Written by へっぽこ


例えば。
こうやって誰かと平和な街を歩く事なんかに、私はとても憧れていたんだ。

―――なんて事を言ったら、あなたは笑う?

     /

祝日明けの平日。
昨日は休日返上で営業していた“喫茶まよいねこ”であるが、本日は定休日。

おかげさまで、もっぱら一日フリーな時間を満喫する事になった僕は、暇(いとま)のラストを飾るにあたって、日も傾きかけた午後四時頃、勝手気まま、当て無き散歩の旅へと出たのであるが、久々にゆっくりと町を巡り巡った(といっても徒歩で行ける範囲だ)それも今や収束へと向かい、最後に立ち寄ったスーパーを締めとして、脹れる買い物袋を両手に、てふてふと帰路を歩いている。

少し前。すなわち喫茶店を開く前までの毎日は、いつだってこんな感じで。
散歩を兼ねた夕飯の買出しを日課としていたわけだけど、しかし今は喫茶店の経営という事もあって、毎日買い物に行くという事もなく。
数日に一遍行っては、ただ量をそろえている。
おかげで一度の買い物で扱う量は以前の倍ほどであるのだが、だからどうという事もない。
なんて事の無い、ささやかな日常の変化である。

それにしても。
喫茶店の経営自体はまだまだ趣味の範疇といったところが多分にあって、その収入は微々たるもの。
やっとで黒字に転じた経営もまだまだ甘く、成績は揺れて安定してくれない。
グラフに起こせばジグザグだ。
近似して辛うじて右肩上がりになる程度の成長率に気が気でなく、三カ月を費やしたところで満足のいく指輪の一つも買えやしない。

そんな現状、僕の甲斐性は未だマイナスのスカラー。
しかし焦る必要はどこにもなく、この先も穏やかな日々が続くなら、振り返らずに進むべきだ。
振り返らず、進む。
そこに迷いはない。
どの道、他に道など在りはしないのだから。

寄せては返す感情の波。
狭間で目を眩ませてくれる楽しい日々と、目を逸らせてくれる遣り甲斐ある新しい仕事に精を出す。

ふと考えた。
果たして前向きであることと振り返らない事は一緒なのだろうか?
ほんの数秒、立ち止まって。
答えが出かけたところで、僕はどうでもいいとかぶりを振った。

ほら。見上げればそこには夕暮の空。
無限大に広がるそれを、街天井のフィルター越しに眺めて。
西の雲の橙色と、東の雲の淡紫色とに感じ入る。
風は弱い。彩られた雲は静止している。
それでも、ちょっと目を離すたびに違う形になっているような、そんな気がした。

この後、雨は降るだろうか。
いや、雨が降ろうが、どうでもいいんだけどね。
街には天井があるし。それにもう、自宅マンションの目の前だ。

エントランスをくぐり、エレベータホールへ。
二基あるエレベータの、その一つは上へ向かう最中。もう一方も上層の階に待機していた。
待つか、階段か。
――うん、歩こう。
と、いうわけで、外階段をチョイス。
カンカンと、リズムよく、足音を響かせて昇る。
最上階の9Fまで。螺旋状に。ぐるぐるぐるぐる。昇る。

最後の一段を超えて、L字状に伸びる廊下を進み、突き当たりの玄関前で一息。ふーと大きく、息を吐いた。
止まるとなお自覚する、体の火照り。
ちょっぴり早くなった心臓の鼓動。膝には乳酸。
両手の買い物袋はずしりと重く。
僕はもう一度、息を吐いた。ふーと大きく。

呼吸を整えて、両手の買い物袋を持ち直し、そのままポケットから鍵を取り出そうと四苦八苦。
何とか取り出した鍵を鍵穴に突っ込んで時計回りに九十度。
そうすればいつものように、普段は誰も気にも留めない、カタンという解錠を告げる小さな音と軽い手応え、が。
――しなかった。

あれ?と僕は首を傾げる。
何度ひねってもスカスカで、予想した小さな手応えも音も無い。

あれあれ。
鍵かけ忘れて出かけちゃったのかな。そりゃまた無用心な。反省反省。
と。
鍵をポケットに戻し扉を開けて玄関を見た。

知らないブーツ。
それもぱっと見ミリタリー系。
僕はブーツから目を外し、前方に伸びる廊下を眺めつつ、その場で声を上げた。

「ただいまー」

一、二、三秒、と待って反応なし。
と、なれば、仕方がない。
僕は買い物袋をその場において、中から殺虫剤とライターを手に取った。
それから、扉は開けたままに、トントンと両のつま先を床に代わる代わる打ちつけて、靴裏の汚れを払い家に上がった。
土足のまま。

玄関上がって正面、まっすぐリビングまで伸びる廊下には、左右に僕とセレンさんの部屋、それからバスとトイレのセパレータ。合わせて扉四つ。右に二つ、左に二つ、どれも閉じている。

まず手始めに手前の僕の部屋から確かめる。
ゆっくりとドアを開ける。誰もいない。荒らされた形跡もない。いつもの部屋だ。
そのまま中に入って、慎重にクローゼットを開き、中から靴箱大の工具箱を取り出して、そこにしまわれている回転式拳銃……はスルーして、変わりにレンチを手に取った。
ライター&殺虫剤のインスタント火炎放射器とはここでお別れする。

廊下に出、続いて僕の部屋の正面に位置するセレンさんの部屋(実はあまり入った事がない)へ。
軽く物色もとい、確認する。
ふむ、たいへん素敵なお部屋ですね!地味にファンシーってとこがまた何とも。
本棚の片隅につつましく丁寧に並べられたぬいぐるみが可愛らしい。
と、あまりアレするとアレなので、一通りの確認後、廊下に出てシリアスに物語の続きをば。

家の奥へと進みつつ、順にトイレ、バスルームをそれぞれ確認。どれもこれも異常なく人影もない。
そうして更に奥へと歩を進める。
すり足気味でじりじり。
廊下の先にはリビングダイニングの広めワンルームに、カウンターキッチンで仕切られたキッチンスペースがあり、電気は付きっぱなしであった。

マイホーム内で最も広く、生活の起点となるその空間へと続く、廊下の切れ目でさささっと左右を確認し、屈んでテーブルの下をクリアリング。
廊下から出て、部屋を今一度ざらっと見渡すが注目すべき点は今のところ見当たらない。
ベランダへ抜ける二つの大窓は一見閉じられているように見える。が、カーテンが邪魔で、ここからでは窓に鍵がかかっているかは分かり兼ねる。

死角となるのは、背を向けているソファーの表面、と、カウンターキッチンの向こう側。
とりあえず、一番大きい死角であるところのカウンターキッチンの裏側から調べましょう。
――と、キッチンの方へ足を一歩踏み出したその時である。
ギシ、と何かの軋む音。

反射で視線を向ける。
音はリビングスペースにセットした中流家庭御用達のでかいソファー。の、今は背しか見えない、その表で何かが動いた、ような。

マジか。ソファーの影に誰かいる……?
心拍数ちょい増加。手には汗。やや、別にビビっているわけではないよ。
誰かが侵入しただろう事は玄関で明白だったわけだし。
想定内。
ともかく。

僕は最善の注意を払って抜き足差し足。
草食動物ににじり寄る肉食獣がごとく、ソファーに近寄って。
レンチをぐっと握りなおし。
さあ。交戦だ。
僕は覚悟を決める。

そして、せーのでソファーの横を一足飛び、表側へと回り込り込みながらに体を捻ってソファーの正面を見据え着地する。と、ほぼ同時にレンチを振りかぶって、―――。

瞬間、思考が止まった。

目の前の光景、そのひとかけらが頭の中を支配した。
それは稲妻が駆けたかのような瞬撃。

まさしく、心を打たれた。
打たれて僕の体は石と化した。
心も。
魂も。
瞬きすらする余地もなく。
止まった思考。

一秒。
いや、実際は一秒にも満たないだろう寸隙。
こくん、と無意識下での喉の蠕動。
つられてやっと、僕は幽かに息を継いだ。

凍った時が動き出す。
僕はゆっくりと目を瞑り。
どっくん、と一度。殊更大きく心臓の音を聞いた。
それから。
―――それから、もう一度前を見据える。

正面。
黒革のソファーの片隅、そこに居たのは世にも可憐な―――

     ◇

―――なんだ。
いるなら言って下さいよウィンさん。
ふうと一際大きく息を吐いて、けれど声はあげないで、静かに肩を下ろした。
ウィンさんは眠っていた。
そりゃもう静々と、穏やかに、安らかに、柔かに、平和に。
優しくソファーの隅っこで、まるくなって寝てました。

初めて見た寝顔。
それは彼女のパーソナリティからしても想像だにしなかったもので、もの凄く、その。
かわいい、と、思った。
有り体に言えばギャップ萌え。
とまあ、ひとまず。
これで見知らぬブーツは合点がいった。

そりゃそうだ。
仮にそのブーツの持ち主が犯罪者の類なら、そもそも玄関にブーツが残っていることがおかしい。
そんなわけで今回はただの杞憂だったわけだし、何故家の中にいるのかは依然として不明だけど、そこは大目に見る事にしよう。
鍵のかけ忘れを見かねたウィンさんが、親切にも留守番してくれていた、というのが妥当だろうか。
それに、ウィンさんなら信頼できるし。

こうして僕は玄関から通算三十歩目の室内で靴を脱ぎ、それを両手に玄関へと舞い戻った。
途中携えたレンチは自室の隅に転がし、靴は玄関脇に揃え、開けっぱなしの扉を閉めて、置き去りにしていた買い物袋を装備しキッチンへ。
隅に鎮座する冷蔵庫、通称ホワイトボックスに僕は静かにしまい込む。
次いでコロコロを持ち出して、土足を踏んでしまった部分を丹念にお掃除お掃除。

掃除しながら。廊下をコロコロしながら、ふと考えた。
それはウィンさんの事。

ウィンさんは。

ウィンさんは今でも戦っている。
今でもリンクスをやっている。

ただ所属は“あの時”とは違う。
今はカラードでインテリオルからは抜けたそうで。
そうして、カラードのトップリンクスとして、否、世界のトップリンクスとして、この街と、その心臓たる発電施設の専属護衛にあたっているのだとか。

もちろん、護衛任務についているのは彼女だけではないし、現時点で最高の防衛システムが日夜稼働中である。
ネクストに限っても彼女の他に、企業連から任期付きで選出された最低でも一機が加わり、常時二機以上でその任にあたっているそうだ。
そして不測の事態にはきっと、この街からリリウムや王小龍やらが援軍として向かう事になるのだろう。

正直、無敵だ。
その瞬間戦力たるや、たとえORCAレベルの強硬的に強行な反動勢力が突如現れても大丈夫だと断言できるほど。
そんなウィンさんの現状を鑑みて、浮かんだ疑問は三つ。
なんでここに居るのか、とか。
何をしに来たのか、とか。
それから、ウィンさん自身最近どんな調子なのか、とか。
どれもこれも、僕がどれだけ考えたところで毛頭答えの出ない問いである。

ならば本人に聞くのがよろしい。と、僕はあらかたコロコロし終えた後、彼女を起そうと再びリビングルームへやってきた。
ソファーで未だ眠り続ける彼女を見詰め、起そうと、思い。
安らかに眠っている彼女を起こそうと、思い、手を伸ばして。そして、止めた。

どう見てもお疲れの御様子。
それを起こしてしまうのはなんとなく躊躇われた。

もう一度言う。
ウィン・D・ファンションは今でも戦っている。

いつでも。
正義のために。
あるいは、弱いものを守るために。
それは護衛任務に付いているという具体的な話では全然無くって、もっと抽象的な。もっと根本的なところで彼女は戦っているんだ。

僕は知っている。彼女の芯を知っている。
折れず曲がらず揺るぎのない強さと正しさ。
さても何を持って正しいとするのか、とか、その意義をこの場で誰かと議論するつもりは無い。
少しも無いのです。

誰が何と言おうと、僕は彼女を肯定する。
正しいと認めているし、これからもそれは変わる事は無いだろう。
彼女はいつだってまっすぐで、かっこよく、言うなれば主人公なのだ。

そして僕は、そんな物語の脇役で。ただの引き立て役。
その役柄といえば、ピンスポットの当たった彼女の後ろを、ただただ駆けずりまわるのみである。
それでも十分満ち足りる。本当、十分すぎるほど。
世界に正しく干渉できている気がしたから。

「……ん」
ソファーの上で少しだけ寝苦しそうに体をよじる主人公の姿を見た。
そして思う。
どうせなら。偶の休息くらい、もっとゆっくりして欲しいものである。
ソファーでつかの間の休息より、ベッドで体力全快するほどの安らぎを得て欲しいものである。
やれやれ、僕が彼女に対してできる事なんて、本当にこれくらいの事しかないんだ。

思い立って、僕は彼女をソファーから抱きあげた。
ゆっくりと、優しく、起こさないように、細心の注意を払って。
所謂、お姫様だっこ。

なんて軽い。
なんて細い。
なんて柔い。

それから思った以上に近付いた彼女の顔に若干のドキドキ感を覚えつつ、僕は彼女という存在そのものに感じていた力強さとは裏腹な、その小さい体に驚き入った。
女の子特有の柔らかさを持ちながら、引き締まった体は無駄なくしなやかで、あたたかい。
まるで羽のように軽いガラスでできた等身大の工芸品。
そんな清麗さと、このままギュッと抱きしめれば粉々に砕け散ってしまいそうな繊細さ。
それを僕のこの手でめちゃくちゃに汚すことができたなら、それはどれほどの快感だろうね?という、倒錯しかけた欲望を理性でもって泡とする。

僕は、ただ有心と親愛をのみ肝に銘じて、丁寧に廊下を進めばいいのだ。
彼女を部屋のベッドまで、なるべく優しく、ありったけ緩やかに、運んで。そして仰向けに横たえる。
そうして、彼女を無事護送した後の僕であるが、ベッド脇に膝をついて枕元に顎を乗せつ、怠惰に彼女の寝顔をふと眺めた。
自分でも悪趣味が過ぎるとは思うけれど、それでも眺めていたいと思ったんだ。

あと五秒、いやいややっぱりあと十秒。などと少しずつ間延び、肥大する欲望に見切りをつけて、そろそろ退散しようと、ベッドから顎を離すその瞬間。
「……う、ん…」
くるっと九十度。こちらに寝返りを打つ眠り姫。
そうして、自然近付く顔と顔。
耳を澄ませばすぅすぅとそんな寝息が聞こえてくる。
その寝姿はただひたすらに可憐で、愛らしかった。

メートル換算二十センチ先の彼女の寝顔に魅了されて、我が再びの前後不覚。
かくも容易く、現実感は消えていく。
彼女との距離感が曖昧になって、彼女との関係性を見失って、自分の立場に考えが及ばなくなって、空気に飲み込まれていく。

ふと考えた。

このまま彼女が永遠に眠り続けたとしたら、果たして世界はどうなるのだろう。
やっとで水平になったシーソーが、また揺れ動き出す事態にならないだろうか。

彼女が睨み、眺め、守る。この始まったばかりの平和な世界には、彼女のような監視者が必要なんだ。
だから彼女は起きなくてはいけない。
立って見据えなければいけない。
街の内側も外側も。空も海も大地も。

たとえ戦闘がなくたって、見張らねばならない。
強く強く。誰よりも強く。
いつでも傍に武器を置き、いつでも誰かを圧倒できるように。
彼女には起きていただかなくてはならない。

と、すれば、だ。
古典に学ぶ、美しき眠り姫は、果たしてどうして目を覚ます?

そうして。
そうして僕は、横向きの彼女に合わせるように首を傾げて、夢物語はクライマックスを迎えるのだ。

ゆるりと近づく、顔と顔。
そう。
僕は眠れるお姫様に口づけを―――、

する、わけがないのである。

あと数センチを残して。僕は、ふっと身を引いて、一度天を仰いでから、目を閉じてかぶりを振る。
目を開ける。
ちょっと考えれば分かること。
お姫様に口づけをするのは王子様の役割で、つまり僕ではない。
脇役の、僕ではないのだ。

僕は今一度、ベッドの彼女を見やり、そっと、顔を流れる髪を掻き分けた。
「………」
そうして最後の名残を断ち切って、部屋を後にしようと立ち上がる。
と、その時。

―――ぐっと手首を掴まれた。

思わずその場でたたらを踏んだ。
倒れないよう、ぎりぎりのところで持ちこたえる。
見ればウィンさんが目を閉じたまま、片手で僕の手首を掴んでいた。
ウィンさんは僕の手首を握ったままに、ころ、と仰向けに寝返り、それからそっと目を開けて。
いたずらな流し目に僕を見やると、朗らかに微笑んだ。
そうしてそのまま。しばらく見詰め合う。
彼女の口が小さく動いて、何かを呟いた。
「………――――――のに。」
僕には何て言ったのか、聞き取れなかった。

それから、
「悪い。どうやら眠ってしまっていたらしい」
彼女は僕の手を離すと。
ゆっくりと上体を起こし、片手を額に当てながらさばさばと言った。
ベッドに腰掛けた状態でウィンさんはちらっと自身の腕時計を確認、ふむと頷くと顔を上げた。

「突然、自宅に邪魔して悪かった。本当は喫茶店の方へ出向くつもりだったのだけど、今日は休みなのだろう? とはいえ、やはり連絡は入れるべきだった」
「あー、いえいえ。別にウィンさんなら何時何時だって大歓迎ですよ! 自宅でも喫茶店でも、お客さんとして誠心誠意尽くしまして、もてなしますとも。というわけで、今、お茶でも入れますね! クッキーでも有ればいいんですけど」
なんとなく決まりが悪かったので、お茶を口実にキッチンに向かおうと画策する。

「そこまで言われると、なんだか恐縮してしまうな。だけど。今日はもう帰るよ。ちょっと用があって、ね、元々長居はできない事を承知で来たんだ」
「え? わー、それはちょっと残念というか」
肩透かしもいいところ。
「まったくだ。結局、昼寝してさよならとは。存外、抜けていると思うよ。」
そんな軽口を叩きつつ、ウィンさんはベッドより立ち上がって、そのまま玄関へ直行した。

しかし。
何か、見落としていませんか?って、あ!
「ウィンさん!」
頭を捻って、さっそく違和感の元に気付いた僕は、その内容も相まって思わず。
ブーツに足を通しているウィンさんに向って声を掛けた。
「ん?何か?」
ウィンさんは背中を向けたまま、靴紐を結びながら平静と答えて、その温度差に不覚にもたじろいでしまった僕は、

「その、えっと、――お、送ります!」
と。見当違いの言葉。
「う、ん。それは、悪く、ないな」
依然背中を向けたままで、履き終えたブーツの爪先をトントンと床に打ちながらウィンさんはそう肯定し、
「では行こうか」
翻って僕に促した。そんなウィンさんになんとなく嬉しくなった自分がいた。
だから、先の違和感についてはスルーする事にした。気付かなかった事にした。
別にわざわざ聞く事でもないだろう。

果たして、ウィンさんが一体いつから目を覚ましていたのか。
ソファーで寝ていたウィンさん。
僕の部屋で目を開けたウィンさん。
寝ていた部屋が起きると変わっているという奇怪な、ウィンさんみたいな美人さんにとっては、ある意味とっても危機的状況下で、当のウィンさんがその事に関して少しも言及しなかったのは、きっと、彼女の持ち前の状況把握&処理能力の高さに起因するものなのだろう。
僕は小さくうなずいて、既に玄関から廊下に出たウィンさんを追いかけ玄関を飛び出て三歩。進んで、ふと思い出して二歩下がり、玄関に鍵を掛けた。

外はちょっとだけ肌寒かった。

     /

―――そんな、ちょっとだけ肌寒い街中を僕らは二人、駅へと向けて歩いている。

歩く。

歩こう、と、そう提案したのはウィンさんであった。
そんな気分だから、と簡素な言い訳を耳にする。

断る理由はゼロである。二つ返事で了承した。
もとより歩くのは嫌いではない僕であった。

そんなわけで、ぶらり最寄駅への旅はとりとめなく。緩やかに流れた。何もかもが。
例えて。後ろの風景とか、彼女の髪とか、頭上の雲とか、周囲の空気とか。
全部がゆっくり。
遠く輝く西の太陽も、あるいは、この時間だって、緩やかだったかも知れない。

徒然なる会話をとうとう紡いで、付かず離れず、揃わぬ肩と、割当たらない歩幅と、揺れる加速度と、英雄(リンクス)と凡人。
並んで歩く僕ら二人はどこまでもちぐはぐであった。
ただ、それでも行く先は同じだから、共に同じ方を向いて、前を向いて歩いた。

歩いて、そうして、駅へと続く道程も終盤に差し掛かった頃、車通りの少ない間道に掛かった歩道橋の上。
そのちょうど真ん中で、黄昏に地へと潜りかける太陽を眺めながら。
僕たちは足を止めた。

ふと。
「夕日が。とても綺麗。」
欄干に手を置き、街を見詰め、その向こうの夕日に照らされながら。
ウィンさんが呟く。

ひと頻りここまで続けた他愛も無い話の流れは、彼女のなんとも美しい呟きによって断ち切れた。
「あなたには、幸せになって欲しいんだよ。」
なんて、至極真面目な顔で。そんな事をウィンさんは言った。
真面目ではあったが、その頬は緩かった。

空気は軽く、オレンジ色をして。そこに響いた彼女の声は、凛と、涼やかだった。
「――ああ、なんだか、随分と遠くに来た気がする」
と続けてウィンさんは言った。
それは単純に僕の家から離れている、という意味ではもちろん無い。

「あれから、そう何年も過ぎたというわけでもないのに。存外、壮観だね」
ウィンさんは欄干にもたれて。
「ねえ、最近、よく想う事があるのだけど。聞いてくれる?」
彼女の流し目に、僕は無言のままに頷いた。

再び視線を外して。片足をゆらゆらと、どこか落ち着きなく。
彼女の口が、ゆっくりと、開く。
「私は。私はね、あなたの知っている通り、この通りの人間だから、こうある事が私なんだっていう、“芯”は曲げられない。絶対に、曲げない。
でもさ。そうして選んだ私の道が、果たして本当に“良い事“なのか、それとも“悪い事”なのか。私は判断できなかったんだ。
善と悪の所在を求めるなんて、端から答えの出ない話だけれど。私は、戦うには相応の矜持が必要だから。
だから、考えるよ。
自分が戦うに足る誇りを得るために。いつも。“みんな”の最善を求めて。
―――そして、終った後も、考えてしまうんだ。
後悔にも似た“IF”の事。
それは、あのクラニアムの一件だってそう。
本当はORCAがやろうとしていた事こそが、真に未来に繋がる道だったのではないか、とか。
私はただその希望の芽を摘んでしまっただけだったのではないか、とか。
やっぱり考えてしまうんだ。
もう、過ぎた話だけれど。
いつだって十全に考えているつもりだけれど、終った時、必ず、これで本当に良かったのかって、不安になる。」

太陽が赤く彼女の横顔を色付ける。流れる髪がその表情をひた隠し。僕からは何も見てとれない。
ただ漠然とした切なさがそこにはあった。そう僕は感じていた。
僕は彼女に見蕩れていた。

不安。
嫌いな言葉。

ウィンさんは続けた。
「でも、わかったんだよ。
今回の、私にとっても、世界にとっても、誰にとってもとてもとても大きな事に関わったそれは、決して間違いじゃなかった。
いいや、間違えてはいた。うわべはね。……えっと。なんだか、おかしな事を言っているね。」
ウィンさんはくすりと小さく笑みをこぼして、
「あのね、あの時の私は、ただ目の前の虐殺が容認できなくて、上に立つ人の矮小さに呆れ果てて、無意識の内に自暴自棄になって、存外、世界の事がどうでもよくなっていたんだよ。
戦って戦って、いつかきっと平和になるからって。そんな子供の頃の夢さえ忘れていたんだ。
そりゃ、やられてもいいなんて、少しも考えていなかったけれど、必ず勝つという意識は欠けていたと思う。
人類なんて、どこにもいない。
その言葉に、私はある種の諦観を込めていたのだと思う。
まるで、もう世界に未来なんて無いような、そんな勘違いをしていたと思うんだ。」

それは間違った想い、と頷くように小さく反復して、ウィンさんは続けた。
「あれから、色々考えたよ。
ずっと、長く、時間をかけて、考えた。
あの時、企業の頭取たちがORCAから手を引けと言って、それに私は憤ったけれど、これは本当に彼ら自身の保身にのみ括って出した答えなんだろうかって、ふと思った。
軋轢、摩擦、紛争。企業間も企業内でも、どこにだって火種はある。
あの時代って言うのは、小さな戦争を幾重も重ねた、大きな戦争の上にやっと成り立つ、それはそれは繊細なバランスで成り立っていたから。

ある日、とある企業のトップが突然死んだとする。はたしてどうなるだろうね?
空いたポストを競う派閥争いや、その隙を狙って敵対企業の猛攻だってあるかもしれない。
そして、企業の庇護下で暮らす人々の生活だって脅かされるだろう。全滅だってありえるかもしれない。

それはあの企業のように、あるいは、あのコロニーのように、なってしまうかもしれない。
であるならば、犠牲を払ってでもバランスを崩すわけにはいかない、と、そんな答えが出たとして、ORCAの提案はどう映るだろう?
指揮者っていう存在は、何より死んではダメなんだ。生きていることが大前提で。生きて指揮をとってこそ、価値がある。
死んでも任務を遂げなきゃならない私たちとは、そもそも役が違うんだ。
ORCAの存在は危険極まりないが、考えなしに討伐を仕掛けて、配下のネクストを失えば、やはりバランスは崩れてしまう。

攻める事も、守る事も、盤石とは程遠いギャンブルで、結局、手詰まりだ。
だからORCAから手を引くと言う方法は、実はとても正しい、―――――の、かもしれない。
ORCAもORCAで義があった。そこに信を置く価値は、やはりあったろう。
たとえそれでクレイドルが一機落ちても、二機落ちても、それで四千万ほど死んでも、犠牲者に“指揮者”が含まれていないのなら、企業は崩れず、社会は安泰。世界は回るよ。滞りなくね。
億の人間はそのまま。
世界は何も変わらない。

難しいね。
“言葉を飾るつもりは無い。ORCAから手を引け。”
なんだか、自分がひどく無力に思えたよ。滑稽に思えたよ。
かけ離れた立ち位置。隔絶された立場。知り得ない思想。語られない根本。ただの駒。
それを、誰も教えてなんてくれないから。

―――ああ、本当に、難しい。」

大きく溜息。後、ウィンさんは続けた。
「でもね。わかった事があるんだ。
それは闘いの中にいた当時の私には出せなかった答え。気付けなかった答えだよ。
随分と掛かったけれど、やっと得られた、私はこれを正解だと決めた。」

口を噤んで、一瞬の間。
依然として街の方を向いたまま。
相も変わらず僕にはその表情も見せることなく粛々と、ウィンさんは言った。

「私は救いたかったんだ。」

ぽつりぽつり、と、少しづつ。
ウィンさんは一生懸命、心を言葉にしているように僕には思えた。

「私は君を救いたかった。
私はセレンを救いたかった。
私は私のオペレータ、整備士、友達、知り合い、そんなみんなと、みんなの家族。そしてそのまたみんなの繋がる誰かを救いたかった。

私はただ、みんなを救いたかっただけなんだ。
それをしっかりと思い出したんだ。

人類が、どうとか。
ヒトを種としてどうとか。
そんな台詞、人を見下してなきゃ言えないと思う。

私はみんなと肩を並べたままでいい。
人類なんていらない。
人類なんていない。

ひとり、ひとりの。みんながいるだけ。
たくさんの、みんながいるだけ。
人は、誰か個人が見下げる程、弱くなんてないから。
世界は落ちぶれてなんていないから。
世界はちゃんと、いい方向に進んでいたんだよ。
人。ひとりひとりが、みんな、ちゃんと考えていたんだよ。
私は。
私は今やっと、ようやく、初めて、自分のしてきた事が間違ってなかったって、そう胸を張れる。
あの戦いも、あの戦いも、あの戦いも、全部、無駄じゃなかったって。
この街を見て、そう思った。この街に生きるみんなを見て、君を見て、そう思ったんだ。」

それから、ウィンさんはゆっくり向き直ると。

「―――ありがとう。あの時付いて来てくれて。」

声が震えているように感じた。もしかすると泣いているのかも知れない。涙は見えないけれど。
そして、もし彼女が泣いていたとしても、その涙はきっとプラスのエネルギーが無限大に溢れているに違いない。

無性に、抱きしめてあげたいと思った。否、抱きしめたいと思った。
ぎゅっと。その、か細く美しい肢体を、ぎゅうっと。力任せにでも。

けれど当然そんな事はしなかった。
僕はただ俯いただけ。
「ぼく、は」
そんな、感謝の言葉なんて。相応しくない。なにより―――
「ううん。付いてきてくれただけで嬉しかったんだ。私は、きっと心細かったんだと思う。
存外、寂しがり屋なのかもね。かっこの悪い話だけど。」

やめてくれ。
なにより、それは。
「――それは、僕じゃなくても言える事です。僕じゃなくて、例えば別のリンクスでも、成り立つ話です。
だから、そんなに感謝しないでください」
僕である必要は無かった。
足を引っ張ったつもりはないし、それ相応の働きはしたつもりだけれど、それ相応以上の働きはしていないから、それは既に報酬として清算されている。

以上でも以下でもない、平々凡々に僕はこなした。
それまで企業から受け続けた依頼と何ら変わりのないものだった。
世界のこれから?善悪の所在?―――そんなの知らない。
ただ依頼されたから、受けた。それだけ。当時の僕は、本当にそれだけだったんだ。
連戦連勝の奢りで、力をひけらかしたくなる自分がいて、飾らない言葉に心打たれたわけも無く、指先でぽんッとクリック。カーソルはYesの上。

普通だった。至極、普通だった。特別ではない。
強いて理由を挙げるなら“他に依頼が無かった”から、それだけの事である。
そして、僕と同等以上の力を持つリンクスは他にもいる。
自惚れは、既に紫閃の一刀に消えている。

僕は今、目の前にいる彼女や、あるいは、あの白いカラスのような、ある種のカリスマ、そういった突きぬけたものを持っていない。
だから単にアレは、ある一定水準のリンクス群から無作為に僕が選ばれただけ。ただそれだけの事。
僕が真に求められたわけじゃなかった。
偶然だ。
だから感謝なんていらない。
そこに貸し借りはない。それがあるいは、僕にとって。

僕にとって。

「そうね。確かに、あなたで無ければ絶対にダメだった、という事ではないのかもしれない。
でも、そうだとしても、あの時あの場所にいたのは、いてくれたのは、紛れもなくあなたでしょう?
曲げないよ。あなたが受け取らなくても、私はあなたに感謝を贈る。
“ありがとう。あの時、傍にいてくれて”」
一歩近づき、彼女は言う。まっすぐ僕の目を見て。
そんな彼女に気圧され、確固悪く、一歩下がる僕である。
まっすぐだ。存外も存外、僕が思っていたその思念の頭上高くを軽々と飛び越えて、彼女はまっすぐだった。
そして強く。僕は弱い。

ウィン・D・ファンションは立ち止まらない。
「私が今も自分を通していけるのは、」
言いながら両手をめいっぱい広げて、
「この街と、―――」
天を仰ぐように大きく深呼吸を一つ、のち、
「あなたのおかげ」
そんな告白をした。
どこまでも素直に、どこまでも澄み渡った、なんて綺麗な瞳、なんて素敵な表情。
優しい空気にひたすら酔っぱらって、―――吐きそうだ。

数秒、だんまりと間を置いてクールダウン。
僕らは、どちらともなく目を切ると。
「だから、あなたには幸せになって欲しい。」
それが願いだとウィンさんは呟いた。
「元リンクスでも、ネクストが無くっても、幸せになれるって、そういう希望のような未来を見たいよ。これは私のわがまま。
でも、そうすればさ、この先もっともっと世界が平和になって、今のような抑止としてすらネクストが必要では無くなった時、現リンクス(わたしたち)の指針になるでしょう?」

僕は、押し黙ったままである。
「一応、これでも応援のつもりなのだけど。―――ねぇ、届いてる?」
もちろん、届いていますとも。それはそれは深くまで。ずぶずぶ。痛いほど。だけど。
「……よく、わかんないです。」
そう言って、はぐらかす。

ただ届いてますと、頑張りますと、そう言えば済んだのに、とてもそうは言えなかった。
そう言おうとすると、別の何かが溢れそうで、苦しかった。
それはきっと、ウィンさんの話が“未来”を向いていたからだ。
“今”ではなく、次の未来を見据えていたから、堪らなくなったんだ。

どっと不安が押し寄せてきた。
なぜか孤独を感じ、寂しくて。寒い。
自分の中に歪みを感じる。
どうあっても至らない自分の、程度の低さを恥じては、心根とは裏腹に答えてしまう、どこまでもあまのじゃくな自分。
その反応は、まるでこども。

「ま、いいさ。今はそれでも。
これから先、人生は長いから。ゆっくり考えるのも、存外悪い事ではないよ。」
切った張ったの生き死にはとうに前時代の枠組みで、突発的に死が訪れるなんて事は今ではほとんどありえなく、であれば確かに過去に比べて今は時間に溢れていると言えるだろう。
特に僕は、リンクスですらないのだから。

果たして。
これから先、僕の人生は一体全体どうなって行くのだろうか?
その問いには、もちろん答えを出せなくて、ただ霧霞む白色の中を漂うが如く、無為無能に、てくてくてくてく、歩いていく。
手の中のコンパスがぐるぐる回る。
迷い惑い巡る旅路の目的地は、確かにあったはずなのだけど。行く先は見えず、行く末も見えない。

今は見えない。
今はもう、見えない。

ウィンさんは言った。
「人は、変われるんだよ。
 ―――いつだって、人は変われる。」
軋む。ギシギシという音。胸の奥、肉体じゃない何かが軋んでいる。
「なんだか、妙に説教臭くなってしまったかな。よく言われるんだ。“ウィンディは堅っ苦しい”だとさ。
嫌だな、そんなイメージは払拭したいのだけどね。」
と彼女は言って仄かに笑った。そこに堅苦しさは微塵も無かった。

彼女は、変わってきている。もちろん良い方向にだ。
彼女だけじゃない、みんな。
エイもメイも王もリリウムもダンも、かつてのみんなも。
みんなみんな、次のステージに進んでいる。
みんな、素敵に変化しているんだ。

それは僕だって、そうだろう。
変わった。
変わったはずだ。
変わった、はずだよね?
うん。
いや。
あれ。
でも。

―――僕は本当に、変われて、いるのだろうか?
もしかして僕だけは、いつか停滞したそのままなんじゃないだろうか?
うわべだけ、見た目だけ、身を置く環境の変化だけで取り繕っていないだろうか?
僕自身、真に変われているのだろうか?

心の中にわだかまり。置いてけぼりのそんなイメージ。
それは勝手な僕の被虐的八つ当たりに過ぎず、
僕は立ち尽くした。

―――人は変われる。
彼女の言葉を噛みしめて、なぜか込み上げる涙をこらえるのに歯を食いしばる。
そしてそのまま、無言のまま二人で並んで街を眺めた。
彼女の守るこの街の夕暮は、確かに壮観だった。今まで気にも留めていなかったけれど。

嗚呼、太陽が沈んでいく。
ゆっくりと、既に半分以上。
レモネードに浮かぶ檸檬、サンドウィッチに挟むトマト、サラダに添えるオレンジ。
気が付くと僕は、太陽の欠片にありふれた日常を連想していた。
この眺望、彼女と眺めたそれを、この先の僕は、きっと、―――きっと、忘れないだろう。

     ◇

そうして、街には夜が近づいて、いつまでも眺めているわけにいかない僕ら二人にも、静々と別れの時がやってきた。
別れの時だなんて、少々大袈裟な表現だけど。
それを切り出したのは、やはりウィンさんだった。
「ここで別れよう。」と、早速。
「でも、駅はすぐそこですし、せっかくだから」
答えて僕はそう喰い下がる。
「ううん。いいんだ。あなたは自分の日常に帰りなさい。ここまでで十分―――」
“十分、楽しかった”と彼女はそこで言葉を切って、大きく伸びをした。

それから彼女は、なんの後腐れも無く僕に背を向けて「またね」と、月並みに手を振った。
僕はその背に向かって、彼女が見ていない事は重々分かっていたけれど、それでも大きく手を振った。
それから声も張り上げた。「はい、また。また会いましょう」と、別れの挨拶。

しばらくして、彼女の姿が見えなくなる。
僕は一人空を見上げた。
色は濃紺。
日は沈んでいた。

    /

そうして。
やおら家に帰って来た僕は、鍵穴に鍵を突っ込んで半回転。
再びのスカスカな手ごたえに首を傾げた。

ていうか、今回は鍵をちゃんと掛けて出てきた記憶がある。
むう、今度こそ本当に空き巣かもわからん。と、なげやりにドアを開ける、と。そこにあったのは見知ったパンプス。

――なんだ。
なーんだ。そうか、帰ってきてたんだ。
少しだけ、不安が薄れて。温かみを思い出す。

いつもより幾分早い時間帯だけど、そんな事はもうどうでもよかった。
「ただいまー」
と、一声。ずかずかと家の奥へ。
「夕飯、今から作りますね!それとも―――」
リビングに到着する。
「それともお風呂の準備、先しましょ……っとと」
到着して、あたりを見回して、机の上に酒瓶が所狭しと並んでいるのを横目に、僕は口を噤んだ。

セレンさんがソファーで寝ていたからだ。
ただし、隅で丸くなるなんて可愛らしい事も無く、背もたれに片手をもたげて、そりゃあもう堂々と寝ていらっしゃった。
不用意に垂れる髪が艶っぽく、三つ目のボタンまで開けられたシャツのはだけ具合がとてもセクシー。
そのまま寝かせておいてあげようかとも思ったが、なんとなく気の迷いで僕は、
「セレン、さん」
そっと、彼女のほっぺたに、チューをした。

     ◇

それからの事。
「―――なんだ、帰ってきてたのか。」
ふと、目を覚ましたセレンさんはあたりをきょろきょろ見回して、
「あー、ところでウィンディ見なかったか? 今日は早めに仕事が終わって。夕方帰って来た時に家の前で会ったんだよ。
確かメイ・グリンフィールドのおかげで久々に休暇が取れたとかなんとかで、今日は夜通し飲もうと話していたところだったんだが」
セレンさんの言葉と、ウィンさんの行動の矛盾にピクつく僕。
「まじですか?」
「ああ、マジだ。それで彼女に留守番頼んで、私は酒買いに行って、それから、ええと―――」
なるほど。机上の酒瓶はそういうわけか。

ま、色々疑問は残るけれど、僕がすべきことはそれらを何かと推測する事なんかじゃなくって。
「つきあいますよ、僕でよければ」
今夜だけでなく、それは、いつだって、僕は。
「ん。とーぜん」
セレンさんはそう小さく答えて、机の上の空のグラスを突き出したのだった。

今を楽しむ。
今だけ楽しむ。
全部忘れて。今だけ。
いつか来る終わりの日。

―――お願いだから。今だけはどうか、許して下さい。


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