Written by へっぽこ


そして私は恋をした。

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あの、病院での一幕。
彼らに関わる誰も彼もが揃いもそろって、一夜限りの脳内スペクタクルに身を窶すそんな折。
とうの私はというと、ただデータを運んだだけ。
なんてことのないお使いごとをしただけなのでした。

そんな、ほとんど事件の蚊帳の外にいた私ですが、それでも、あの人は「ありがとう」と言ったのです。
そう、笑いかけてくれたのです。
“いいえ、わたくしに感謝は不要です。
あなた方の手助けをしたのは王大人でありまして、わたくしは何もしていないのでございます”
――と、ありのまま。正直に言おうと思ったのだけれど、口は回らず、ずるいながらにあの人の感謝を全うに受け止めて、喜んでいる自分がそこにはいました。

見たことのない表情。笑顔。
貴重なそれが、とても素敵で、かつ視線の先にいるのが自分だってことに、とても、からだ熱く。

有体に、きゅん、とした。

そうして、おずおずと。わたくしも頭を下げました。
「こ、こちらこそ、ありがとうございました」
どもりながらに。
それが何に対する感謝であったのか、自分自身ほとほと謎でありましたけれど。
きっと、わたくしはとてもうれしかったのだと思います。
感謝されたことが、ただ嬉しかった。
あの人に、ありがとうと言って貰えた事が、ただただ嬉しかった。

憧れに一歩近づいた。
そんな気がしたのです。

―――あれから。
あれから、ちょうど一年が経ちました。

     ◇

ここらで一つ、趣味のお話。
きみは本は読みますか?
小説を?
評論を?
絵本を?
漫画を?
雑誌を?
なんだっていい。
私は読みます。
なんだって読みます。

特に最近は、それまでの趣向とはまるでベクトルを逆さにするようなものも、構わず厭わず読みました。
あげく、ちょっとエッチな内容の本にまで手を出して、王大人の顰蹙(ひんしゅく)を買いかけるも、メイド長の機転に助けられたり、と。
それなりの読書生活を満喫しては、そこはかとなく読書家を気取ったり。
それは自分の時間を持てるようになった証でもあって。
うん、ありがとう。

さて。
昔から、本は良く読むほうであったと思ってはいるのですが、自分でもここまでの濫読は甚だ予想外で。
私は今、とても楽しい。
これは娯楽だ。人生の。
本とは、娯楽なんだ。
おそらくはこの世で最も親しみ深い娯楽媒体。
無限にも思える文字の羅列から紡がれる物語、事象、知識、経験。
あらゆる感情が想起されては、今日も私を圧倒する。

それはもちろん文章だけに限った話ではない。
写真や、絵だって、良いのです。
見たこともない光景、見ることのできない風景、存在している森羅万象、存在していない幻想。
それすなわち、テクストが歴史を、イラストが世界を。創る。
私の中に、今日も生まれる新しい世界。
それが何より新鮮で、楽しい。

最近のお気に入りは一冊の絵本だ。まだ新人の作家さんの。
喪失と、出会いと、逃避と、忘却と、はての別れ。
そして迷い、傷つき、決意し、再会する。
と、羅列すれば、なにやらいかにも壮大な感じであるのだが、字面も絵面もただひたすらにファンシーでポップ。
読み心地は羽のように軽く。
そこには、どこか作者の、あるいは誰かある人の、心が溢れているように思えた。
そういったモノを自分の中に取り込んで、咀嚼し、血や肉と変え、自分の一要素として、おなかの中にしたためることが、今の私には何物にも勝る快感だった。

一方でそんな本を吟味することも、今の私にとっては楽しみであった。
残りの生涯をいくら費やしても、出版されている全ての本を読むことはできない。
ならばこそ選ぶしかない。限りある時間を有効に。選択に妥協はなく。
表紙の色合い、タイトルの語感、あらすじの内容、などなど、なんでもかんでも。
私の。
私の本にするために吟味する。
わくわくする。

本棚の左から右へ。指で本の背をなで。
腰を傾げて、上から下へ。舐めるように。
とても。とても、わくわくする。
そうして選んだ珠玉の一冊に、そりゃ、時折裏切られたりもするけれど、中にはパッと弾けるモノがある。
件の絵本もそうだった。
そして弾ける本の効力は、現実にまで影響を及ぼすのだ。

どう影響するかって?
その最たるものは、真似したくなるということだ。
本には本当に色んなものが詰まっていて、そうして私は、諸々を自分にインストールする。
それは人間の機微。真似したくなる動作、口にしたくなる台詞、使ってみたい言葉、モノの見方。とか。

もちろん、本に書かれている内容がイコールで正しいとはならないし、作者のひととなりにそのまま結び付くわけでもない。
情報だけ抜き出すなら、その取り扱いは非常に繊細だ。
いわゆる、“本作品は全てフィクションです。実在の人物・事件・団体などにいっさい関係ありません。”なぞという、テンプレートな御約束は、例えノンフィクションをうたっていてもが、常に頭の片隅に置いておかなければならない。
――というのは、まあ私だけの読書哲学だとしても。

そうして得た創作を、感性を、すなわち考え方や言葉遣いから仕草までを、現実にそっくりそのまま落とし込む。
つまりモノマネする、というのは、なんというか。
正しい、正しくないを別にしても、イタイことであるなぁ、とは思う。

ていうか、何よりもまず。
本の中のお姫様が綺麗だからと言って、それをマネする自分が美しくなれるとは限らない。ということを考えねばならない。
そんなあったりまえのことは、流石の私(りりうむ)も重々承知している。

でも。
ちょっとぐらいは大目に見ても良いじゃないかな?とも思ったりするわけで。
真似したくなるくらいにわくわくした。ドキドキした。ベッドのを上を転げたりもした。
それははづかしいことかもしれないけれど、別段悪いことではないと思う。
ハマればそれこそ、現実世界がファンタジーになる、と思うのだ。
むろん、現実で白馬の王子様が登場することなどないのですが。
そこまでいかなくとも、ささやかながらに夢は広がる。

例えばの話。
ここに一人、ちっちゃな娘がおりまして。
今でこそ“学校”の子供たちから、そこそこに慕われる彼女だけれど、そのきっかけはというと、とある本のモノマネでした。

彼女は自分が人見知りする性質だということを知っていた。
それも年下に対しては特に。
子供なんて大の苦手。

年上は良いのです。
ずっと、そういう世界で生きてきて、周りはみーんな大人ばかりで。
ただし、私……じゃなくて、彼女、を、取り囲む大人の九割九分は頭を垂れた。

姫のごとき扱い。
傍らの人生の先輩方を、時に顎で使う日々。
それは今思い返すと、ただの甘えに他ならなかったけれど、おかげで大人の人とのやり取りは慣れたし、経験値も増やせたし、今は克服もした、と、思う。
やや別の不安は残っているけれど。

ともかく、逆にだからこそ年下との付き合い方は分からないままだった。
距離がつかめずからっきし。
面と向かうと特にダメ。同年代はまあまだ良いにしても、相手が子供になればなるほど。
予想だにしない行動、感情の波に面食らう。
何を話せば良いのやら、どんな顔をすれば良いのやら、気まずいったらありません。
目線の合わせ方すら分かりません。

“学校”では騒がしく遊びまわる子供たちが、彼女を見つけるとすっと静かになって会釈する。
その、行儀の良さに委縮する。
そんなことで良いのか?と自問した彼女は一冊の本に目をつけた。
そして何をしたか?

「おはようございますにゃん」
次の日、彼女は学校で話すとき、語尾に“にゃん”とつけたのだった。
するとどうだろう? それだけで、子供たちは笑顔になった。
メイド長も笑顔でした。
王大人は青ざめてましたが。

無論、これがコミュニケーションにおける完ぺきな正解ではなく、ただの所謂けがの功名に過ぎないとしても。
結果良ければなんとやら。
とまあ、そのようにして。
彼女はまだ拙いながらに人付き合いの苦手を一つ、確かに克服したのでした。

そして私は考える。何を?次を。
この台詞はカッコいい!言ってみたい!
この仕草は可愛い!やってみたい!
この言い回しは面白い!使ってみたい!
“みたい”はいつか“みよう”に変わる。
次はこの本の、その知識、あの仕草、この言葉遣いを試してみましょう、などと。
次を私は考える。

そうして今日も、私は自室で、本を読む。
素敵な物語に酔いしれる。
知らない情報に驚愕する。
自分の世界を増やし広げ彩るために。

ふと、紅茶の差し入れにやってきたメイド長が尋ねて曰く。
「今日はどんな本を読むのです?」
そおね。

答えて私は、
「ここらでひとつ、ラブストーリーと行きましょう」

世界は今日も広がっていく。


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