Written by へっぽこ


わーん。と、遠くの方で泣き声がする。たぶん女の子。
そして彼女はきっとかわいい。根拠は記憶。

おはようからおやすみなさいまで―――はちょっと言いすぎだけど、日々の生活を共にする仲のいいクラスメイトの声は、そうそう忘れたりしないのである。
だから彼女が誰かはもう分かっているんだ。
分かっているから、僕はルームメイト二人との充実したヒーロー談義をほっぽって窓から顔を覗かせた。
窓の下。
僕のいる寮の部屋のちょうど真下の、建物的には裏手にあたるその場所で泣きじゃくる女の子が一人。

ちなみにここは二階です。
ならば飛び降りようかとも一瞬思ったが、腰を抜かすと大変格好が悪いので止めた。
窓枠にかけた足を下ろす。
翻って僕は、二つある二段ベッドからそれぞれシーツを剥ぎとって。それを結んで一本に、片側を怪訝顔の友人二人に任せて窓から垂らした。

よくよく考えたら、普通に部屋飛び出して階段を下った方が早かっただろうし、何より楽だったろうが、そうはしなかった。
急がば回れ、なんて言葉、幼い僕は知らなかったのだ。
何て言うか。
割と馬鹿だったのだろう。子供の僕は。
直情的で。思いついたそれをやらずにはいられない。
ともかく、僕はその垂らしたシーツを伝って彼女の下へ文字通りの一直線なのだった。

     ◇

「―――というわけで、彼女、大切なカメラを強奪されたらしいんだよね」
再びシーツを登って二階の部屋、ルームメイト二人を前に女の子の泣く泣く理由を殊更丁寧に語ってみせる。
その内容はというと、クラスメイトはみんなが知っている彼女一番のお気に入りである鮮やかな緑色のカメラを出来の悪い上級生が奪った、とまあこんなに単純明解で勧善懲悪な話であった。
泣く泣く彼女に非は一切なく、犯人の上級生が合切悪い。
宝物が奪われればそりゃ泣きたくもなるってなもので、そして少なくとも彼女一人ではどうしようもない。
休日の今日、学校はもちろん休校。寮においても耄碌した寮母のばあさんが一人いるだけで役に立ちそうもない。
だから彼女は泣くのだ。
それは典型的な泣き寝入り。弱者が行きつくバッドエンドの一つである。

しかして、僕は部屋の中央で胡坐を組みつ、二人の友人にこう言うのだ。
「取り返そうと思うんだけど、一緒に来てくれるよな?」
顔を見合わせるマイフレンズ。ダンとカニ。
「漫画本盗られたら嫌だろ?彼女も同じ気持ちなんだよ」と説得する僕。
ちなみにここでの漫画本とはダンの宝物を指す。いわゆるアメコミとか言うジャンルの、ステキヒーロー物である。
コミがコミックの略だとして、アメって何だ?

とにかく。
派手派手しい衣装を身にまとい、人の皮をかぶった悪魔を砕く。
それはダンに限らず、幼い僕らにはバイブルと言っていい代物だった。
そうです。僕はヒーローに成りたかったんです。

「でも、相手は上級生なんだろ? やっぱり無理なんじゃないかな。大人しく諦めよう」とはダンである。
「つーか、俺らが被害受けたわけじゃねえじゃん!」とカニが続く。
まったくもって使えねーダチである。
ダンに至ってはへたれモード全開。いつもの根拠なき強がりはどうした。

しかし身切るのはまだ早い。
僕は腰抜けな二人を前に立ち上がって渾身の説得を。
「いいか。逃げるのが一般人で、逃げないのがよく訓練された一般人だ。ならばヒーローは? うん。立ち向かうとも。訓練されてようが、いまいがヒーローはいつだって悪に立ち向かう! それが、ヒーローってものだろ!」
二人を黙らす魔法の言葉、ヒーロー。
口にすればたちどころに二人は従順、もとい純粋になったりする。
そうです。僕たちはヒーローに成りたかったんです。

そうして案の定、おおぅと感嘆する馬鹿二人。
そんな二人を前にして、ここぞとばかり。僕はやるかやらないかの最後勧告と、振りあげた右手を彼らの前に伸ばす。
「しかたないな」とバカ一。
「やってやんよ」とバカニ
そうして、ヤーの掛け声と三つ重なった掌をぐっと押す計馬鹿三人なのだった。

結果は見えていた。

     ◇

「チクショー! なんだよあいつら。バーカバーカ!」
みんなでバーカと既に居なくなった敵に悪態を吐く。
「イテテ…」
叫ぶと切れた唇や口の中が痛んだ。
「ばーか!」
でも叫んだ。

グラウンドの角にそびえるバックネットの裏。土がむき出しの地面の上に大の字が三つ転がっている。
一つは僕だ。
そのまましばらく、僕たちは悪口だけを発するスピーカー状態を続けた。
そうしてそれにも飽きて、三人お互いに肩を貸し合いながらふらふら、僕らの六畳もない二階のマイルームへ帰還する。
その途中。僕は二人に先休んでていいからと告げ、一人寮の裏へダッシュした。
彼女の事が気になって、だからダッシュした。
ただし、ダッシュしたのは気持ちだけであって、体は割かしよろよろだったわけだけど、ともかく。

急いで向かった寮の裏、果たして彼女はそこに居た。
泣いてはいなかったが体育座りでちっちゃくなっていた。
流石にそうそうすぐに立ち直れるわけはないだろう。
奪われた宝物の、精神にあいた穴を埋めるには一、二時間の時間経過程度では足りないのだ。
一目でわかる、彼女の心は未だ沈みっぱなしで。
だから僕は物で釣る。
沈んだ彼女の心を文字通り釣り上げる事にしたのだった。

「はいこれ。君のでしょ?」
言いながら近づいて差し出した翠色のカメラ。
「あ!」
見上げた彼女の虚ろな瞳に小さく火が灯るのを見る。
そして、その火が彼女の顔の筋肉を解きほぐし、ぱあっと。
見る見るうちに―――
「……そのケガ、どうしたの?」
見る見るうちに、また曇った。今にも泣き出しそうな、そんな顔。
「男の勲章」
柄にもなくキザなことを言う僕は、客観的に見れば大層イタいことだろう。

「痛く、ないの?」
「そりゃ痛いよ。ケガだもの。 でも、おかげで取り返せた」
カメラを掲げて見せる。けれど彼女の口から発せられたのは感謝の言葉ではなく、
「私のせいだ」
自責の念に裏打ちされた一言。内向きで下向きな発言だった。そして更にどんより曇った。
まずいな。このままだと雨が降る。
「違うよ違うよ! 君のためだよ!」
「そんなの同じことじゃない!」
「違うってば! 君のために動いた僕のせいって事。
いい?君は僕に悪いとか思ってるかもしれないけれど、それは的外れだからね。
僕が勝手にやった事だから、君には丸々関係ないよ。これっぽっちも。
関係があるのは僕が君にこのカメラを返すって事だけ」

つまるとこ、無責任全開である。
僕が勝手にやった事です。あなたは関係ありません。というわかりやすい言い訳はけれど真理だ。少なくとも僕はそう思っていた。
「でも。」
何かを言いかける彼女を遮って、
「僕がしたくてしたことだから、気にしなくていいんだよ」
殺し文句。殺すのは彼女の罪悪感。
それからしばらく沈黙が続いた。
そして、その後、彼女は小さく頷いて「うん。わかった」と、やっとで彼女はカメラを受け取ったのだった。

そうして彼女は、まっすぐ僕を見てそして、
「ねえ、どうしてこんなに優しくしてくれるの?」
純粋に、ふとした疑問を口にした。
彼女の顔は涙を拭ったためか目の周りは赤く腫れぼったく、更に鼻の頭も赤かった。
そして、ぼっこぼこにされた僕の顔は、きっと全体が赤い色なのだろう。もちろんケガのせいであるが。
「ん、どうしてだろ? わかんないよ」
はぐらかした。というか、実のところ自分でもなぜこんな事をしたのかよくわからなかった。
ヒーローになりたかったんです。うん。それは確実。
そして、もしかすると、僕は彼女にはヒロインになって欲しかったのかもしれない。
彼女はじっと僕を見て、「わかんないなら仕方ないね」とふいに視線を一度外してから、
「ありがとう」
と、感謝の言葉を口にした。

曇り、のち、晴れ。それも超快晴。
彼女は笑った。かぷかぷ笑った。えへへと八重歯を覗かせながら、ころころ笑った。
ほっぺたはぷにぷにで、さらさらの髪が揺れていた。
そのはにかみが見え隠れする彼女の笑顔が本当に本当にステキでかわいくて。
―――ああ、そっか。
僕は彼女が、彼女の笑顔が好きなんだ、と、そう感じた。
ダンとカニには悪いけど、カメラの手柄は独り占めにする事に決めた。
埋め合わせとしては、いつか命をかけて共に闘ってやるからって事で勘弁してもらおう。

黄昏時。
金の太陽とオレンジの空の下、僕は、彼女の笑顔にひたすら魅せられたのだった。
今思えば、あれが僕の初恋。
嗚呼、素晴らしき幼年時代。
見知らぬ大人がやって来て、“特別な才能”を見出すまでの余年間。
今はもう名前も顔も場所も季節も、いつの事かすら思い出せない、けれど確かに幸せだった幼い日々の、そんな日溜り、陽炎のような夢を、僕は見ていた。

     /

とある町の外れ、少し入り組んだ裏路地にそれの入り口はある。
背中を向けて丸くなる白いネコ(?)が描かれたイーゼルが目印の喫茶店、まよいねこ。
それは僕の新たな夢の始まりで、またこれまで続いた夢のチェックポイント――に、なる予定。
おそらく来週、開店してから。
望むらくは平和で素敵なお気楽ストーリーの第二章、とか、そんな感じの当たり障りない日常風景。
それが僕には死ぬほどに。生きるほどにお喜楽なのだ。
一ページで事足りる、これまで通りの優しい日々を願いましょう。

うん。これまで通り。
無論平和になってからの日々の事である。

考えてみればおかしな話だが、リンクスであった期間の方が圧倒的に長いのに、既に僕の日常は平和に重点がある。
あれだけこなした戦いの日々は、今の僕にとっては本当に異常だと、そう思える。思えてしまう。
それほど平和の浸透圧は高かった。どことも知れぬマンションの一室でごろごろ転がる日々が愛おしく、同居人は信じられないほど愛らしい。
けれど不安はいつも在る。
いつも。
昔は、そんなの無かったのに。

煙のような荒唐無稽。その癖砂を噛んだような確固たる不快感。
それは、頭の片隅も片隅に潜む。それはそれは微々たるものだけど、しかし積み重ねは恐ろしい。
塵も積もればやがては山。
漠然たる不安が天井からわっかのついたロープを垂らす前に、適当な捌け口を探さねばならない。

あるいは徹頭徹尾逃げること。
この不安は一重に過去からやってくる。
過去を振り返るたび、不安が募る。
だから。
ただただ今を生きるだけの機械になりきれば、これ以上不安が募ることはない。
ただただ、喫茶店を経営する機械。
ただただ、クッキーを焼く機械。
ただただ、息をする機械。

しかしこの現実逃避が不安を取り除く事はない。
なにしろ逃避行なのだ。逃げると付く以上追手は消えない。
いつかどうにかなってしまうのでは、という不安感は決して消えないのだ。
その欠片が時折、初めから何もかも一切合切、全部夢なのではないかいう嫌な考えを頭に植え付ける。
それは棘のある蔦である。
少しずつ深くに、ぎちりぎちりと絡まっていく。そんな感覚。

ふと目が覚める。
すると僕はいつかのコックピットに繋がれていて―――とか、そんな恐ろしい事を思ってしまうのだ。
平和な今において、夢落ちという名の手のひら返し。
それは涙が出るほど怖いもの。
そんな馬鹿な事あるわけない、と、そう侮るのは容易いけれど“ここが本当に現実である”という証拠は実のところどこにもない。
夢と現実の境界は途方もなく曖昧で、そして曖昧だからこそ融通は利かない。
覚めれば冷める。覚めなければ醒めない。
といっても、これはあくまで例えばの話で、それも一番最悪なパターンだ。

もし。
楽しい夢と楽しくない現実がこの世界の表裏なら、そこにたゆたう僕が今の僕なら、僕は夢の存在で在り続けよう。
覚めない夢は現実と変わりない。
だから。
ここが夢の中なのか、それとも現実なのか、という事を考える必要はない。
そして。
考えてはいけない。
今の生活は楽しい。
ならばただ笑って、笑顔の下で楽しいねと誰かに語りかけて、人生を全うするのが極楽だ。
ただただ、今を生きる機械。

そんなことを思いながらに僕は思う。
―――ところで、僕は今どこで何をしてるんだ?

   /

不意にカラン―――とドアベルが鳴って、沈んでいた意識が懐かしきドリームランドから浮上する。
そして浮上した瞬間に、夢物語は跡形なく四散した。
郷愁と哀愁の素敵な夢だった気がするのだけど。……惜しいな。覚えてない。
僕は寝惚け眼にぼーっと音の方へ目を向けた。

ぼんやり霧霞む視界の先に人影。
知っている顔だった。
僕は、カウンター席に突っ伏したそのままの体勢で、まだ開店もしていないけれど、半ば条件反射気味にいらっしゃいませの一言を。口をもごもご動かして、けれど声は出ずじまいで、意識はとろりとした粘度の高い眠気に負けて再び目を閉じる。
そして、それと同時に知ってる顔が口を開く。
「―――あの、」
知っている声だった。
というのは当たり前な事で、だって知り合いだもの。メイさんとは。

初めて彼女と会った時の事、僕の人生初の遼機を担当した彼女は、翠色の重厚な機体から何とも健やかな通信を寄こしたものだった。
そうして僕は、彼女の姿見より先に、その声を聞いて、だからかよく印象に残っている。
とってもたおやかな物腰柔らかい癒しボイス。個人的イメージにはレモンライムとかそんな清涼感が先行する。
そしてなにより、どこかノスタルジックであった。

遠い昔に聞いた事があるような。
泣き声も、笑い声も、自然と思い浮かべる事が出来るほど。
そこはかとなく、はにかむ少女の顔が瞼の裏。
どこかの誰かさんとはベクトルを逆にする爽やか系で心地いい。

そんなわけで僕は目を閉じ机に突っ伏したまま、けれど耳だけは割と欹(そばだ)てて、まどろみの淵をめぐる。
色々と突っ込みどころがある気がしたが、寝惚ける僕に隙はなかった。否や、隙だらけだった。
「もしもーし」
と、再び声がかけられる。さっきより近間だ。続いて
「――はい、チーズ」
の掛け声と共に瞬間、パシャッと瞼を隔てた向こうが白む。
そして――

そして、一瞬でフラッシュバックした。
現在進行形で今も流れ続ける意識のフィルムが焼き付いて、浮かび上がった虚像にぞっとする。
ほんのちょっと昔の、その過去の稲妻が神経を否応なく焼く。
反動、フリーズしリスタートをかける僕の脳髄。
その空白と隙間に湧きあがる記憶の中の一寸古い鮮やかな紫電。横薙ぎの一閃。
ブースターの異常燃焼が真っ赤な炎を招き、不規則な火炎に全身を包まれながらそれでもなお止まらない、唯一刀を片手に突貫する鉄の鬼神。
僕はその時、ただ意識を淡々と、距離を保って片手の巨大なライフルをタンタンと、リズムよく迎え撃ってほぼ無傷。
生死をかけた鬼ごっこ。そのトラウマはクライマックスにやってきた。

きっかけは流れ弾。
どこからともなく飛来したミサイルで頭上の機械群が崩れ落ちた。
そして僕のネクストの動作点上に築かれる瓦礫の山に、僕は道を阻まれ――その瞬間。
白く塗りつぶされた視界。
訳も分からず、あっさりと瓦礫の山にめり込む鉄の巨体(僕の体)の、白くぼやけた視界で僕は見たんだ。間近に迫った鬼の刀の紫色を。

あ。
死ん―――。

「ぅわッ―――」
ひどく情けない悲鳴一つで今に戻る意識。
僕はガタタッと弾けるように体を起して、フローリングを転げて膝を付き頭を抱える。
がたがたと震えて、がちがちと歯を鳴らし、驚くほど寒くて冷たい自身の体に愕然とする。
ふと、肩が上下するほど息が乱れている事に気がついて、じっとりと体中冷や汗をかいている事に気がついて、どくんどくんと心臓の早鐘に気がついて、無意識に手を胸に当てている事に気がついて、だけどここは戦場じゃないと思い直して、だれど、ここは、戦場じゃ、ない、と、思い直して、ゆっくりと息を吐きつつ撫で下ろす。

生きてる。
生きてる!
そうだ、僕は生き残ったんだ。
「僕は生きてる」
あの時、鬼の一刀は最後の最後でエネルギー切れを起こして、結局僕に届く事は無かった。
急速に短くしぼむ刃がガリガリとコアを削ったけれど、僕は生き残った。確かに生き残ったんだ。
生き残った。そう、何度も自分自身に言い聞かせて、膝の震えがやっと鎮まる。
手をぐーぱーぐーぱーしてみる。
なんてことないし、なんでもないし、なにもない。心も体も普段通りだ。
となれば後は、ばれないように静かに、心配させないように明るく、一度、軽く頭を振って、ちょっとだけくらくらしたけれど、ともかく、目の前で半ば呆然のメイさんに応対する。
ふー、と長く、深く、息を吐く。

「やだなあ、もうメイさん!びっくりさせないで下さいよぉ」
倒れた椅子を起して、傾いた机を整えて、メイさんに言う。もちろん笑顔でだ。
「……あ。いやごめんなさい。まさかそんなに驚くなんて思ってなくて」
困惑の表情でメイさんは言う。無理もない。
「いえいえ、別に大丈夫っす。ちょっとした悪夢に当てられただけですから」
「あくむ?」
というか、トラとウマのじゃれあい。
どちらにしても夢見は悪いし、起きてすら影響が出かねないのはいかがなものか。やれやれ。

しからばはぐらかすに限るわけで。
「あーええっと、それ、いいカメラですね!」
メイさんの片手に携えれていたのは緑色のカメラだった。さっきのフラッシュはコレのせいだろう。
「ああ、コレ? いいでしょ、昔からのお気に入りなの。うちもカメラ開発やっててさ。これはその初代で、まあ結構な骨董品なんだけどね。この頃はレンズも内製だったんだよね。うん。そんでもって、こっちが最新型、っと」
言いながらメイさんは肘に下げたハンドバックから、がさごそ、と、もう一つカメラを取り出してカウンターに置いた。

ACヘッドカメラのハード開発と、画像処理やらのソフト開発。それはACを開発している企業ならば持ち合わせて当然の知見であり、その生活転用、とか、そんな感じだろうか。実に平和的だ。
フラッシュが焚かれて床を転がる凡人なんざそうはいないのだし。
それよりもっと気になる事が一つ。いや、二つ。
「ていうか、どうしてここに?」一つ目。
「ああ、エイさんに聞いたのよ」
ほほう。ウエイトレス(仮)が献身的に宣伝活動とはすばらしい。すばらしいが、
「それで、どうして今日? まだ開店前ですよ?」二つ目。
開店前に客引きしても意味がないのである。
「開店前に来てはダメ?」
なるほどエイさんに不備はなかった。
口ぶりから察するにどうやらメイさんの確信犯。オープン前と知っていて来たようである。
「質問に質問で返すのはずるいです」
「それぐらい受け止めて。笑ってさ」
メイさんは優しくゆるりとそう答えながら、体を斜にちょっと流し目気味に悪戯っぽくぱちっと片目を閉じてみせた。
言うまでもなく、僕は受け止める事にした。
「分かりました。歓迎します。盛大にとはいきませんけれど。紅茶でいいですか?」
「ええ、ありがと」

それからしばらく、彼女はあたりを見回してカウンターの席に落ち着くと、
「なかなか洒落てるじゃない。うん、いい感じ」
そんな感想を口にした。
僕は淹れたての紅茶を彼女の前に置いた。
メイさんは「ありがと」と素直な微笑み、机に置かれた小瓶から角砂糖を一つ、二つ、摘まんでカップにとぽとぽと浸して、ティースプーンでくるくると掻き混ぜた。
「それにしても、メール、全然返してくれないのね。軟禁は解かれたって聞いたけど?」
軟禁は確かに解かれた。
電話もメールも、連絡手段に既に制限はなく、ついでに行動制限もない。
「ええまあ。至ってそこそこ自由の身です。」
けれど僕はリンクスを止めてから、例外を除いてほとんど誰とも連絡を取ってはいないのである。
「じゃあどうして?」
理由は―――えっと、
「なんとなく、じゃダメですか?」
思わず質問に質問で返してしまった。

嫌いじゃないし、会いたくないわけでもないし、ていうかむしろ会いたいくらいで、本当はもっと密なお付き合いをお願いしたくはあるのだが、そうしないのは単純に後ろめたいからだ。
だって僕は、ほら、もうリンクスじゃないし。
「私が嫌い?」彼女は言った。よくそんなことが聞けるものだと感心する素直さである。
「いえ、好きですよ」僕は答えた。それこそ素直ね。
「じゃあリンクスが嫌いとか?」彼女は言った。
「それは――」僕は押し黙りかけて、「嫌いじゃないです」
なんとか途切れ掛けた会話の糸を紡ぎ直す。沈黙は何より避けたい解答だったから。
「だってほら、エイさんともお茶してますしね」
偶然だったけど。いや、偶然だから。

いつからか出来あがった僕の生き方、あるいはスタンスの問題。
偶然の出会いを大切に、一期一会を気取って、代償に必然を蔑ろ。
はっきり言って、エイさんもメイさんも僕は好きだ。それでも個人的に連絡を取る事はしない。
どっかのジジイに説教を食らうのはいい。だけど、友達に説教されるのは辛い。
一緒に戦った仲で、同じ立ち位置だったはずの僕らは、けれど一方的に溝ができてしまっている。
それもその溝を作ったのは他でもない僕自身。
平和な今の世の中において生殺与奪の直接戦闘は無くなったとはいっても、リンクスが兵士である事は揺るぎなく、明日にも誰かを殺すかもしれないし、逆に殺されるかもしれない。
極端な話だがそういう立場であるのは事実で、そして何より問題なのは彼女たちは“降りられない”という事だ。
拮抗状態を維持するための人柱。生贄。それを思うと、堪らない。

本当は会いたいし遊びたいし楽しくありたい。
本当は会いたくないし遊びたくないし苦痛だ。
あまりに両極端過ぎて天秤は傾かない。
だから主体性は無しにした。自ら求める事は一切しないとそう決めた。
結局、僕が何をしても、何をしなくても、世界は滞りなく回るのだ。
それなら世界に任せようじゃないか。
丸々投げて、回る回る世界に任せよう。
なんてったって楽だからね。その方が。
偶然に出会うのなら、それもまた運命。一生出会う事が無くても、それもまた運命だ。

「今日だって、メイさんに会えて嬉しいですよ。本当に。」
本当に、嬉しい。ただし、やるせなく、心もとない。
割りきれず濁る心内で、感情のせめぎ合いはみせかけの笑顔を作るのだった。
笑顔はポジティブなイメージだけど、人間どうしようもない時だって笑ったりするものなんだ。
ほら、自嘲って言葉もあるわけで。
そんなわけで、ニコッと。
答えてメイさんもニコッと笑顔を返して、
「三十点」
そんな点数を口にした。
何が、とはこの際聞くまい。むしろ、
「それって、何点満点です?」
「教えてあげない」
「いじわる」
「紅茶が美味しいわ」
澄ました顔で露骨に話題転換のメイさん。味を褒められて悪い気はしないけど。

反応に困って、僕はむーと口を結んだまま立ち尽くす。
紅茶に下鼓を打つメイさんはそんな僕をちらりと横目に、
「ちょっとだけ独り言。」
カチャリとカップを机に戻して、半ば呟くような、けれど確かに僕に聞こえる声量でメイさんははっきりと口にした。
「私は、自分がリンクスである事を誇りに思ってます。」
紅茶の水面に映る自分の顔を覗き込むように俯きながら。
「確かにネクストを降りたいって言っても、きっと企業は許してくれないのだろうけど。でも、私はまず降りようと思った事がありません。」
僕は黙って聞いていた。
暫しの沈黙。それからメイさんはこくんと小さく首を縦に動かして「うん、やっぱりない」と呟いた。

「もし」
紅茶の水面を見ていたメイさんの顎が上がる。
僕は目を伏せた。俯いて、黙って聞いていた。
「もし、“誰か”がリンクスを辞めた事に関して、リンクスを辞めない私たちに引け目を感じているのなら、それは的外れ。
悪いけれど、誰かの焦燥や罪悪感、その他諸々、全部、誰かの幻想だわ。
その気持ちは分からなくないけど、私と誰かの視点は違うし、測るスケールも違えば、思想も違うから―――。」
違うから、なんだというのだろう?
「違うから。だからね、気にしなくていいのよ。」

どきりとした。あるいは、ぞくぞくした。ざくん、ともきた。
少しだけ。本の少しだけ顔を上げる。
メイさんは僕を見ていた。まっすぐ。
僕は黙って聞いていた。
「本当に、気にしなくていいの。」
彼女と目が合う。
ころころしたメイさんの笑み。見蕩れてしまって、僕の心はこねこねされた。

「なんて」
メイさんはふいっと視線を上に外して、背もたれにぐーっと背を預けながら両手を頭上に持ち上げて、大きく伸びをした。
「なーんて私が言っても、あなたの気が晴れる事は無いのでしょうけど。」
そんな簡単な話じゃないものねーっと殊更冗談ぽく、持ち上げた両手を下ろして、前のめりにカウンターに肘を置き頬杖をついた。
「それでも、かつて一緒に戦った仲なのに、避けられるのは辛いわ。
 ――ねえ、私たちって友達でしょ?違うの?」
僕は。
「それは」
僕は、答えを口にしかけて、
「私は友達だと思ってる。―――ハイ、独り言はこれでお終い!」
その前に掻き消された。失念していたがこれは一応メイさんの独り言なんだっけ。
そしてその独り言が終わった今、僕は素直に感想を口にする。
「聞き手がいる事前提の独り言なんて、ずるいです」
だって聞き手は文字通り聞くだけで防戦一方だ。ていうか、相手がいたらそれはもはや独り言ではないではないか。
「それぐらいは受け止めて。笑ってさ。」
動じない彼女は両手の指を合わせながら、小首を傾げてまた微笑んだ。
言うまでもなく、僕は受け止める事にした。
でもメイさんの場合、何よりずるいのはその屈託ない笑顔なのかもしれません。

「ひゃくてん」
ぼそっと僕はひとりごち。
「んー? 何か言った?」
「言いました!」
「なんて?」
「教えたげません!」
「いじわる」
「紅茶おいしいでしょ?」
「ろこつだー」
メイさんはぷくっと頬を膨らませた。
僕は思わずくっくと含み笑いして、
「それはそうと、」
ふうと一区切り。一端心を落ちつけて、
「どうしてそんなに優しくしてくれるんですか?」
かねてより疑問だった事を聞いてみた。

ほんの数回の共闘と、ちょっとのメールのやり取りと、数回もない面通し。たったそれだけなのに。
あれ?
それだけ……だっけ?
まあともかく、それも最近はメールもろくに返さなかったのに、わざわざまだオープン前の喫茶店までやってくるなんて。
そりゃあ、嬉しくないわけじゃないけれど、やっぱり、疑問だった。
メイさんは視線を外して、はぁ、とこれ見よがしに溜息を吐いた。
「やっぱり、気付いていないのね」
「え?」
はあ、とまた溜息を吐いて、
「あのね、私には生き別れた双子の兄がいるの」
「え? え?」
それからメイさんは視線を戻し、今度は凛とキレのある表情で、まっすぐ僕を見据えてはきはきと、
「あなたの事よ。お兄ちゃん」
信じられない事を口にした。
「な―――。」
絶句。後、絶叫したのは言うまでもない。

     ◇

それからの事。
あの後、
「なーんちゃって、うっそぴょん」
なんて、そんな一言で見事な手のひら返しをかまし、てへへっと舌を覗かせてみせたメイさんに僕はまた絶句した。
ていうか呆れた。ちょっとでも信じちゃった自分に呆れた。
そうか。やっぱり僕は馬鹿だったのか、とかそんな事すら思った。
表面上では拗ねて見せたけど、実際は怒る気はまるで起きず、むしろちょっと和んだ。
少々見詰め合って二人して笑い合ったのがいい証拠。
あとは語るに足る出来事は無い。
本当に本当にたわいない会話を続けて、最後に彼女は紅茶の代金及び開店祝いにと机に置きっぱなしだった最新型カメラを僕に寄こした。
当然受け取れないと突っぱねたが、それでも受け取って欲しいと言われた。
どうにも引き下がってはくれそうにない雰囲気で、結局押し切られた。
「これから、たーくさん。笑顔を納めてね。そのカメラにさ」

こうして、喫茶さくらねこの記念すべき初めてのお客さんとして、彼女はお店を後にした。
空になったカップが一つ。
僕はそれを洗いながら、それにしてもと想いを馳せていた。

それにしても。
どうして彼女の嘘を見抜けなかったのだろう。
あんなに突拍子もない内容だったのに。
とにもかくにも驚いたのは確かだが、おかしなことにどこかで僕は納得していた。
そういう事もあるかと、なぜか合点が行っていた。
その根拠は、きっと記憶。
初めて出会った時の、得体のしれない懐かしさはやっぱり気のせいなんかではなかったんだ。

“相性がいいみたいね、貴方とは”
いつか彼女が言った言葉。
その言葉の真意は僕にはわからないけれど、彼女もまた何か感じていたのだろう。
なんていうのは、ちょっと深読みのしすぎかもしれないけれど。
僕は、彼女に対してある種の繋がりを感じている。それは確かな事だった。
忘れている何かがある――気がする。

けれど、僕は探さない。

思い出そうとはしない。
過去を探ればきっといろんなものが溢れかえる。
好きな事だけを思い出そうなどというのは到底できない。
ようはパンドラの箱。
希望はあれど、それを得るには相応以上の災いが伴う。
だから僕は蓋をした。過去は見ないと鍵を掛けた。今だけを楽しもうと遠ざけた。
僕はカップを片して、それからカメラを手に取った。
ファインダーをのぞいてみれば、そこには作戦領域を示すマップも、ロックカーソルも、残弾数も表示されなかった。

     /

今日は帰りが遅くなるからとの意向を、かねてより聞いていた僕は、けれどセレンさんを待つ事にした。
そうして、日付が変わりかけた深夜の事。
少々のお疲れムードを漂わせてセレンさんのご帰宅である。
おかえりと僕は言い、セレンさんはただいまと答えて、そのままリビングのソファーに身を沈めた。
時間帯は遅いけど、ほとんどいつもと変わらない光景である。
「起きていたのか。先に寝ていても構わなかったんだが」
「いやいや、ちょっと思うところがありまして」
けだるそうなセレンさんの背中に立って、さっそく僕は「これ見て下さい」と翠色のカメラを掲げる。

セレンさんは首だけをこちらに傾げて、それをしばし眺めて、
「買ったのか?」
「いーえ、お店の開店祝いにとメイさんから頂いたんですよ。なんでも最新型だそうで」
「む。へえ、よかったじゃないか。売ればそこそこの金になるな」
「あ!駄目ですよ、そんなの。せっかくの好意を無下にするのはセレンさんでも許しません!」
セレンさんは視線を外して片手を泳がせつつ弁明した。
「わかったわかった。ま、貰ったのはお前なんだ。好きにするといいさ」
うむ。流石セレンさんだ。話が早い。では好きにしよう。
「そんじゃ、お言葉に甘えまして、写真撮りましょう写真。」
「なんで私が、」
「ハイ、ちーず」
パシャと最初の一枚にセレンさん。
「こら!」
「はい次です!」
乗る気じゃないセレンさんの隣に僕はサササッと腰を下ろして、カメラを内向きに携えて片手を伸ばす。

「ほら、もっと顔寄せないと入らないですよ」
やれやれとでも言いたげなセレンさんではあったが、しぶしぶながらも顔を寄せてくれた。
「それじゃあ撮りますよ?」
横目にセレンさんを見遣る。
相変わらずの凛々しい眼つきであった。
「……はい、チーズ」
言いながら、シャッターを切るその瞬間、僕は目を閉じて。
―――カシャ、と小気味のいい音が一つ。そしてセレンさんは硬直した。
「………」

ぽかんとしたまま頬をなでなで沈黙するセレンさんをよそに、僕は「おやすみ」と一声、そのままダッシュで自分の部屋に逃げ込んだ。
勢い余ってバタンとちょっと乱暴に閉めた扉を背に、カメラの画像を確かめる。
フラッシュは焚かなかったが、バッチリ映っていた。
正面を向くセレンさんと、真横を向く僕。
写真を通して客観的に先の自分がした事を鑑みる。
無意識に自分の唇に手を当てている自分に気付いて、ちょっとやきもき。
左胸のあたりがかゆくてもどかしい。

あはは。やばい、ちょっと恥ずかしくなって来た。っていうか凄く恥ずかしいかも!
僕はカメラを棚の上に置いて、そのままベッドにダイブする。
毛布をかぶってごろごろ転げる。
右に左に転げて転げて、ごろごろごろごろ、どすん、と転げすぎてベッドから落ちた。
そのまま床の上で、はあと息を吐く。
依然として心臓の鼓動は早く、顔は火照って暑いくらいで、その顔を触ると自分がいかににやけているかが文字通り手に取るように分かってしまい、ホント、馬鹿みたいだ。
ああなんだか、今日はとてもいい夢が見れそうな気がする。
ま、眠れればの話だけど。

本当、何やってんだろ。
電灯の消えた部屋の片隅で小さく光るカメラの、スリープモードを告げる黄緑色のLEDがいつまでも点滅していた。


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