Written by へっぽこ


それはマグノリアと出会う、ずっとずっと前のこと。
その時の私は、まだ自分に何ができるのか、まるで分かっていなかった。

でも、何ができるのか、試している暇はもうない。
蓄えが尽きたのである。
さあ、どうしようか?
私のような人間がこの街で生きていくには、何よりお金が必要だ。
そんなことは百も承知。稼がなきゃ。

私は描きかけのキャンバスを前に筆を置く。
休憩とばかりに伸びをすると、引き延ばされた胃が、ぐぅ、と、はしたなく根を上げた。
お腹の奥がずくずくして、喉はひりつくように渇いている。
私は飢えていた。

すんすん、と、匂いを嗅げば。
「……絵の具くさい」
なんとも不潔な気分になった。
濁り淀んだ穢れの匂いが体に染みついている。

とりあえず。
シャワーを浴びるところから。

   /

こうして。
身なりそこそこ、夕焼けのオレンジに染まった、どこかノスタルジックな灰色の古街をうろつく私。
オレンジなのに灰色。ほんと笑える。
私は大通りを抜け、家とは正反対のスラム方面へと向かう。
その道すがら、すれ違う人たちはみんな私を見てきた。

じろじろと、臆面なく、みんなが私を見下ろしてくる。
そんな有象無象をしかとして、私は歩く。ぽてぽてと歩く。
じきに太陽は沈む。沈めば香ばしいオレンジ色は消え失せる。
でもその直前の。日没間際の東の空の、その何とも不安定な群青色のグラデーションが私は好きだった。
ほら見て。と、空を仰ぐ。
そう、この色。この色が好きなのだ。深い深い、青い色。
私は空を見上げて、なお歩く。
見上げたままで、ぽてぽてと歩く。

そうして、
「……わぐ」
誰かの背中にぶつかった。
私はとんとんと後ろへたたらを踏みつ、ぶつかった何がしかを確かめる。
のそ。とした、それは人間の背中。
大きくて広いその背中は固く、覆うレザーのジャケットはとても年季が入っていて、あちらこちらにひび割れがある。
それはとかく大柄な男であった。縦にも横にも。
背の主は振りかえると、見下ろし、私の全身をまじまじと眺め、そして。
「前見て歩け」と、ぶっきらぼうに一言。
やおら歩き出した。

ひとたび男が歩き出すと、みるみるその背は遠のいていく。
私はふと気になって、男の後を追いかけた。小走りで。
「待って。」
男が振りかえる。
「こんな道端で、あなたはどうして立ち止まっていたの?」
「お嬢さんには関係のないことだよ」
男はまた歩き出す。私は小走りで追いかけて行く。
「道に迷ったとか?」
男は黙って歩いている。私は男の後ろで歩いては置いてかれ、走っては追いつきを繰り返す。
「足が疲れちゃった?」
「誰かと待ち合わせ?」
「何かを探してる?」
男は何も答えない。

「何とか言ったらどうなの? おじさん。……むぎ」
男が急に立ち止まって、またその背にぶつかってしまう私。
「うるさいな。ただ空を見ていただけだよ。影に隠れる太陽を見ていただけだよ」
あら、ロマンチック。
そうよね。人は見かけに寄らないものよね。
よし、決めた。
「分かったら、帰りな。もう日は没した。これからどんどん街が暗くなっていく」
「やだ、帰らない。」
「攫われるぞ」
男はまた歩き出した。
私は懐をまさぐって、取り出す。
私は言った。
「ねえ。おじさんは、女の子が好き?」

取り出したるは銃である。

     ◇

そんなわけで、手っ取り早く道端で出くわしたおじさんに声をかけた私であるが。その後もしつこく。
しつこくしつこく話を聞けば、どうもおじさんはストーカーであるらしい。
そう、おじさんは“ストーカー”であったのだ。
その特殊性に目を付けたお利口な私は、精一杯、おじさんに尻尾を振った。
が、全身全霊ですり寄り、媚を売る私をおじさんはまるで取り合わなかった。
その態度、とてもムカつく。

ふざけやがって。
私のように若くてかわいい女の子が、それでもこんなことをしなければならない、その意味を知れ。
おじさんはただただ私を手篭めに、金を払いさえすればそれで良いのだ。
その金で私は、まあ一カ月くらいは生活できる。
幸いなことに、私の体はまだ赤ちゃんをつくる準備が整っていないので、今なら病気をもらう以外の心配ごとがほぼない。
だからこそ、私は人を選んで、自分からおじさんに声をかけたのだった。

女と見れば近寄ってくる下種な人間は信用ならない。そも、私に言い寄る時点でお察しである。
が、そういったことに興味が無い人間であれば、病気持ちである可能性も低いと思うし、逸脱した性欲求にかまけて暴力をふるわれることもないのではないか、と、そう考えてのことだった。
ちょっとだけだけれど、会話をした感じ、おじさん普通に常識と道徳は持ち合わせていそうだったし。
まあそうなると、前提として私を金で買うほどには堕落していないということにもなるわけで。
その辺のジレンマはある。
できるかぎり優しい真人間であってほしいが、春を買う程度の悪徳がないと話は先へ進まない。

拮抗状態が続く中、ひとまず私はおじさんのことを追いかけることにした。
銃を片手に。
徹底的に付きまとって、おじさんの素性を少しづつ聞き出しながら、傍らで自分がいかに可哀想であるかをおじさんに説いた。
そう、銃を片手にね。
対等でいられるように、逃げられないように、あるいは逃げられるように、銃を片手に。
撃鉄は上がったまま。人差し指は引き金の上。
その気になれば、いつでも撃てるよ。

こうしておじさんは私の事を無碍にできなくなった。
そうして私はここぞとばかりに付きまとった。
片足にしがみつき腰を振る飼い犬のごとく、付きまとって付きまとって喋りに喋った。
他にすることがなかったから、というのも理由の一つであるけれど、言うほど当時の私に余裕はなかった。

りょうしんはもう存在しない。
つつましい蓄えもいつか底を尽いて、時間はあってもお金がない。
稼ぎがないのだから仕方がない。
絵の具や鉛筆は食べられないので、お腹はぐーぐー鳴るばかり。
ひもじい想いで、うつろうつろに筆を動かすせば、自然とキャンバスは食べ物でいっぱいになった。
リンゴ、ザクロ、チェリー、パプリカ、ストロベリー、赤い魚卵、生肉。
あかいあかいあかいキャンパスはとてもくさい。
飲み干す。グラスいっぱいのトマトジュース。
ああ。
自宅の惨状を思うと、ホント、なきたくなるよ。

私は言った。色々言った。
「おじさん。お金ちょーだい」
「おなか減って死にそう」
「私は」
「私はもう天涯孤独なの」
「連れ去られた先、迷いの森の中で乱暴されて、殺されても、誰も気にもしないのよ」
「だれも私のことを知る人間なんていない」
「限界だ」
「ねえ、おじさん。お金を下さい。なんでもするから。なんでもするから。私を生かして」
「なんでもするから。」
なんてね。
銃を片手にだよ。

「降参だ」
おじさんは言った。
街に来たのが間違いだったって。
「たかが買い出しに来ただけだというに、君みたいなのに出会ってしまったというのは、まったく、最悪の一言に尽きるな」
そうだね。どこの街でも、物乞いはいるからね。私みたいなね。
「残念でした。観念してください」
運がなかったね、やさしいストーカーおじさん。
そして同時に、私はとても運が良かった。
「だったら、今度から私がおじさんの代わりに街に行くよ。そうすれば、少なくとも私みたいな、たちのわるぅい立ちんぼに目をつけられたりしないでしょ? ところでホテルはこっちだよ」
やれやれ、と、おじさんは苦笑した。
「我が家に帰る。付いてくるなら、黙って付いてきなよ。第一、似合ってないんだよ、その青いドレス。ぶかぶかで、ほとんど引きずっちまってるじゃないか」
「あは! 銃よりドレスに言及するんだねオジサン!」

ま。そういうわけでさ。

     /

「さよなら」

それから、数年が過ぎたある日のこと。
なし崩し的におじさんの一派に加わった幼い私も、今となっては買い出しとか、掃除とか、片付けとか。
そんな雑用だけではなくって、書類管理やら庶務といった事務系お仕事に、終いにはオペレーターまで、揚々こなすキャリアガール。
つまるとこ、メンテナンスやら何やらの技術や肉体的な力を要する仕事以外の軒並みに手を出すほどに、すくすくと成長した私なのだった。
が、みんなからはあまり愛されていなかった。
私の勘違いかもしれないが、少なくとも愛されていると感じたことはない。ただの一度も。

そうして今日も、ヘッドセットつけて、適当に情報伝達する私であり、モニター向こうのACもACでつつがなく、作戦通りのミッションコンプリートと相成るのだった。
素晴らしい。なんて退屈で安定した日々だろう!そう思った私はまさしく馬鹿だった。
じゃ、後お願いね。と、ACの回収をおじさんに促したその時。
「さよなら」
え?
私が何か返事をする前にヘッドフォンにはノイズが広がった。
そして、エースは姿を消した。

彼、もう名前も思い出せないその男は一座唯一のACパイロットで、我らのエースだった。
にも関わらず。ただ一言、ありふれた別れを告げてあっさりと姿を消した。
別に死んだわけではない。
ただ帰ってこなかっただけ。律儀にもからっぽのACを残して、身一つ、組織を抜けただけに過ぎない。
後から聞いた話、別口から移籍の話が持ち上がっていたそうで。予期できていなかったのは私ぐらいだった。
――なんだそりゃ。

こうして、私たちの組織はACパイロットを失い、瞬間仕事を失った。
そんな元エースパイロットの自分勝手に憤慨し、「うおおお、死ねー、裏切り者は死んでしまえー」と、ロブスターの特大スパナを振り回しながら廃棄品の山に突撃する私を、おじさんはまあまあと窘めた。
「戦場で死なれるよりも何倍もいいさ」と、おじさんはそう言って笑った。
馬鹿な。笑ってなどいられるものか。
バキバキと鉄くずを粉砕する私に向かって、重ねる。
「大破したACは使い物にならんからな」と、おじさんはそう言って笑った。

ACがどうなろうと知ったことか。
私は戦ってほしかったんだ。
私たちのために最後まで。例えACがダメになっても。最後まで!
戦って死んで欲しかった!
ていうか、戦って死ね!
「戦ってほしかったんだ! 仲間じゃなかったのか! 裏切り者めえええ」
ああああああ、と、精一杯の呪詛をふりまき、クズ鉄の山を力任せに切り開く私。
ガキンガキンと打ち鳴らされる、鉄と鉄のぶつかる音はやかましく。時折火花が散っていた。

お腹の中が、なにか得体の知れない黒いモノで満たされていく。
戦って死ね。

ふう。と一息、汗をぬぐう。
ああ、疲れた。

     ◇

その日の夜のことである。私が初めてACに乗ったのは。

もちろん、無断で。
なぜ乗ってみようと思ったのかは覚えていない。
抜けたエースパイロットに対する怒りは、体を動かすと思いのほか早くに消えた。
それに、自分がエースに取って替わろうなどという高い志は毛頭なかったはずなのだが。はて。
今思い返しても、首をかしげるばかり。
我ながら理解に苦しむ行動であった。
つまりそれは悪魔のいたずら。
太陽がまぶしいから人を殺すのと同じように。
私の脳には彼岸花が咲いている。

ふと。
深夜に目が覚めたので。
ベッドから抜け出して、わざわざ調理場へ出向いて水を一口。
それから、格納庫へと向かい、気付けばACのコアへ伸びるタラップを昇っていた。
とてもとても穏やかな心で。

ACのコクピットは見たことがあったけれど、シートに座ったのはこれが初めて。
正直、もっと窮屈なのかと思っていた。
が、私の体格によるところもあるだろう。想像以上にゆったりして。
しっくりきた。

とてもとても、しっくりきた。
カタカタと手動で席をずらし、ペダルに足をかけ、レバーを握る。
うん。ぴったり。
それから、五点シートベルトを締め、ロールバーをロック。そのままの体勢でぐるりと見回す。
いたるところにあるスイッチ。その一つ一つをカチカチと触っていく。
うん、うん。
すべてに手が届いた。座ったまま、一様に操作することができた。
無論、火は入っていない。それに、今はミッション後のメンテ中なのでジェネレータともバッテリーとも物理的に切り離されているから、どこを触ったところで何一つ反応などしない。

それでも私はいともたやすく想像することができた。
複数の画面越しから見る視界、一歩一歩踏み出すごとに感じる震動、ブースターの轟音、揺さぶられる加速度ベクトル、そして。
引き絞る指先と跳ね上がる銃口。
振りおろした鉄の拳の下で潰れる、二足歩行の哺乳動物。

「ああ!」
私は感嘆の声を上げる。
欲しいト思った。
みるみる所有欲が膨れ上がっていく。
これは、今から私のものだと、そう決めた。

そして私は、そのまま朝まで。
もっと言うなら、おじさんに発見されるまで、ACの中で。
このシートに座り続けた。

     /

夜。
シートに座ったまま、私は下腹部に手を伸ばす。
「……あ」
意図せぬ甘い声が漏れる。
とろりと濡れる指先が肉をなぞれば、透明な血がぽたりと垂れた。
お腹の奥がずくずくして、喉はひりつくように渇いている。
私は飢えていた。
すんすん、と、匂いを嗅げば。
―――分かるでしょ?。

ま。そういうわけでさ。
以下省略。


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