Written by へっぽこ


――例えば、
昔からずっとずっと、世界は平和なままで、アーマード・コアとか、ネクストとか、そもそもそんな兵器が存在しない世界に生まれていたら。
私は。
私たちは、いったいどうなっていたのだろうか。とか。そんな事を考えてしまって。

ガコンと殊更大きい衝撃と共に、格納庫に収まったネクストから降りて、いつものように真っ先に迎えてくれるオペレータに向かって私は。
「あなたは良いよね。安全なところからしゃべるだけだもの」
そう小さく呟いては、心底すまなそうにするオペレーターを、今日もグーでぶつのでした。

     /

二人を残して部屋を後に。
私は隣の彼女と連れだって、長い渡り廊下を歩いている。
天気は晴れ。
その日差しは暑いくらいだが、決して不快に思う事のない柔かな感触が心地良く。大きく深呼吸をすれば、すんと鼻を擽る良い香りがした。
ほだされて横を見れば、そこには瑞々しい緑の大地と数種の花壇が織り成す、極彩色の中庭があった。
“工”の字をする学校の本館が囲う、殊更に小さな限定空間。
校舎の灰色コンクリートが白く光を反射して、その庭園に淡くスポットを当てている。
そんな、見様によっては小さくか細い園を、それでも壮観だと思えたのは、そこが本当に綺麗な自然の様相を呈していたからだ。

私は渡り廊下を外れて庭へと足を向けた。
渡り廊下を覆うひさしを外れて、太陽光を存分に浴びる中庭へと踏み出す。
コツコツと打ちつける足音は、いつの間にかしゃくしゃくと音を変えて、その感触がちょっと楽しい。
短く揃えられた芝の上を幾何学状に配置された花壇の一つに歩み寄る。
屈んでそこに咲く白色の花弁を撫でやれば、独特の柔かい感触が指先を伝って。
一瞬。
そのまま握りつぶしてしまいたくなるが堪える。そんな無様はしてやらない。

不意に花に影が落ちて、見上げれ隣にリリウムが立っていた。
ああそうか、応接室だかへの案内中だったのだっけ。
「あの、セレン様?」
途中で道を外れた私にリリウムは疑問符をつけて声をかけた。答えて私は。
「いや、私はここで待たせてもらう事にするよ」
と返して、「花。とても奇麗に咲いているね。珍しいよ」と訳を付け加えた。

いや別段この花が希少種というわけではない。
今となってはバイオプラントで機械的に、汚染のない花が生産されているわけで、同じものを手に入れたければネットでクリックすれば明日にもだ。
それでも、珍しいと感じたのはきっと、土の上に現在進行形で生くるそれを、私が注目したことそれ自体。
もう、何年も、花を愛でることなどしなかったから。
花を珍しく思ったのだ。

「これは皐月か?」
「お詳しいのですね。はい、皐月躑躅(さつきつつじ)です。」
「そう」
「お好きなんですか? お花」
何かを探るようなリリウムの問い掛けにほんの少しの間を取って私は、
「そうだな、好きだよ」
と、独り言のようにゆっくりと口にして、それは自身に半ば言い聞かせるように、己の嗜好を胸の奥で再確認する。

うん。私は花が好きだった。
そう、特に桜の花が好きだった。
ただ残念なのは、いつか見たはずの桜の、その艶やかな淡紅色を私は、今はもう思い出す事も出来ないという事だ。
浮かぶのはもっとずっと濃い赤色ばかりで、それはまさしく―――。

私は、花を撫でていたその手を持ち上げて、立ち上がり、頭上の太陽にかざした。
そうか、私の血も赤いのか。
そう、当たり前の事を想ってはほっとして、私は小さく息を吐いた。

     /

後継と目される少女は痛みを背負う生き方を覚悟していました。
私はというと、もっぱら痛みから逃げるのに精いっぱいで―――。

     /

そのまま私は花壇の花を眺めつつ、彼女とたわいもない話を続けた。
主だって私たちの事を聞いてくるリリウムに対して、私はありのままを答えてやる。
最近の生活習慣や仕事の内実に果てはあいつとのコミュニケーションまで、なんでもかんでも根掘り葉掘り。
「――なあ、あいつの監視はもう終わったのだろう? 今更そんな事を聞いてどうする」
流石に不審に思って、話の腰を折りつ質問する。
「あ、いえ、その参考になればと」
一瞬、何やら口籠るリリウムではあったが、表情にこれといった変化は見てとれず、そしてその意図も汲み取れない。

少々引っかかるので更に突っ込む。
「参考とは何のだ?」
「そうですね。セレン様と彼との関係は、傍目にとても素敵に思われます。」
リリウムは静かに答えた。
「勝手な推論でものを言う無礼をお許し下さい。あなた方の、相互に互いを慮る優しい関係性は憧れます。ですから、その参考です。リリウムも、そんな関係性を結べていたら良かったと思うのです。」
凛として彼女は言う。
その素直な心意気は私には無いもので、少し疾しい。
その実直な内容は当人の私には分かり得ないもので、少し恥ずかしい。

そうか、そんなふうに思われていたのか。
なるほど。見てくれは悪くないらしい。腐った性根を隠して何重にも包んだ甲斐があるというものだ。
そう、ほっとする反面、私はこんな事を考えていた。
私とあいつの関係性についての考察だ。
一つ前はオペレーターとリンクスの関係だった。
二つ前は教官と教え子の関係だった。
三つ前、最初の関係は加害者と被害者のそれだった。
では、今はいったいどんな関係?

過去を反芻し浮かび上がるクエスチョンマークを叩いて答えを削り出す。
仲間、友人、恋人、家族、あるいはただの知り合い。
こうあって欲しいという願望はある。
が、それと現実はリンクしない。
私とあいつ。その間にあるものとは何だろうか。

リリウムは言った。互いを慮る優しい関係性。
存外、彼女も見る目が無い。
優しさではないのだ。そこにある本質は、きっと利己心。
私たちは根っこの部分で自分の事しか考える事の出来ない、卑しく惨めな人間だ。
だから、簡単に降りられる。
それは銃声が轟き硝煙の薫る舞台。
その中央、鉄の衣装を纏っては乱れ狂い、一人また一人と血反吐を吐いてぶっ倒れ、それでも続くステージをその幕の降りる以前、あるいは幕の揚がる以前に自分だけ降りては、平然と舞台袖で控える隣の役者の背中をただ頑張れと突き飛ばす。

常人の数十、あるいは数百倍の人の生き死にに関わって、血濡れのレッドカーペットをびちゃびちゃと歩き通して、うんざりして嫌になって自分を捨てて、名前を変えて他人になり変わる事で塗り替えた見た目だけ真新しい白い道を辿る。
しかし立ち止まって振り返るとそこには一対、紅の足跡がぽつりぽつりと続いていて、追いかけられているみたいで怖くなって駆け出して、だけどその足跡は追ってくる。
逃れようがないのは当然で、なぜならその足跡は私の足跡だからだ。
長年の染みつきか、あるいはその紅は私から流れ出たものなのかもしれない。
一歩踏み出すと、ぐにっとした肉の感触。
ふと己が手を見やれば、そこには鉄でできた機械の手。
そして気付く、すでに私は人では無くなっていた。

そんな深層心理の心像を抱えて、自覚的であるにもかかわらず、一方で私はいみじく平気な顔で暮らしている。
誰かへの贖罪を、あいつへの世話に充てて、相殺を決め込んで赤を白く、反省なしにひたひたと忍び足。
詰まる所、私があいつの世話をするのは一重に自分の為なのだ。
償いのはけ口が欲しくて、救いが欲しくて、ただ自分から目を背けたくて、それだけの事なんだ。ただそれだけの事だったはずだ。
少なくとも、時代が変わるまでは。

まさか、自分が生き残れるなんて思ってなかった。
駆け抜け切った今現在は平和な時間が流れていて、いつの間にか自分が許されたような気になって、らしくもない楽しい日々を紡いでは、時折今日のような事を考えたりして。
まったくもっての情緒不安定。そんな子供のような自分に今更嫌悪感を抱いては、慰めにあいつを抱きしめ撫でる。

「お前が私たちをどう見ようが勝手だし、とかく言うつもりはないが、参考にはならんと思うぞ」
そんな当たりさわりのない事を口にして苦笑する。
違う。参考にはしないで欲しい。
あいつといれば、平和な時間が過ごせるような気がして、その通りに楽しい日々が押し寄せて、そこに浸り悦に入る自分がいる。
あいつの答えならそれでいいさと、無責任に依存して、依存しきって今に在る。

私は、一人ではもう生きていけないのかもしれない。

     /

最後の戦場は慣れ親しんだ格納庫でした。
時速二千キロを超す敵機のありえない強襲。爆音と悲鳴のデュエットが響きます。
血まみれのオペレーターは私の手を引き言いました。
「構わずPAを展開させなさい」
と、それだけを告げて、私を機体に押し込んだのでした。

     /

しかし。彼女はすぐさま否定した。
「そんなことはありません。あなたがどう彼の事を思っていても、また彼があなたの事をどう思っていても、あなた方が素敵に見えるのは確かです。ならばそこには、素敵な何かがあるのだと思います。」
リリウムはそう、さらりと断言してみせた。
正直なところ少し驚いた。
こんな切り返しが彼女から来るとは予想していなかったからだ。
私があいつをどう思っているのか。あいつが私をどう思っているのか。素敵な何か。
訳の分からない気持ちのざわつきがもどかしかった。

「どうかな。少なくとも、あいつは何も考えてはいないから」
何も考えない。それがあいつ自身で考えた末の答えなのだから浮かばれない。
箱の蓋を閉じて考えないようにして、そうしていつかその箱の中身を忘れたとしても、中がからっぽになる事は決してない。
負のしがらみはいつまでもそこに在り続ける。そして、それは背負うには重すぎる。少なくとも、私や、あいつにとっては。
「そうなんですか?」
「そうだろうな。ノリとテンションで好き勝手やるのがあいつの性格だ。」
好き勝手やって、振り返らない。
その諦めの良さは、未だ引き摺る私には本当に頼もしく思えるが、一方で不安も拭い切れない。
それでいいのか、と本当は聞くべきなのかもしれないが、けれどそれを聞く資格は私にはやはり無いのだろう。
引き込んだのは私。
自身の身代りに、あいつの背中を押した私には、彼の決めた歩みに疑問を呈する権利は無い。

「だからさ。私の今の立ち位置に私じゃない誰かがいても、何も変わらないと思うんだ。きっと、私じゃなくても、あいつなら上手くやるだろ」
そう自嘲して、その自身の言葉に心底傷ついている自分がいた。
何だよ、これ。
まるで私があいつに恋しているみたいじゃないか。
頭の中がぐるぐる回る。考えに考えて、一人でよがって。果ては無し。
甘く絡みつき繭を成す乙女な思考に自己嫌悪のナイフを一つ差し込んで、強引に思考を止めては、ふう、と私は息継ぎがてらに溜息を吐いた。

結局、何をどれだけ考えても正解なんて出てこないのが世の中で、それでもむやみやたらと悩んで喘いでは、少しでも楽な方へと足を向けるのが人間で、中には悩む事を放棄したやつもいるというだけのこと。
人類の未来の為と決め込んで考える事を放棄したり、ただ目前の殺戮を防ぐという事に入れ込んで考える事を放棄したり。
まさしく、過程や方法のどうでもいい世界は、時として心底都合よく、また実に意地悪だ。
結果だけが残るから。
内々の事情も心情も、その全てが伝わる事は決してない。―――ない、のだろうか?

「でも、それだけの事がわかるのに、それだけの事をわかっても、彼の世話を焼くのは、セレン様が彼を大切に思っているからで、それを受けて彼が日々楽しそうなのは、やはりあなたが傍にいるからではないでしょうか」
「そうだといいがな」
私は投げやりに言い放つ。
本当に、そうだとどれだけ救われることか。あいつが、じゃなくて、私がだ。
なんで。
なんでこんな話をしなきゃいけないんだ。
私は花に背を向けて、花壇の淵に腰を下ろして胸ポケットから煙草を取り出してその一本を口に咥え、思い直して咥えた煙草をくしゃっと握りつぶす。

「ごめんなさい。偉そうな事を言いました。――そうですね、結局、誰が誰をどう思っているかなんて、誰にも分からない事です。けれど、それでもリリウムはセレン様が羨ましく思うのです。大切な方の御側に居られるというのは、それだけでも幸せな事だと思いますから」
リリウムは私の隣に立ち尽くしたまま、視線を虚ろにそんな事を口にした。
「大切に想える人が自分にいないとでも?」
次はリリウムの番とばかりに見上げて尋ねる。
「いえ、そういうわけではないのです。大切な人はいます。とても大切です。命の恩人で、また師であるその方を、いつしか自分の親のようだと思うほどになりました。厳しいけれど、優しいのです。そして、まっすぐなんです。どこまでも。」
一瞬、彼女の頬が緩んだ気がした。彼女は続けた。

「ですが、その方のリリウムを見る目はいつもどこか悲しげで、けれどどうしていいか分からなくて、そのうち言われたんです。
 もう傍にいなくていいからと。
 今までそこが自分の居場所だと思って、あの方に仕えるのが自分の責務だと思って、ひたすらにやってきたのに。リリウムは、あの方にとってどうでもいい存在だったのかもしれないと思ったら、とても苦しくなって―――」
リリウムは胸に手を当てて俯き加減に弱々しく目を閉じて、
「おかしいのはそれからなんです。本当に苦しくて悲しかったのに、それでも、涙は出ませんでした。それが、一番ショックでした」

淡々とした声、目を再び開けて私を見る彼女の表情は依然としてすまされたままであった。
泣きもせず、笑いもせず、表情はまるで変わらず、その整った容姿が殊更仮面のようで、切れ長の目は一点の曇りなく、冷えたガラス玉を思わせた。
気になった。
話の内容も、彼女のこれまでの反応も。
「自分の体に違和感を感じた事はあるか?
 例えば、視線の高さ。手を握る感触。身体の重み。とか、そういったものに、漠然とした違和感を感じないか?」
会話の流れをちぎって質問した。
それを聞いたところで、何がどうなるわけでもないのに。
「え? どうでしょうか。いえ、そうですね。言われれば確かに。何か。違和感……」

私は腰を上げて、砂を払い、それから静かに彼女を引き寄せて、抱きしめる。
そうか。
この娘もそうなのか、とただ思った。
達観して、俯瞰して、自分を自分とも思わず、肉体をある種の端末として無意識に捉える。
全長百六十センチにも満たないリリウムという名の肉の端末は驚くほど弱くて脆く柔かい。そのくせ代えは利かなくて、壊れるのが怖いから自ずと殻に閉じこもる。
おかげで知らず知らずにシフトする。もうひとつの体。鉄の端末を重視し始める無意識。
じわじわと内側から浸食されていく感覚。思い込みが認識にずれを起こして、そうしてある日、目が覚めると、自分の手が、今までと何も変わっていないのに、鉄でできている錯覚に襲われる。
立ち上がっているのに、地べたに這いつくばっているかの如く、視線の低さが窮屈でならず、空も飛べない。
それは肉と鉄の体とを交互に操る弊害。
なまじ強靭な体を知ったから、知ってしまったから、軸がブレて、魂だけが浮遊する。

“リリウム”という一人称。リリウムという存在が別にいて、あたかもそれの代弁をしているかのような物言い。
私の腕の中にうずまる彼女はリリウムであって、それ以外の何者でもないのに。
「…ぁ、苦しいです。セレン様」
私はこの娘に同情している。
それは、逃げた私がしていい事ではない。それでも抱きしめた。
もう、ネクストには乗るなと、そう言ってやりたくて、腕に殊更力が入った。
また、誰かを慰み者にしているのか。私は。

「ぶちまけるといいよ。一切合切、その大切な人とやらにさ。そうすれば楽になるよ。それに―――」
言いながら体を離す。私が言ってやれるのはこの程度の事だけだ。
「お前たちはお互いの事ばかりで、自分たちの事を考えてなさすぎる。伝わらないよ、それじゃあさ。」
誰が誰をどう思っているか、なんて誰にも分からない。
そう彼女は言ったのに、一つの言葉を勝手に解釈して、押し黙って、ただ悩む。
真意を慮って、それが受け入れ難くとも自分を殺して咀嚼する。
その自身で導いた真意が本物なのかも分からないのにだ。

相手を思うから踏み出せない。
影を踏まないように三歩下がって、相手も同じく下がって、また下がっての繰り返しがすれ違いを生むのだろう。

口を結んだままのリリウムを挟んで向こう側、渡り廊下の中間点に私は件の二人を見付けた。
二人の会合は終わったらしい。
見慣れた素っ頓狂な顔と、見慣れないいかつい顔がこちらを向いている。
大切な人。リリウムの口ぶりから察するにあの老人。父親なんて、私には分からない感覚だけど。

私は彼女の背を押す事にした。
私は向かい合うリリウムの両肩に手を乗せて、そのままくるりと半回転。
髪を乱し、バランスを崩してたたらを踏みつ、わッと小さく声を上げるリリウムのその背中をポンと押し出す。
とんとん、と二歩ほど前のめったリリウムは、持ち直して顔を上げ、視界に向こうの二人を見据えた。
そして、足取り軽やかに彼女は駈け出したのだった。
私は、そんな彼女の背中を眺めていた。

     /

「世界を変えると言い残したきり、帰ってこないんです。」
少年は言いました。
「ネクストの乗り方を教えてくれるって約束したのに。
何時まで経っても帰ってこないんです。
以来、基地はひどくがらんとして、みんな、表情も暗くって、けど僕には何もできなくて―――」
男の子はその小さな腕で両眼をぐしぐし拭います。
――――みつけた。
私は、しゃがんでその子を抱きしめ言いました。
「泣くな。 私が、その穴を埋めるから」

     /

そうして、駆け足でリリウムは僕らに近寄ると静かに一礼し、それから王小龍の背中についた。
それが当然であるかのように、そこが自分の居場所であるかのように、ごく自然な動きであった。
どうやら僕が王小龍と話している間、セレンさんの方でもそれ相応のやり取りが合ったらしい。
なんだかんだいって、優しい人なのである。迷子に甘いのは僕自身経験済みだ。
遅れて、セレンさんがやってくる。セレンさんはすれ違いざまにリリウムの肩をぽんと叩いてそのまま僕の隣についた。

再び、二対二の構図。けれどもなんとなく空気は軽くて軟らかい気がした。
たぶん天気がいいからだろう。
あるいは、気持ちの問題だろうか。どちらにしても晴々しい。
僕は口を開く。
「それじゃあ、この辺で僕たちはお暇します。」
それを受けて王小龍の返答。
「そうか。では、リリウム。出口まで案内を―――」
セレンさんが口を挟む。
「いや、いらないな。道なら来た時に覚えた。」
そうか、と若干気圧されつつ頷く王小龍に僕は片目を閉じて見せる。

こほんと露骨に王小龍は咳払いをし、ではまた会おう、などと月並みな別れのあいさつをもって此度のおしゃべりはお開きとなった。
片手をあげて、じゃあと気さくに声をあげて、背を向けた僕に王小龍の追伸が刺さる。
「そういえば、近々喫茶店を開くそうだな。調子はどうだ?」
相変わらず情報早い。
「ぼちぼち。まあ、まだ物件決まった程度です。」
「そうか。頑張れ。特にお前は。」
僕はクスッと小さく笑った。言われなくとも。
「その言葉、そっくりそのままお返しします。」
それだけ告げて、僕はまた歩を進めた。

過去には一切の区切りをつける。
そうして僕は今を生きることに尽力すると決めたのだ。
今とこれから。昔話などいらない。知らない。
楽しい日々と輝かしい未来を、僕はそれこそ全身全霊で進んで行こう。
最後の瞬間まで。
願わくば笑顔で。

―――ふと足を止めて、天を仰ぎ、そして振り返る。
中庭を横切る、ぎこちなくも空気は明るいまるで親子のような二人を見た。
僕の背にセレンさんの声がかかる。
「大丈夫だよ。あの二人なら。」
何を根拠にしているのか定かではない。というか何がどう大丈夫なのかがわからない。
セレンさんは僕と王小龍の会話を知らない。けれどそれは僕も同じで、僕はリリウムとセレンさんの会話を知らない。
ツーピースパズルのそれぞれ片方だけを互いに持ち合わせる僕らは、だけど形を合わせる事はしなかった。
二人が大丈夫なのだろう事は今の光景を見ればそう思える。
それがこのパズルの全景で、僕らが互いのピースを持ち寄るまでもなく完成形はそこにあった。

翻って、僕はセレンさんの横へ駆け寄る。
「行きましょうか」
と声高らかに、
「家族って、いいものですよね」
僕はセレンさんの手を握る。
「そうだな」
その手は、とても柔らかくて、温かかった。

     /

今現在の話です。
―――キンコンカンとベルが鳴り、途端に校舎が騒ぎだして、あんなに静かだった校舎から笑い声がこぼれます。
前から数人の子供たちが私たちの横をすり抜けて。数秒ののち、聞こえてきたのはリリウムと王小龍と子供たちの朗らかな声でした。
私は、繋いだ右手を振り払おうとして、振り払おうとして、振り払おうとして―――
結局、いつまでも握ったままなのでした。


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