扇動者である彼自身の役目となろう。
 今すぐには無理だろうが、次の“熱月”まで、あと一年。来るべきその日までに、あの独立傭兵の事も、その他の諸々の事も含め、しっかりと準備を整えておかねばならない。状況は既に手遅れではあるが、同時に緩慢でもある。今更焦りはすまい。焦るのは老人たちだけでいい。我々には時間がある。若さという名の、時間が。
 そうほくそ笑み、若き天才は暗い廊下を進んでいく。確たる信念や断固たる決意、未来への意思――そういったものをその身に刻み込んだ、決断的な足取りで。

 

 

 十二時五分。リンクス管理機構カラード本部、シミュレーションルームにて。

「あぁああああああああああああああっ! わたしがこんな……何故っ!?」
 あの衝撃的な敗北から数分後。上半身だけになった《タイプ・ユディト》から降り立ったわたしは、頭を抱えながら声をいっぱいにして絶叫していた。
 負けた! 悔しい! 恥ずかしい! 無様すぎる!
 あまりの情けなさに、顔を茹でダコのようにして身悶えていると、不意に後ろから揶揄するような声がかかってきた。
「……うわ、だっせぇ。あんだけ大見得切って、あんだけ追い込んどいて、あっさり逆転負けするなんて、本当にだっせぇの」
「あああああああああっ! お願い、言わないでぇえええええっ!」
 シミュレーターに背中を預けるようにして腕組み、こちらを揶揄してくるドンに、耳を塞いでしゃがみ込みながら、首をいやいやと振るう。「いい薬だ、馬鹿娘め」と言いつのったドンに涙ぐんだ目線を向けていると、そこで唐突に、大きな男の声が張り上げられていった。
「よ~し、これから戦闘データの再確認だ! こいつは忙しくなるぞ!」
 声の主は、GAの技術者たちの一人だった。しゃがみ込みながらそちらを見やると、何人もの技術者たちがタブレットや紙の束を手に、議論をぶつけ合っていくところで。
「ネクストの速度と重量で蹴り潰す、か。良いじゃないか! 何で今まで誰も考えつかなかったんだ?」
「ネクストは圧倒的な機動性が売りですから。至近距離でのどつき合いなんてのは想定外だったんですよ」
「ノーマル相手には既存の火器で十分ですし、ネクスト相手の一撃離脱戦法ならレーザーブレードとかの方が遥かに有用ですからね」
「見ての通り機体に掛かる負荷も無視できませんし、多用するのは危険かと」
「でも、使えますよこれは! 近接格闘機の攻撃手段だけでなく、射撃機が寄られた時の窮余の策としても有用かもしれません!」
「そうそう! それに相手のネクストの、あの地を蹴るような動き! あれをプログラミングで再現できれば、《ニューサンシャイン》の機動性はさらに上がりますよ!」
「いや……それは、流石に厳しいんじゃないか? 少なくとも少尉レベルの適性がなければ、あれは使いこなせないように思えるが……」
 GAの技術者たちは、男も女も、老いも若きも、その全員が思い思いに声を出し合いながら、張り切って解析作業を進めている。よほど良いデータが取れたらしい。床に置かれた端末の画面には数字の羅列が凄い勢いでスクロールしていき、キーボードを叩く音や、紙にデータを印刷する音がひっきりなしに響いてくる。
「う~ん、いっそ脚部にも武器を積んでみるか? パイルバンカーとかグラインドブレードとか、そんな感じで!」
「それじゃ扱い辛いし、死荷重になります。脚につけるミサイルランチャーとかどうです?」
「いやいや、それは本末転倒ですって。それよりも、どっちかの脚に打突武器を兼ねた追加装甲をつけるのはどうでしょう? 防御する時に拡がって、大型の盾になるとか!」
「おっ、良いなそれ! 攻防一体の新装備! 技術者冥利に尽きるってもんだ!」
「爆発反応装甲つけるのもいいんじゃない? 激突と同時に炸裂して破壊力増、みたいな!」
「ノーマルにも使えませんかねぇ? 元々うちの《ソーラーウィンド》は装甲が厚いんだし、他社のノーマルくらいなら十分イケると思うんですけど」
「重いのはいいけど、速度がないからちょっと厳しいんじゃない? まあでも、手持ち用のシールドはもうあるんだし、そこに格闘用のクローか何かを追加するって手もあるか……」
 何だか、実に楽しそうに議論している。ものが兵器の……人殺しの道具の話のはずなのに、まるで新しいおもちゃをもらった子供みたいだ。そんな技術者たちをじっと眺めているうちに、そのうちの一人とふと目が合い、良くやってくれた、と言わんばかりにサムズアップしてきて、わたしはその満面の笑顔から思わず視線を逸らしていた。
 ……いい気なものだ。こっちは、あれだけ無様に負けたっていうのに。ドンの仇も、取れなかったっていうのに。
 そうやってしゃがんだまま落ち込んでいると、流石に言い過ぎたと思ったのか、ドンが歩み寄ってきて、フォローするような言葉を投げかけてくる。
「まあ、勝利は時の運だって言うじゃねぇか。お前は良くやってたよ。やってたが……まあ、今回ばかりは相手が悪すぎた、それだけだと思うぜ?」
「……うん」
「そう言う俺も、最近気が緩んでたのかもな。まぁ、ネクストがあんな動きができるって分かっただけでもめっけもんさ。ちょうど大佐殿も帰ってきた事だし、また一から鍛え直すとするかね」
「……うん」
 と、らしくなく殊勝なコトを言ってくるドンに、小さく頷くと、
「……うん、やっぱり納得いかない」
 と一声して、きっ、と顔を上げる。「……はぁ?」と聞き返してくるドンの声に、振り向きがてら立ち上がると、
「だってアイツ、終盤になってあれだけ動けたってコトは、序盤は思いっきり手加減してたってコトじゃないの。舐めプもいいところよ? そんなの納得できるワケないじゃない!」
「納得できるわけない、って……じゃあどうすんだよ? 試合はもうとっくに終わっちまってるんだぞ? お前のぼろ負けでな」
 負け、という部分を殊更に強調して言ってくるドンに、しかしわたしは真正面から視線をぶつけて、
「だから、試合結果なんてどうでもいいの! わたしはともかく、あのリンクスに一言くらい言ってやらないと気が済まないって、ただそれだけよ!」
 びしり、と人差し指を向けて言い放つ。それにドンは渋面を浮かべたまま、深々と嘆息し、
「まあ、行きたいなら止めはしないけどよ。これ以上のトラブルは起こすんじゃねぇぞ」
「あったりまえよ! わたしを何だと思ってるの!」
 それに大声で返しながら振り向いて。わたしはシミュレーションルームの出口へ向かって、一直線に駆け出していったのだった。

****

 ――ぱたぱたと駆けていく緑色のパイロットスーツを見送ると、ドンはもう一度ため息をついた。
「まったく……元気だね、あの馬鹿娘も……」
 そうして、ぽりぽりと後ろ髪を搔きつつ壁にもたれかかると、パイロットスーツの腰に備え付けられたポシェットから、紙煙草とジッポライターを取り出す。包みから一本取り出すと慣れた手つきで火を点け、口に咥えて一息つく。そうして紫煙が肺を満たしていく感触を味わいながら、脳にじっくりと血を巡らせていく。これは彼が考え事をする時のルーティン(手順)のようなものだった。
「…………」
 続けざまに行われた二つの試合、そこで繰り広げられた光景に思考を巡らせる。大写しになった砂色のネクストの左肩に描かれた、三日月に縁どられた黄昏の砂漠を往く、白と黒で描かれた隻眼の狼の絵。そして今の試合の、あの凄まじいクイックブーストを駆使して縦横無尽に戦場を駆ける、獣の如き戦いぶりは。
「あのエンブレムに、あの動き……。偶然の一致ってわけはねぇだろうし、やっぱりそういう事だよな……」
 記憶の中にある赤銅色のネクスト、その左肩に描かれたエンブレムを思い出す。細部こそ多少異なってはいるが、全体的にはほぼ一致するその意匠。名のある機体のエンブレムが模倣される事など、昔から珍しくもない事だと承知してはいるが、あの実力を――そしてどこか似通った機動を見る限り、そのような下らない偽物とも思えなかった。
 もしもあれが他者による模倣でないとしたら。本人あるいはそれに近しい者の手によるものだとしたら。仮にドンの想像通りだとしたら、あえてそのように見せてくる意図は――
 ドンは咥えていた煙草を一吸いし、陰鬱そうに眉根を寄せる。
 生命の存在を拒む過酷な北アフリカの大地。
 黄昏の砂漠の中、悪鬼のごとく暴れ狂う赤銅色の獣。
 燃え盛るコンビナート跡で繰り広げられた、“便所”めいた地獄絵図。
 もう二度と思い出す事もないだろう――そう蓋をしていた忌々しい記憶が、悪夢そのものの光景が鮮明に蘇っていく。そうして、
「“砂漠の狼”、か……。もしも本物なら十一年ぶりか……? まあ、化けて出たくなる気持ちも分からないじゃないがな……」
 ぼそりと呟いたドンの声。どこか沈鬱な響きを帯びたそれは、懺悔にも憐憫にも似て――

****

 このカラード本部にシミュレーションルームは四つあるが、大雑把に言って二つのシミュレーションルームが隣り合うようにして建てられていて、これに更衣室やトイレなどがセットになったものがワンセクションとなっている。で、このワンセクションが互いに反対側を向くようにして配置されていて、その周囲をぐるりと囲んだ一般区画を通らないと互いに行き来できないという、変な構造になっているのだ。対戦する時は隣り合わせの方ではなく、背中合わせになっている方のシミュレーションルーム同士で行う事になっていて、対戦相手が顔を合わせるためには、一般区画まで回り込まなければならなかった。
 戦闘直後の興奮状態で対戦相手同士が接触し、ケンカや諍いなどの無用なトラブルを起こすのを回避するための仕組みだそうで、古くはレイヴンと呼ばれる傭兵たちによって行われていたノーマル同士の賭け試合――“アリーナ”と呼ばれるものが開催されていた時代からの、伝統的な造りなのだという。
 とはいえ、何処の馬の骨とも知れない傭兵たちの時代ならいざ知らず、エリートパイロットであるリンクスの時代となった今となっては、そのようなトラブルはほぼ起きていない。後援企業の顔を立てなければならないという事情もあるし、何よりも“含むところがあれば戦場で好きなだけやればいい”というのがカラード設立以来のリンクス間の不文律だからだ。そんなわけで、このシミュレーションルームの構造の意味もまたカラードの理念同様に形骸化して久しいものであり、今や使う側にとっては不便極まりない、はなはだ迷惑なものに成り下がってしまっていた。
「……ったくもう、腹立つったら……!」
 で、その遠回りになった一般区画を早足で歩きながら、わたしは一路反対側のセクションを目指していた。
 パイロットスーツ姿の、一目でリンクスと知れる人間がこんなところにいるのが珍しいのか、それとも他に何か理由があるのか知らないが、道行く人たち――カラードの職員や企業関係者、それにオーダーマッチを見に来たのであろう観光客らしき人たちなどが、こちらを見るなりぎょっとした顔をして、まるでこちらを避けるかのように道を開けていく。それが余計に腹立たしくて、ますます歩くペースが上がっていく。
 廊下を走るのは禁止というルールがあるから、走らない。走らないのだが、歩きならスピードを出せないという道理はない。小走りを圧倒的に上回る早足の歩みで、ずんずんと足音を立てながら、わたしはもはや遮るものがない廊下をひたすらに突き進んでいく。
「……あ~、もう! ムカつく! いったいどういうつもりなのよ、あの新人リンクス……!」
 怒りの言葉を吐くごとに感情がヒートアップしていって、それがわたしの中でより余計に、怒りの炎を燃え上がらせていく。
 あんな凄まじい動き、これまでのオーダーマットはおろか、リッチランドの時ですら見た事がなかった。つまり、わたしがあの新人に最初に出会ったその時から、既にあいつに手加減されていたという事だ。模擬戦に過ぎないオーダーマッチはともかくとして、命がかかったミッションにおいてすら実力を隠していたとは、用意周到もここまで来ると腹立たしく思えてくる。勝手に期待して、勝手に失望して、そして挙句に大負けして。これじゃ振り回されたわたしが馬鹿みたいじゃない……!
「せめてその面拝んで、それで一言くらいガツンと言ってやらなきゃ、わたしの気が済まないんだから……!」
 そうして、まるで聖書に出てくる預言者みたいに人混みを割りながら、ずんずんと歩みを進めていったわたしは、数分後には大きな弧を描いた一般区画の廊下を潜り抜け、反対側のセクションの入り口にたどり着いていた。制止しようとした警備員を一瞥で黙らせて、薄暗い廊下を足音高く進み、リンクス用の更衣室の前に立つと、そのドアを何の躊躇いもなく開けて、
「頼もうっ! ……ちぃっ、いないっ!」
 ロッカーが並ぶ無人の更衣室をじろりと見回し、乱暴にドアを閉める。隣にあった更衣室や二つの控え室も同様で、一応部屋の奥まで探してみたものの、結局無駄足となってしまっていた。
「……となると、残りはシミュレーションルームか。確率は二分の一、いったいどちらにいるのかしらね?」
 そう呟きながら、なおも奥の方を目指していく。その途中、廊下の左端をこちらに向かって歩いてくる、何やら大きな箱のようなものを抱えた作業服姿の男たちとすれ違ったりして――
「……ん? 今のは、ひょっとするとアスピナの? ……そうか! そういうコトなら……!」
 ふと思いつき、廊下を駆け出す。ほどなくして廊下が二股に分かれ、そのうちの右の方を、わたしは確信を持って進んでいく。理由は、さっきのアスピナの作業員が廊下の左側を歩いていたから。ならば《ストレイド》のリンクスはその逆、右側の方のシミュレーションルームにいるはず……!
 そうして、長い廊下を駆け抜け、鋼鉄でできた頑丈そうなドアを潜り抜ける。鉄板造りの壁に大型モニター、コンクリート張りの床。そして部屋の中央に座して動かぬ黒色のネクストの上半身。配置のレイアウトこそ多少の差異があれど、基本的にはさっきまでいたシミュレーションルームとほぼ同じ造りだった。
 そして、その広大な部屋には誰の姿もなくて――
「よし! ドンピシャ!」
 読みが当たっていた事を確信し、思わずガッツポーズを取る。通常、どこかの企業なり組織なりに属しているのであれば、戦闘データの採取のために何人ものスタッフが同行するのが常だからだ。それがいないという事は、ここで戦っていたリンクスが、企業に属さない独立傭兵であるからに他ならない。そして今日ここにいる四人のリンクスの中で、独立傭兵なのは《ストレイド》のリンクスただ一人……!
「……でも、誰もいないってのは流石に……ひょっとして、もう帰っちゃったのかな?」
 そう呟きながらもシミュレーションルームに入り、とりあえずシミュレーターに近寄っていく。まるで巨大な偶像のようにも見えるそれを、横合いから回り込むようにして正面に回ると、コックピットのハッチは確かに閉まったままで。
「……ってコトは、まだ中にいるってわけよね。……もう結構な時間が経ってるのに、何やってるんだろ?」
 言って、一人で首を傾げる。試合終了から、何だかんだでもう十分以上も経っている。通常であれば、とっくに控え室に行っていてもおかしくはない時間だ。いろいろとデータの検証が必要な専属リンクスならいざ知らず、独立傭兵にそんなものは必要ないのに、いったい何を――?
 気にはなったが、とりあえず《ストレイド》のリンクスがこの中にいる事だけは間違いないわけで。意を決すると、機体の胴体部に設けられたタラップを昇り、ハッチ脇のコネクタに、首筋のジャックに直結した接続端子を突き刺す。目を閉じて電脳空間内を泳いでいき、あっという間に開閉スイッチにたどり着いて、
「……よし、開いた」
 わたしの声に応えるようにして、複合装甲製のハッチが甲高い空気音を伴って開いていく。そうして中の空間が外気に晒されていった途端、
「……あ、あが……あ、ぐぅううっ……」
 いかにも苦しげな、若い男の呻き声が聞こえてきた。
「え……?」
 と疑問の声が口から漏れる。呻き声? 何で? 試合には勝ったはずでしょう?
 いくつかの疑問が頭の中で飛び交うものの、とりあえず完全に開いたハッチに飛び乗り、恐る恐る中を覗いていく。すると、薄暗い鋼鉄の子宮の中、無数の機器や計器に埋もれるようにして、自分の顔を両手で覆った黒い人影がいた。黒いというのは比喩ではない。黒い髪に黒いパイロットスーツ、指の隙間から覗いた浅黒い肌と焦げ茶色の瞳という風に、全身が暗い色をしていたのだ。
「……みぎ、手……左手……口、は……はな、は……」
 そんな意味不明な呟きとともに、ぶるぶると震える両手が、特殊な繊維と樹脂で覆われた指先が、まるで確かめていくかのように顔の起伏をなぞっていく。
「め、目は……ふたつ。……いや、ひ、ひとつ……」
 特に自分の目をなぞる時は、そのまま目玉を自分で抉ってしまうんじゃないか、そう思えるくらいに指に力を籠めていて、
「ちょっと、あなた! 何をやっているの!? そんな自分で自分を傷つけるようなコトしちゃ、ダメでしょう……がっ!」
 思わずその若い男の腕を掴んで、引っ張って顔から引き剥がす。そうして、苦悶に満ちた顔が露わになり――
「……え? う、嘘……?」
 思わずそんな言葉が口をついて出る。露わになったその顔は、見覚えがあるものだったからだ。
 歳の頃は十代半ば。白髪が入り混じったぼさぼさの黒髪。浅黒い肌に精悍な顔立ち、そして一目見たら忘れられない、左目を深々と抉った傷跡。あの時のように澄ました表情ではなく苦悶に顔を歪め、ぼさぼさの髪も多少なりとも白髪が増えているように見えるけれど、間違いない。
 《ストレイド》と協働したリッチランドでの戦闘があった、あの日。夜のグリフォンの繁華街で、ぶつかりそうになったわたしを思いっきりぶん投げてくれた、あの隻眼の少年――!
「あんた……! あの時のクソガキ……!?」
 わたしがそう叫ぶと、それで向こうもこちらを思い出したのか、
「おま、え……あの時の……暴力、女……?」
 息も絶え絶えといった感じの、本当に苦しそうな声でそう言ってくる。激しい苦痛に耐えるかのように顔をしかめながら、残った右目でもってこちらを見やり、
「その、格好……おまえ……り、リンク、ス……だったの、か……?」
「それはこっちの台詞! ……じゃなくて!」
 叫びかかった反論を自分で打ち消す。相手の正体が誰かなんてどうでもいい。何でこいつはこんなにも苦しそうにしているのか。こんなに脂汗を流して、こんなにも顔色を悪くして、こんな苦しそうにしている理由が分からない。ひょっとしたら、シミュレーターの故障で異常な負荷がかかったとか、あるいはどこか内臓とかを痛めていたりするんじゃないかって、気が気じゃなかったのだ。
「いったいどうしたっていうのよ! 何でそんな苦しそうに……! 大丈夫なの!? 早くお医者さんを呼ばないと!」
 ふらふらと揺れていく小柄な体を支えようと、とっさに隻眼の少年の肩を掴んでやる。相手が激しく咳き込み、血が混じった吐瀉物がわたしの体にかかっていく。もはや吐き出すものがない、赤色混じりの透明な液体が緑色のパイロットスーツを汚していくが、そんなものを気にしている余裕は今のわたしにはなかった。
 ただの吐きすぎなのか、それとも何か病気なのかは知らないが、血を吐くくらいには喉か内臓を痛めている。このままじゃまずい――そう思って、彼の体を抱え上げようとした時だった。
「――おれに、触るな……っ!」
 そんな拒絶の言葉とともに、隻眼の少年がわたしの腕を掴んでくる。鍛えているのか、小柄なくせに凄い膂力だ。「痛っ……!」と漏らした声とともに肩を掴んだ手が引き剥がされ、前につんのめるようにしていた体が、ゆっくりと後ろに押し戻されていく。
「誰、が……おま、えら、に……! おまえ、ら……リンクス、なん、か……に……!」
 敵意と憎悪に満ちた声。何故か分からないけど、確実にこちらにも向けられている恨みめいた言葉。一つしかない焦げ茶色の瞳に宿った、強い憎しみと怒りの炎が、真っ直ぐにわたしに向けられて――
「……ふざけんじゃ、ない、わよっ……!」
 それに負けじと吠え返す。そんなコトを言ってる場合じゃない。あんたがそんなに苦しそうに、死にそうにしてるから、こんなコトをしているんでしょうが!
 隻眼の少年の強い力に負けないよう、一度は引き剥がされた手を再び押し込み、押し返されそうな体を前に押し込もうと踏ん張っていく。そう簡単に負けはしない。こう見えてこっちだって鍛えているし、体格はともかくとして背丈はこちらの方が上なんだから……!
 そうして、再びマウントを取ったわたしと、それを押し返そうとシートから身を起こした少年が、じりじりと押し合っていく。そうして、再び押し込まれたわたしが、足を踏ん張ろうと一歩下がろうとして、
「え……? きゃっ……!」
 足元にあった丸くて硬いものを踏み損ない、バランスを崩した体が勢いよく後ろに倒れ込んでいく。脱ぎ捨てられていたヘルメット――それの存在にようやく気がつくも、時既に遅く、ぐらりと傾いた体が、その腕を掴んでいた隻眼の少年ごと、ハッチの方へと倒れ込んでいき、
「あぁあああああああっ!」
「がっ、……!」
 二人分の悲鳴がコックピット内に響く。背中に叩きつけられる硬い感触と、腹や胸を強打した重い感触に、肺の中の空気が押し出されていく。強かに打ちつけた後頭部に、目の前にいくつもの星が飛び散っていく。そうして、数秒ほど悶絶していった後で、
「いた、た……いったい、何が……?」
 頭を振りながら、視線を前に向ける。ちょっと低いところに、苦悶と苦痛に顔をしかめる隻眼の少年の顔があって、さらにそれと地続きになるようにして、体の上にのしかかるような感触があって、
「え……?」
 恐る恐る視線を下に向ける。まだ細身の、でもしっかりと筋肉を感じさせる胸板がパイロットスーツに覆われた豊かな胸を押し潰し、鍛えられた太腿がこちらの股ぐらをこじ開けるように潜っている。互いに触れ合った下腹部には何か、しっかりと存在を主張するものの感触まで感じられていて、
「あ……、ああ……!」
 状況を理解するまで数秒の間があった。そうして、目に映る光景で、そして体の感触でもって何が起こったのかをようやく理解したわたしの頭の中は、一瞬で真っ白になってしまっていた。
 狭いコックピットの中で押し倒されている。男の人に、体を押しつけらるようにして……!
 脳が割れるように痛む。心臓が早鐘のように鳴り響く。体ががくがくと震えていく。自分の顔が恐怖に歪んでいくのが、はっきりと分かる。
「……なん……だ……?」
 間近にある隻眼の少年の顔が、こちらを見て怪訝そうな声を上げる。その姿が、声が、みるみるうちに全く別の何かへと変わっていって。
「――ひ、ぃ……い……」
 いやいやをするように首を横に振る。涙で視界がぼやける。がちがちと鳴る歯の隙間から、か細い悲鳴が漏れ出る。頭の中で、あの頃の悪夢のような記憶が鮮明に蘇っていく。
 ――薄暗い病院の裏庭。気がつけば、何人もの大人たちに囲まれて。
 覆いかぶさるようにして迫る大きな手。黄ばんだ歯並びと生臭い肉の臭い。げらげらと嗤うたくさんの声。
 腕で抵抗しようとしても、脚をばたつかせようとしても、四肢は太い腕に掴まれて動かせない。
 悲鳴を上げたくても、誰かに助けを求めようとしてもできない。口に■■が詰め込まれて、塞がれているから。
 薄い胸を乱暴に揉みしだかれ、これ以上開けないほど股を広げさせられて、下腹部に重い痛みと体温とがのしかかってきて。
 涙でぼやけた視界の正面には男の胴体しか映らなくて。だからせめて目を逸らして、青い空を呆然と見上げる事しかできなくて。
 蓋をしていた記憶が、感覚が、様々な感情が流れ出て、今この状況と混ざり合い、溶け合っていく。気がつけば目の前の“それ”は、人ですらない、漆黒に塗られた異形の機械へと変わっていった。スリット状の複眼に顔を覗き込まれ、ゴリラめいて長く骨ばった腕に組み敷かれて、そうして灼熱する塊を下腹部に押し当てられて。そのおぞましさと恐ろしさ、生々しい感触やむせ返る臭い、張り裂けるような激痛までもが、この上なく鮮烈に感じられて、
「おい、おまえ……本当に、大丈夫――」
「いや……いやぁあああああああああああああああああああああああぁぁっっ!!」
 口をついて出た絶叫は魂も裂けんばかりだった。あっという間に恐慌状態に陥り、もはや訳も分からず、目の前の人間が誰なのかさえも分からず、ただがむしゃらに振り回した右の掌。それが、身を起こしてどこか心配そうにこちらを見やる、隻眼の少年の左頬をまともに捉えて、
「……がぁっ! っ……、…………」
 強打された勢いのまま、ヘルメットのない頭がコックピットの内壁に叩きつけられる。ぶつかった衝撃でその部分の計器が割れ、ガラス片とともに何か赤いものが飛び散っていく。そうして、そこで気を失ってしまったのか、座り込むように内壁にぐったりともたれかかり、もはやぴくりとも動かなくなった隻眼の少年の姿を、わたしはハッチの上にあお向けに倒れ伏しながら、ぼんやりと眺めていた。
「…………」
 数十秒ほど経って、のろのろと身を起こしていく。自分で抱きしめた体ががたがたと震え、目からぼろぼろと涙が流れ落ちていく。漏れ出る嗚咽がコックピットに響く中、訳も分からない強い恐怖だけが頭の中を埋めつくして――そうして、我を失ったのが一瞬なら、我に返ったのもまた一瞬だった。
「また……やっちゃった、の……?」
 ぽつり、とした声で呟く。前の“発作”の時から、もう何年も経っているっていうのに。学校にも行って、ダンやドンを始めとしたいろんな男の人と触れ合って、ある程度は克服できているって思ってたのに。少なくともお義父さんに触られた時は何とか大丈夫で、だからすっかり安心していたっていうのに、わたしは、また――
「あ……、は……」
 自嘲めいた笑みが浮かぶ。ただひたすらに、情けないな、と思った。さっき試合に負けた時のような怒りや悔しさからくる情けなさではない。心の底から自分という存在を全否定するような、まるで己ががらんどうになったかのような空虚な情けなさ。
 ぼんやりと涙に濡れた目で、前の方を見やる。コックピットの内壁にもたれかかり、ぐったりとして動かない隻眼の少年の姿。右のこめかみの辺りからは、どこかにぶつけて切ったのか、赤い血がじわりじわりと流れ落ちている。脳しんとうでも起こしているのか、苦しげに呻き声を出すばかりで、体を揺すっても、声をかけてもいっこうに目を覚ましてくれない。
 ……どうしよう、包帯や薬なんて、人命救助用の救急キットなんて持ってない。あれは機体のコックピットに備え付けてあるものだ。実機ではないシミュレーターにそんなものが載せられている道理がない。今のわたしには、何もできない――
「……ごめんなさい」
 縋りつくように、気を失った隻眼の少年の頭を、自身の胸元に抱き寄せる。
 彼が本当に実力を隠していたとしても、わたしには怒る謂れなんてありはしなかったのに。もみ合いになったのも、押し倒されたのだって、わざとじゃないって分かっていたのに。あの最後の一瞬、この少年は確かにこちらの身を案じるような素振りを見せてくれていたのに。
 こうやって自分からなら触れる事もできるのに、気を失っている今なら怖くないのに、本当はわたしが何とかしなくちゃいけないのに、どうしてわたしはいつもいつもこうなんだろう――
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……!」
 そうして、涙ながらにひたすらに謝り続けていった、その時。
「――何だ!? 何をやっている!?」
 そんな声が、背後からかけられていた。どこか聞き覚えのある低い女の声で、それは硬質の足音とともに近づいてくると、
「おい、貴様! 見ない顔だな……何者だ?」
 軽々とした動作でタラップを昇り、狭いコックピットの中に身を乗り出しながら、敵意剥き出しの声をこちらに向けてくる。
 東洋系と思しき妙齢の女性の姿。背は高く、出るところは出たスタイルを薄桃色のスーツで包み、胸元には桜の花弁をあしらったブローチ。長く伸びた艶やかな黒髪に、二十代後半は超えているはずだがいまいち年齢が読めない、能面を思わせる整った顔立ち。抜身の刃を思わせる切れ長の目に宿った、強い意志の光が印象的な、そんな女性だった。
「貴様……その襟元のエンブレム、GAの……先程乱入してきたリンクスか?」
 わたしの首元を睨み、そんな事を言ってくる。聞き覚えのある声。《ストレイド》のオペレーターであるセレン・ヘイズ――そう気づいたのも一瞬、彼女は茶色の瞳を油断なく動かし、暗いコックピットの中を見回していって、
「何故ここにいる? どうやってハッチを開けた? ここで何をやって、……っ!?」
 言いかけた言葉が途中で止まる。その視線がわたしの胸元、気を失ったままの隻眼の少年の顔に向けられる。頭からどくどくと血を流し、もうぴくりとも動かない少年の姿を目の当たりにして、
「貴様……!」
 瞬間、セレン・ヘイズの表情が変わる。目を見開き、眉間にしわが寄り、噛み合わせた歯を剥き、まるで自分の子供が襲われているのを見たネコ科の猛獣のように。そうして、
「そいつから離れろ! 怪我をしているのが分からないのか!?」
 わたしの肩を掴み、乱暴に引き剥がそうとする。それに、訳も分からずに必死に隻眼の少年の体を抱き寄せ、必死の抵抗をする。そうしなければ、大切な何かを失ってしまうように思えてしまって――
「どういうつもりだ、メイ・グリンフィールド! 貴様がやった事だろうが! ええい、泣いてないでさっさとどけというのに……!」
「……ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……!」
 縋るように、懺悔するように呟いた声は、きっと彼には届いていない。ぴくりとも動かず、しかし確かに上下する肩に顔を埋めるようにして、わたしはいつまでも泣き続けていった。


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