Written by へっぽこ


一面の花畑。
その只中に、少年は一人佇んでいました。
時折吹く気持ちのいい風が、ふわり巻き上げる幾千の花びらに、
少年はわぁと年相応の歓声を上げながら、始終笑顔ではしゃぎ走り回るのです。

その光景は傍目に、とてもさわやかで、微笑ましく思えるのですが、
ふと。
少年の足元、無残にも踏み潰されゆく花たちに、
誰も、
目もくれなければ、思いを馳せることもない、
          ―――というは、残酷なことなのでしょうか

     /

「私のせいだ」
目を開いて、最初の行動。
息をするより早く、口をついて出たのはそんな自虐の言であった

ほとんど無意識のうちに、呟いてしまうそれに当てはなく、ただただ中空を漂うクラゲのような言葉と、発言しておきながらもっぱら上の空な私は、ベッドの脇に備え付けの簡素な椅子に座している。
白壁と電子音の響く、ここは病院。

病院は嫌いだ。
清潔すぎて、清廉すぎて。その癖、死の空気が存分に漂って、そのどこか宗教めいた雰囲気が気色悪い。
まるで、黒炭の粒に石灰をまぶして真珠を装うがごとく。
そこに居るだけで自分の存在がひたすら浮いていくような感覚。ひたすら薄れていくようなイキ苦しさがそこにはあった。
居心地が悪い。心からそう思う。
空気不足の水槽で喘ぐ魚の気持ちが分かった気がした。
ふと過去、記憶に浸れば死ばかりが蠢いて、カサカサと気味が悪く。ふと未来――…は、想像するだけ野暮である。
やれやれとばかりに溜息を一つ。下を向きっぱなしだった自身の顔を持ち上げて前のめりに、膝の上に肘をおいて頬杖。
自然、視線はベッドの上のあいつを捉えた。

まだ、目覚めない。もう、目覚める事もないのかもしれない。
内臓をやられるほどの重症は、けれど発見が早期であったことが幸いし、大事には至らなかった。意識無く運ばれ手術室へと直行するも応急手術は成功だった。
発見当初こそ出血がひどく、そのせいかある種の窒息に近い状態であったそうだが、スキャンの結果では脳機能への直接的ダメージは見られないそうで。

だから、エイには感謝してるんだ。
彼女がいなければ、きっと今頃は墓の中か、植物状態のどちらかだった。
そういうわけで、不幸中の幸いで、喜ばしいことが続いたわけだけれど、私の心は浮かばれない。ちっとも。
肉体の死も、脳の死も免れたけれど、まるで喜べないのである。
それはだって、異状が見つかったから。
深い傷が、やはりあったから。精神が傷ついてしまっていたから、喜べない。
あいつはまだ目覚めない、という結果がすべてであった。

肉体が傷つけば人は死ぬ。
それはとても物質的な話で、当然の事柄で、二昔前、死とはすなわち心臓が止まることであった。
それから医学が進んで、一昔前、脳死、なんていう新しい死が誕生した。機械を廻す限り死にはしないが、機能的に壊れているのは確かである。
そうして、それから更に更に医学が進んで進んで、今現在、脳死に次ぐ新しい死が生まれつつあるとか、ないとか。

死が生まれる。いやな表現だこと。
現在もっぱら論争中の第三の死。それは有体に精神、俗な言い方をするならば魂の死。
未だ医学界においても明確な区分はできていない段階ではあるが、現状マインドスキャンと呼ばれる検査に応じて行われる五段階評価の、結果あいつは最低のEランク。
医者は優しく言いました。
〝目覚める確率は0に等しい。それでもあなたは待ちますか? それとも楽にしてあげますか? どうぞあなたがお選び下さい〟
楽にする、という表現がひどく心に刺さった。
そして。
―――思い返すのである。
思い返して、また思い返して、もっと思い返して、そしてまた呟いた。
「私のせいだ」
矛先は自分を向いている。もう何度目かの自傷行為。体も心も虚ろであった。

「そうじゃないだろう」
呟きに答えた者がいた。ウィン・D・ファンション。
凛として芯強く、私の嘆きをかき消すがごとく、彼女は私を否定する。

―――ああ、失念していた。
ウィンがいることを、私は忘れていた。
それはついさっき、だったと思う。メイと入れ違えでやってきたのだっけ。
ちらと見れば入口付近の壁に背中を預けて腕組みするウィンがいた。どうみても私のお目付け役。面倒臭いと私は思った。
まったく、メイのヤツ、余計な気を回しやがって、あいつはいつも他人の世話を焼いてばかりうざいんだ。……なんて。なんて情けない。

そして、ウィンにたとえ否定されても、私の口は止まらない。正直、吐きださなきゃ、吐きそうだった。
見苦しいったらないけれど、見栄を張る事も、カッコつける事も、今じゃ無意味で、そもそもそんな余裕はなかった。どこにも。
「私のせいなんだ。全部……」
チッと舌打ちをされる。
耐えかねてウィンが口を挟む。露骨に。心なしか荒い声。イラついているようである。
「なあ。誰のせいでもないだろう。私たちなら、みんな、ありえる事だろう。――運が悪かったんだ。あいつは」
運が悪かった。は、笑えないね。本当。

そりゃあ、ね。そうなのだろうさ。ウィンの言うとおり、運がなかっただけだろうさ。突き詰めればね。
けれど、今回のフィジカルな復讐劇は些細なきっかけに過ぎないんだ。目覚めない理由はほかにあるんだよ。
深くて太い、積み重ねの産物。
結局。
この状況って言うのは、遅かれ早かれ訪れていたことなんだ。だから。
「あのねウィン。これはやっぱり、私のせいなんだよ」
何でかって言うと、それはやっぱり私が浮かれていたせいで、私が自分しか見ていなかったせいで、あいつを見つけることができなかったせいで、だから、私のせいだって、思うんだ。
「もう!」
と、ウィンは吐き捨てた。
その腕組みした二の腕を掴む指に力がこもって、ジャケットの袖にはぎゅっと皺がよっていた。

「あんたがそんなでどうするんだよ! まだ死んだわけじゃないだろう!」
指を差す先、死んだように―――『死んだように』眠る、あいつ。
……あ。そっか。ウィンも。傷ついているんだね。
コイツのこんな姿に。平常心じゃない。だから、早合点して、的外れな事を言う。
と言ってもそれは半ば仕方のないことだった。彼女はスキャンの結果を知らないのだ。
私はふうと溜息を吐いて、天井の蛍光灯をぼんやり眺めた。ウィンは続けた。
「そいつはまだ生きてる。呼吸してる。心臓だって動いてるじゃないか」
そして、
「目を覚まさないと決まった訳じゃ―――」
「病気だったんだ」
私は彼女を遮った。

「は?」
鳩が豆鉄砲を食らう顔。リンクスがレイヴンに射突兵器を食らう顔、とか。なんにしても、彼女にしては珍しい滑稽さであった。
私が言っているのはね、ウィン。件の殺傷事件の事じゃあないんだよ。
「お前が来る前だよ。ちょうどメイが席を外していた時かな。スキャンの結果を聞いたんだ。……第一、二種ともに問題は認められなかったよ。つまり機能上は、いたって健康なんだ。けどね。第三種は違ったんだ。――病気だった。それはつまり、“心”のね」
ウィンは何も言ってこなかった。
「パターンが一致した。抽出したここ数日の“履歴”から見ても明らからしい。心的外傷後ストレス障害。PTSD、だったんだよ。あいつ」
私は、独り言のように淡々と呟いた。ウィンはもう何も言わなかった。
きっとウィンにも思い当たる節があったのだろう。存外、勘のいい子だからね。彼女は。
「きっかけは刺された事だが、その外傷はこの状況には直接関係ないんだ。目覚めないのは丸々精神の問題、というのが医者の見解」

肉に刺し込んだ刃は問題ではなかった。見ず知らずの女は何より心をえぐっていった。
傷だらけの心に、まさしくとどめを刺したのだ。
刺した女について、調べはすぐについた。
彼女の所持品からは社員証と写真が一枚見つかった。そして薬指には指輪。さらにサイズ違いの指輪を首にも下げていた。
ヒントはそれだけで十分だった。

―――いったい何を言われたのだろうか。
ふと、考えた。
同時に、頭の中に影がさす。第三の死の定義。
怖いのは、私の目の届かないところで、いったいどれだけ苦しんでいたのかということ。
それから、今も、こうしてベッドに横たわるその裏側で、苦しんでいるかもしれないということ。
体の異常ではなく、心の異常。戻らない意識。
今、あいつはどこにいるのだろうか。夢でも見ているのだろうか。
それは悪夢なのだろうか。辛いのだろうか。痛いのだろうか。苦しいのだろうか。
ぐるぐる巡る思考はまるでドリルみたいに、回れば回るほど、がりがりと削りながら、深く深く潜っていく。
カツンとドリルの刃が何かに当たる。掘り起こされたのは医者の言葉だった。
“待ちますか? 楽にしてあげますか?”
たぶんそれは究極の選択。とても堅く、とても重い。

思えば。
もう、三日、私はあいつの声を聞いていない。
いや、まだ三日、ということになるのだろうか。そのうち三週間とか、三ヶ月とか、三年とか―――いやだ。そんなのは嫌だ。

私は頭を左右に振った。鈍く頭が痛んだ。
意識がぼうっとして、体は重く、腕を持ち上げる事すら億劫だった。けれど、口だけは軽かった。
「あいつは。 あいつはずっと無理してた。それは無自覚なのかもしれないけれど、つとめて明るく、笑顔の仮面をかぶって、自分自身ギリギリだったのに」
本当は全てを遠ざけたかったんだと思う。みんなの事は好きだけど、連絡は取らない。
会いたいけど、会いたくない。
その矛盾は、会ってしまえば少なからず思い出してしまうから、なのではないだろうか。
だとしたら、隣にいた私はどうなる?
「……私のため、なのかな。私を想って、くれて。」
なんていうのは自惚れかもしれない。

いや本当は、誰のためでもなくって、自分自身のため、ただ気付いて欲しかっただけなのかもしれない。助けてほしかっただけなのかもしれない。私に。
だって。だって私は、
「―――私は、それに気付いてやれる、唯一の人間だった。最初から最後まで、あいつの一番近くに居て、見て触れて話して抱いた。けれど、あいつは優しいから。その優しさ、私はそればっかりに目が眩んで、何も見えていなかった。節穴だった」
愛はあった。ように、思うのだけど、あいつの外側しか、自分の内側しか、見えていなかった私には、それが確固たるものだったかどうかなんて、もはや分からなく、分からなく、視線の先の、白いベッドに横たわる存在はただただ静かで、とてもちっぽけで、こんな存在に私は、あるいは世界が、依存していたのかと思うと、どれだけ世界というものの基盤が小さくて、脆いのかという現実に逝きあたって、何もかもが今にも崩れそうで、押しつぶされそうで、怖くなって。
それから、――心細くなった。

そうして、寂しくなって、愛おしくなって、手を伸ばして、頬を撫でて、髪の毛を触って。
いつの間にか混じっていた白髪が目について、「なんで、気付けなかったんだろう」と声を震わし、鼻をぐずらす。
眠り続ける彼を前に、私は見ている事しか出来ない。待つ、ことしか、出来ない、のだろうか。

「……いつ、から、苦しんで、いた、のか、それすら――分からないんだ」
言葉が上手く形にならない。
いつの間にか隣にきていたウィンが静かに私の肩に手を置いて、それからハンカチを差し出した。
そして気付く。

私は泣いていた。

     /

死の間際に、人は一生の記憶を、まるで走馬灯のように見るものらしい。
ほんの一瞬か、あるいは、時間をかけて、己の人生を振り返るのだ。
それはきっと、神様からの最後の問いかけなのだろうと思う。
“あなたの人生は、―――果たして良いものでありましたか?”

さあ。
それでは、裁判の始まりです。

     /

キーンコーンカーン、と、鐘の音を聞く。その音には、どこか漠然とした郷愁があった。
休み時間中、もっぱら廊下でくだらない雑談にかまける僕らであったが、鳴り響くやすい鐘の音にほだされて解散の運び。
僕はのんべんだらり、教室へと足を向けた。

思うに、学校って言う枠組みはちょっとおかしい。
既存のタイムスケジュールを生徒にひたすら押し付けて、鐘の音で支配する。
そこでは大概の自由意志は無視されて、クラスで足並みをそろえることを義務付けられるのだ。
時折、反骨精神旺盛な生徒会連中が、何かしら問題を起こしたりはするけれど、それは内輪な自治に過ぎなくて、鶴の一声ならぬ校長の一声で、懲罰房は野良犬の檻と化すのである。
とどのつまり牢獄と大差ない。
本当、学校ってとっても窮屈で、制約多い場所なんだ。

―――けれど。
けれど楽しかった。
学校は、僕にとって本当に本当に楽しいところであったんだ。
古き良き懐かしき我が学園生活。とか。
大人になったらそうやって、かつてにあった異常な日常を、やはり今日という日常を、ひたすら、懐古するようになるのだろうか。
昔はよかった、なんて、言うつもりは無いけれど、今を生きるって、結構しんどいんだよね。
あるいは“しんどかった”と言うのが本当だろうか。

ここは、学校である。

僕は誰もいない階段の踊り場の、そこに設置された大きい姿身に自身を写して、そして呟く。
「お前はもう死んでいる」
まるで実感の無い、どこにも響かない言葉であった。
けれど。
瞬間、腹部に赤い染みを見た、―――気がした。左手の薬指がきゅうと締め付けられる感覚。
だからどうした、と一蹴する。何も関係はない。どうにもならない。ここは当に、物語の向こう側なのだから。
「おーい、何やってんだ。チャイム鳴ってんだぜ。早く教室へ行こう」
階下からお声がかかる。顔無き友人Aである。

顔が無い、というのはちょっと語弊があるかもしれない。
もう少し適切に言及するなら、それはまるで真新しい五次元目の空間(レイヤ)において、クレヨンでぐしゃぐしゃと無理矢理に塗りつぶされたかのように、雑なフィルタがかかってる。
とにかく、このとおり友人Aに顔は無く、しかもそれは何もこいつに限った話ではなく、この学校にいる誰もがそうであるようで、誰の顔もそこには無く、上塗りされて臨めなく、今のところ会ったやつは例外なく、僕は、ここで確かに一人ではないというのに、どこか孤独を感じているのである。

それはとても不思議な感覚なのだけど、不思議なことに、不思議だと思えず、認識はひどくゆるい。
火の燈るろうそくの、溶けたロウがたらり滴るように、とても緩やかな思考回路。
きっと頭のねじが緩んでいるんだ。
元リンクスの僕からすれば、言いえて妙なたとえに思えた。
ばらばらに分解する日もそう遠くはないのだろう。
腕が崩れて、足がありえない方向にぐにゃり曲がって、間接の歯車がくわんくわんと蛇行して、体中から溢れたネジとボルトが弾けてキンキンと床を叩いて、体が落ちる頃にはぼよよんとバネ動力で首が飛ぶ。
くすくすと笑う。
頭に浮かんだその光景があまりに滑稽だったからだ。
まるで紐がぷっつり切れた操り人形。
自立はもう臨めない。

翻って、僕は階下から上を見上げる友人に、悪い悪いと片手をひらひら、「立ちくらみが~」となまくらな言い訳を口にして、それから友人に肩を並べた。
ふと、“みんな”は今頃何をしているのだろうかと疑問が湧いた。
きっと、“みんな”頑張って生きているのだろうと答えを出した。
ちょっと、淋しくなった。でも、それは僕のエゴに他ならない。
知っているんだ。そんなこと。
それでも―――。
ともかく―――。
ていうか―――。
まあ―――。
そうしている間に教室へ。
めぐる思考下で徒歩二十秒に及ぶ短絡は、教室の引き戸を開けたところで終了のお知らせ。

がらり。
その音にクラスメイトは一斉に僕に注目し、のち、先生ではないと確認した彼らの視線は四方八方、散っていった。
それはほんの一瞬の出来事で、三十を超す注目を一身に受ける中、僕はというと窓際のとある少女に意識を取られていた。

長めの黒髪にまぎれる横顔。机に気だるげ頬杖をつく彼女は、少なくとも通常教室を見渡して目に留まることはおよそないであろういでたち。落ち着いていると言えば聞こえはいいが、その実ただ地味である。
だのに僕を惹きつけたのは、皆が僕に注視する中一人、我関せずと窓の外を眺める彼女が逆に目立っていたからだった。
斜め向こうを向く彼女の顔は見えなくて、それがもしかしたらっていう思いを僕に植えつけた。
もしかしたら、彼女は―――。

ふいに彼女がこちらを向く。と同時に僕は視線を外した。彼女の顔を確認する前にだ。
別に期待なんてしていない。が、希望くらいは残したい。
彼女の顔だけは見えるかもしれない。そんな希望。
……もしかして僕、怯えている?
知らぬ間に、冷や汗がつーと頬を流れた。

彼女から視線を外した僕は、とりあえず平静を装って、自身の席へと向かいながら、教室内を一望する。
どいつもこいつもやはり顔は無く、ため息は駄々漏れる。
チャイムはとうに鳴り終わっていたけれど、ラッキーなことに先生はまだ来ていなかった。という事実にだけは安堵した。
ふう、と胸を撫で下ろしてゆっくりと席に着く。
隣の席であの子が大きくあくびを一つ。
くぁっとかわいらしく声を漏らして、前席のアイツはけだるげに伸びをして、だりぃと悠々呟いた。
確かに色々と、細々と、だるいと思うことは多いけれど、でも、学校は大まかに見てやっぱり楽しいところだと、楽しいところだったと、僕は思うので、それじゃ、まあ、授業いっちょ頑張りマスか、と、心の中で人知れず活を入れるのである。

その真意は暇つぶしだ。
暇は心を弄ぶから。何も考えたくない僕にとって、ふいに現れる記憶やなんかが、巡り巡って致命傷になりかねない。
だから授業に傾倒する。授業は実に簡単に時間をつぶしてくれるから。
教科書を延々読みふける。黒板を一心不乱に書き写す。
ただそうやって、機械的にチャイムをひたすら待つのだ。
学習、してないんだ。僕。

―――がらがらり。
どこか間抜けな音と共に開いた扉から、やおら先生登場。顔はやはり塗りつぶされている。
次の瞬間には委員長さんが号令を。
きりー、れー、お願いします、と三拍子。教卓についた先生と挨拶を交わして、そして授業開始である。

出席簿をトンとそろえて先生は言う。
「えー、それでは、さっそく授業を始めましょう。今日のテーマは“戦争”についてです。」
わあ。どうやら道徳の時間らしい。
「では、最初に意見を集めましょう。何でもいいです。挙手して意見を出してください」
というわけで。
僕は誰より早く、真っ先に右手を高らか挙げまして、
「おなかが痛いので保健室へ行ってきます」
と、授業を華麗にサボタージュするのだった。

     ◇

というわけで、軽く小芝居を打って教室を抜け出した僕は、休み時間とは打って変わって沈黙する校舎内を上へ上へと進んでいく。
もちろん保健室に行くつもりなんかなく、目的地は最上階の更に上。屋上である。
幸いにも鍵はかかっていなかった。油の切れた鉄の扉は、ぎぎぎとうるさく泣き喚いた。

ゆっくり開く扉の隙間から、まっさらな光が僕を覆う。
扉をくぐって、見上げた僕の視界を塗りつぶすのは、高く尊い空であった。何の変哲もない。
流れる雲を見つめながらに、一歩二歩三歩、と上を向いて歩こう。
そうしてある程度進んだところで僕は後ろにごろんと寝転がった。
背中で日に照らされ続けたコンクリートの、じんわりとした熱を感じた。
そして誰もいない屋上で大の字になり、ただひたすらに空を眺める。
空は青く、雲は白く、横切る鳥はひたすら大きく、三角形の群青色で、羽ばたかない。

そのまま、ただ怠惰に時を過ごす。
次々溢れるあれやこれやの罪憑きな思考の波間をすり抜けて、僕は意識を空へと旅立たせ、単純明快に雲海を泳ぐと、それで心を満たすのである。安らかに安らかに。
あの雲はさながらイルカで、こっちの雲はまるでヤドカリ。遠くのアレはクラゲのようだ。
―――とか、そんな具合。

《あの雲はさながらミサイルで、こっちの雲はまるでランドクラブ。遠くのアレはフェルミのようだ。》

突然のノイズ。
泡は弾けて、満ちたフリをする心の空虚さを思い知る。
急速に押し寄せるネガティブな思考と感情。
心の豊さとは、いともたやすく懸け離れていく。
バキューンと銃声、いうまでもなく幻聴だ。けれど、見えない弾丸は僕の心を打ち抜くのだった。

まったく。
どこへ行っても逃れられないのか。畜生。
「ちくしょーめー!」
誰もいない屋上で、やけになって叫ぶ。少しだけ、もやもやは晴れた気がした。
と、その時であった。
「素敵な心意気ね。反骨精神は主人公の基本だわ」
なんて、意味不明。
寝転がる僕の頭上(つまりは扉の方)から声がした。
ともかく、どうやら“誰もいない”は認識として間違っていたらしい。

唐突に現れた誰かさんは言う。
「けれど、過去を蔑ろにしてはいけないわ。ちゃんとトレースしなきゃね。昔のあなたは“真面目ちゃん”だったのでしょ? ほら、クラスメイトのために上級生に立ち向かうくらいの」
相変わらず意味が不明瞭だ。しかも演技がましい。
僕は寝転がったまま、首だけ傾げてちらっと見る。
黒髪の、大そう地味なクラスメイトの女の子。小脇に抱えたハードカバーだけは様になっていた。
幸いにも僕の体勢と、それから彼女はうつむき加減であり、更には風にたなびく彼女自身の長髪と、背にした太陽の逆光で顔はよく見えず、僕の希望的観測は未だ打ち砕かれずにいる。
「小さな誤差も、溜まったログの中では破綻を導く矛盾になるのよ。ここでの日々に、ヒビが入るわ。あなたは“ここ”が御気に召さない?」
そして僕は静かに目を閉じた。

「別に嫌いじゃないよ」
「いやだ、笑いどころだったのに。ツッコミくらい欲しいとこよね」
「日々とヒビ? ばぁか」
もしかしたらそれは彼女なりの気遣いだったのかもしれない。
けど僕は乗っからない。乾いた笑い声は響かない。潤いとは無縁に、そこに楽はなく、嘲りがのみ僕の声にはのっていた。
「つまんない駄洒落だね。それからさ。よくわかんねー小難しいことは、ノートの余白にでも書いていればいいと思うよ」
思春期にありがちの病は、内々に留めて置くのがちょうどいい。後悔は先に立たないんだからさ。

まぶた越しに感じていた光のスペクトルが遮断される。おそらく僕は今彼女の影の中にいる。
「授業サボっちゃダメ、って言ったのよ」
僕の前言、割と突き放した言い方だったと思うのだけれど、彼女はまるで意に介さず、間髪入れずに切り返し、その真意を僕にぶつけた。
「む!」
開き直りか、ふてぶてしい態度がまんま声に現れていた。あと全体的に回りくどい。この文学少女め。
「いや、サボりじゃなくて、おなかが痛かったから仕方なく―――」
「嘘つきは嫌いだわ」
言い終わる前に遮られる。
「むむ!」

面と向かって、そんなことを言われるとちょっと考えてしまう。言われっぱなしは癪だもの。
そんなわけで、レッツ反論。
「まあ、僕のことはさておいて、ところでまだ授業中だってのに、君はどうしてここに? サボりはいけないんじゃなかった?」
「おなかが痛いから保健室へ行ってきますって、ちゃんと先生に告げてきたわ」
しれっとそんなことを言う彼女。
「そうか、君は馬鹿なんだな。保健室は一階だよ」
「保健室の場所ぐらい知ってるわ」
てことは、確信犯。ならばさっきの発言はただの軽口?
「あれれー、おかしいぞー。さっき嘘つきは嫌いって言ってなかったっけ?」
「ええ言ったわ嫌いだわ」
「じゃあどうして?」
「だから私は、自分のことが嫌いなのよ」
声色が変わる。トーンが落ちる。それは一瞬だけ。だが言葉の裏づけには十分だった。
「あー」
と唸る僕である。
それはちょっと、悲しいね。

「隣いいかしら?」
「ダメって言ったら?」
「あなたの顔を思いっきり蹴飛ばしてやる」
相変わらず、一寸の間隙もない彼女の返答に、自然と口角が持ち上がる。
「あは。まさか一瞬でそんな発想ができるなんて!笑っちゃうね!」
そしてちょっと愛らしく思う。
それは僕がMだからってことじゃなくって、ていうか僕はMじゃないし。
詰る所、トゲトゲしい発言に心底ほんわかしたその理由はと言えば、彼女がその発想こそ暴力的ではあるものの、実際にそうすることはない、と、僕が知っているからだ。

僕が本気で嫌だといえば、彼女が無理矢理にそれをすることはない。
そしてもちろん、先の物言いのような蛮行に及ぶこともないのである。
有体に言ってギャップ萌え。
彼女がどれだけ優しいか、僕は知っているから、口先で強がる彼女がとってもとっても―――。
て……アレ? なんでそんな、彼女の事、知ってんだ? あ、クラスメイトだから、か……?
「言うだけなら何とでもなるよ」
と、そういう彼女の台詞の末尾は、ほとんど高低差のないところから聞こえた。
気が付けば顔には光が当たる感覚。まぶたの向こうが殊更白んでいる。
どうやら彼女は今僕の隣に、おそらくは寝そべっているらしい。

川の字、というかリの字。あるいは地図記号のたんぼ。どっちだっていいが。
「制服が汚れるよ」
雨ざらしの屋上が綺麗なはずが無い、と、この世界でそんな相応のリアリティを求めるのは、あるいは馬鹿なことなのかもしれない。
「汚れたら洗濯すればいいじゃない」
汚れたら洗い流す。当然の処置だ。けれど。
「汚れが綺麗に落ちるとは限らないだろ」
即答を常としてきた彼女は始めてここで口を閉じ、噛み締めるように間をおいて、それから答えた。
「それもそうね。だけれど汚れないようにするというのは、そもそも絶対に無理なことだわ。どう頑張っても、大なり小なり汚れるものよ。生きるだけでね。問題はそれをどこまで許容できるか、じゃないかしら。人としてね。
 ―――いいのよ。汚れてもいいの。それでも寝ていたいのよ。あなたの隣で」

ふと、びちゃ、と言う感触が背中に広がった。シャツに何かが染み込んで行く感覚。それを僕はただ無視した。
感覚なんて、回線を、神経をバツンと切れば消えるんだから。
それにしても、相変わらず回りくどい言い回しだことで。ラスト一行は、まあ置いといて。
「何でも彼んでも、何かのメタファーにしようとするのは君の癖かな」
「それは逆に、あなたが何でも彼でも隠喩として受け取ってしまってる、と言えるわね。深読みするのがあなたの癖かしら」
「むむむ」
癖、かもしれない。勝手に深読み、一人だけ空回り。それはいつものことだけど、思えば、カッコ悪いったら無いな。
背中の汚れは広がっていく。

「ねえ知ってる? 行間はただの空白でしかないのよ。」
「とりあえず、君が本を読む人間と言うことは分かった」
「あなたは読まない人間?」
「読まない人間」
「そう。では、そんなあなたにプレゼント」
バサと本を顔に被せられ、再びまぶたの向こうが暗くなる。
「何これ?」
「見開きA3サイズのワンダーランド」
本を顔に被ったまま、「ふーん。」と生返事。本はそのままにしておく。
おかげで眩しくないし快適だ。それにこの本のインクの匂いは悪くなかった。
彼女との会話はそこで途切れた。

口を閉ざせば屋上はこんなにも静かで、ゆるやかに風が流れるのみであった。
気が付けば、ノイズのことすっかり忘れている自分がそこにいた。ノーテンキ甚だしい。
うららかな日の光が、ぽかぽかと僕のおなかを叩いて、内々の睡魔を呼び起こす。
“眠たいと思う”
次第に白霞む僕の意識。
“眠ろうと思う”
とうにまどろむ僕の無意識。
最後に僕は、どこか遠く遠くの銀河、宇宙の向こう側より遥か遠方の、メートルにすれば30センチに満たない耳元で、「行ってらっしゃい」と、くすぐったい囁きを耳にした。
そして―――“wanderland”は広がった。

     →←

とかなんとか。
よく分からないうちに、都合よく意識を失って、気が付くと僕は別の楽園にいた。
あるいはこれはまた別の僕と言えるかもしれない。ともかく、喫茶まよいねこに僕はいた。
太陽の日はひたすらあたたかで、そんな中で横になって目を瞑っていればそりゃこうなるってなもので、背中のアレは、まどろみのふちで見た幻、と言うことにしておけばいいさ。

矛盾なんて何のその。
筋が通れば世界に三人同じ人間がいたって成り立つのが世の中だ。
と言うわけで串を刺す。つまりこれは別の夢。僕は夢を見ている。今も、昔も。
夢を見る。なんと簡単で便利な表現だろうか。
それに陳腐だ。夢オチなんて今時オチにもなりゃしないっていうのに、しかも明晰夢ってんだから手に負えない。
まったく、どうかしている。

そして僕はデッキブラシを床に押し付けつつ、力任せにガシガシと前後に動かした。
僕は今、喫茶まよいねこで床磨きをしている。
ねっとりがっちり“汚れ”がフロアにこびり付いている。
しかも誰かがその汚れを踏んづけて歩き回ったらしく、いたるところに赤い足跡が広がっていた。

「ええい、洗剤は無いのか」と辺りを見回して、ふと目に入った窓の、そこから見える風景に気が滅入る。
窓の外には何も無かった。
夜でも昼でも朝でもない。何も、ありはしなかった。
つまりここは、ここのみの世界ってことで。とても狭い、内輪の空間。
淀んだ空気で満たされたまるで鳥篭。
飛べない鳥の気持ちが分かった気がした。
この鳥篭は紛れも無く、僕の世界のその一つ。

恐ろしいことに、人はその頭の中にあらゆる世界を持っている。
想像と経験は、たやすく世界を創造する。あるいは再現する。または両方。
僕に当てはめれば、さっきは学校で今が喫茶店で、それはすなわちどちらも僕の過去にある。
激動の日々を挟んだ、いつかあった楽しい日々のその舞台。
ただし残念なのは、どちらも期間限定であったということだ。
学校生活は、黒服の来訪で終わりを告げた。
喫茶店の方は、―――まあ、過ぎたことだよね。

そして、再構築されたこの世界は、期限が切れた後の、終わりを体現する舞台である。
枯れたオアシス。潤いと癒しの泉はとうに蒸発してしまった。
今はもう、真っ赤な水溜りがそこにあるのみであった。
僕は床を磨く。
一心不乱に。床を磨く。
僕は、ただ消したかった。消して、しまいたい。

そんな何もかもが不毛と化してるこの場と、また狭苦しく息の詰る世界において、カラランと乾いた良い響きが駆けた。
本当に、いい音だった。懐かしく思う。
ドアベルが、鳴く。つまり来客だ。
見ればロマンスグレー、大人の色気、とかそんな単語がふっと頭に浮かぶ、ニヒルな中年の男であった。
僕は驚いた。
男に顔があったからだ。その顔はとても疲れきっているように見えた。ただ、その眼光は鋭く、男は確かに生きていた。

しかし僕は首をひねる。
それは彼が知らない男であったからだ。赤の他人。僕とこの男に接点はない、と、なぜだか唐突に理解した。それは心で。
裏打ちに、時代が違うと記憶がそう告げていた。
しかし一方で、“似ている”と思った。何かが。
外見とか、たたずまいとか、そういうものではなく、もっと別の何かが、である。
男が何者かも知らないのに、漠然と“似ている”と思う、それは奇妙な感覚で、まあ、肝心の“誰に”というところには言及しませんが。

「あ、ごめんなさい。今日は臨時休業なんですよ。床だって、こんなですし」
僕はいつもの調子で、もとい、いつかの調子で答えながら、デッキブラシの先で、赤いフローリングをこつこつ叩いた。
男はそれを聞いて、床を見て、なお店内へ踏み込むと、
「いや、いいんだ。ただ君と話がしたくてね」
答えながらカウンター席へ歩き、横向き、僕のほうへ体を向けつつ腰を下ろした。
「そうですか」と僕は一言。
「特に御構いできませんけれど」と続けて二言。
そんな展開に軽いデジャヴを感じて、心の中では黒いもやもや増進中。
包丁出したりしないだろうか、とちょっと強張る心根をよそに、視線は床の赤を見据えて、僕は床を磨いた。

がしがし―――。

そして。
「消えないよ、それ」
横殴りに、男の声がかかる。
僕ははたと手を止めて、ちらりと横目に男を見た。

男は胸ポケットから煙草を取り出して、トンとひと叩き、箱から真っ白い煙草を一本取り出して口に銜えて。
「あーごめんなさい、店内は禁煙なんです」と僕。
男と目が合う。僕はにこっと微笑んで見せた。
男は静かに煙草を口から外すと、無言のうちにまた胸ポケットへとしまいこんだ。
そうして僕は、再びデッキブラシを前後した。

「ところであなたは誰ですか? 僕はあなたを知りません。」
床磨きは続けながら、片手間に聞く。
ガシガシと音が響くなか、男はおもむろに口を開いた。
「君との会合は正直予想外でね。私としても驚いているんだ。私は、私が会うことになるのはきっとあいつだと、“君にやられたあの男”だと、期待していたんだがね。あてが外れたよ。まったく、ダメだな私は。こんな時でもずれている。それとも、取り残されているのかな」
それだけ言って、男はシニカルに笑った。
「答えになっていませんね」
「聞けば答えてくれるだなんて、どうして思うんだね?」
ぐうの音が出る。ガシガシとうるさかったデッキブラシのヘッドが静止する。
そして僕は顔を上げて、見知らぬ男と相対するのだった。

「君は私を知らない。私も君を知らない。いや正確には君のしたことは知っている。君は“今は”有名人だからね。だが、それでも君を私は知らない。」
それだけ言って男はいったん口を閉ざし、分かりやすく間を作った。

―――Irregular

男の口が動く。放たれたそれに音はなく、静かに無形の言葉が紡がれるのみであった。
声を出さずに一単語。見逃してしまいそうなほど些細な、唇の動きを捕らえて、ふと頭に浮かんだ言葉の真意を思案する。

「道理に合わない。支離滅裂。説明すら付けられない。この会合は普通じゃない。ありえない幻だ。なぜなら世界が違うから、舞台が違うから。端的に言って“異常”の産物だよ。
 ――だが、物語はいつだって、そういう存在に動かされるものなんだ。それがたとえ取るに足らない存在だったとしても、短期間のうちに世界を覆すことがある。
 異常(イレギュラー)であるということは、それだけで力になる。世界に確固として組み込まれていないからだ。だからこそ、動けるし、動かせる。
 私が誰であるかは関係ないよ。君が誰かも関係ない。まずは因果を知りたまえ」

男は笑う。
「あなたが何を言っているのか分からない」
「正答なんてものは無いさ」
……あなたが何を言いたいのかわからない。
「流せ。どうせ中年の戯言だ」
それだけ言うと男はカウンターに頬杖をつき、その長い足を組んだ。
靴の裏は濡れていなかった。
そして僕は床磨きを再開する。
ガシガシ――。

と。
「おめでとう」
再び、脈絡無くも男の声。
何が?
「君のおかげで、世界は今とても良く保たれている。平和だ。君はそこへ導いた立役者じゃないか」
ああ、そういう。
「でも。その代わり、たくさん人が死にました」
―――違う。その表現は僕に限っては、正しいけれど正しくない。だから、言い直そう。
「たくさんの人を、殺してしまいました」
デッキブラシの柄を握る両手に力がこもった。
自虐するのってホント簡単。思考が内を向く。諦観にも似た悲しい気持ちが押し寄せた。
グッと歯に力がこもって、目頭が熱く、思考をそらそうと床を磨き続けて、
「へえ、それはそれは」
軽々しい男の相槌を耳にした。
その反応に肩が落ちる。
ちぇ、読み違えた。似ていると思ったのに。僕の勘違いだったらしい。

勝手に抱いた親近感は薄れて消えた。
僕は今度こそ床磨きに専念する。
がしがしがしがし―――。
「それで」とやる気の無い男の声が続く。
「それが、どうかしたのか?」
ブラシの反復運動が停止した。
半ば呆然。きょとんとアホ面を向けて、立ち尽くす僕である。
男は。

「だから、それがどうかしたのかって聞いている」
心底面倒臭そうに繰り返した。
それがって。
簡単に流せるものじゃないだろう。
顔が引きつって、なぜか笑いが込み上げる。ひひ、と、そんな気持ちの悪い、悲鳴のような―――。
僕の顔は、今どんな表情をしているのだろうか。

「頭をもっと使いなさい。君は馬鹿じゃないだろう」
僕は押し黙る。
男は語る。
「“たとえば”君がもし、そうしなくて、世界が混沌と、未だ争いの続く様相であったならどうだろうね。
 もっと多くの犠牲が出ていたかも知れない。もっと多くの犠牲が未来にも出たかもしれない。
 世界は今も、安定なんてしなかったかも知れない。
 だったら君は、少数の犠牲を持って多数の命を救った、と言えるだろう。
 そして、それはとても正しく、やはり正義だよ。少なくとも私はそう思う」

正しいとか、正義とか。どう も  のに。

抜け落ちる。欠けたことに、僕は気が付かない。
そうして。
「だからって……」
苦々しく顔をしかめて、弱々しく首を振る。
それが僕には精一杯。
傷ついた僕の、精一杯の、傷ついたふり。

「そうだね、だからって人を殺していい道理はないよ。けれどそれは必要なことだった。
 殺された人たちは可哀想だ。確かにね、同情もするさ。
 死っていうものは大きい。おおよそ最大限の悲劇だよ。だが、死ぬ以外の不幸だって五万とある。
 悲しみの度合いにすべてを変換するならば、殺しにのみこだわるのはナンセンスだろう。
 恐ろしいのは、不幸は伝播するって事だ。人の死が誰かを狂わせ、それはまた新しい悲劇を生んでいく。
 だから君は、連なる悲劇の連鎖を断ち切るため、その身に億単位の呪いをかぶったのだね。
 自覚的であろうと、無自覚的であろうと、それは事実だ。そしてその事実は、私からすれば同情に値するんだ。罪悪感を感じるんだ。
 君は、私からすれば被害者なのだよ」

被害者であり加害者。
男の表情が陰る。
どこか遠い目をした彼の視界には、果たして“僕の”世界はどう映っているのだろうか。やはり、似て、る……?
「―――なんというか、これは罰なのだろうね。巻き込んでしまった彼らが、その後どうしたのか、私のしたことが世界にどんな影響を与えたのか。私は全部見ていた」

彼らって誰?
その後っていつ?
あなたのしたこと?
それの罰?
僕にとって、それは全てが境界の向こう側の出来事だった。
「どうにもできない外側で、世界がその後どうなっていったのか、私は見ていた。―――君のこともだ」

繰り返しになるけれど、僕と男に接点は無い。
だからこれは、僕に当てた言葉ではなかったのだろうと思う。罪の告白。痛々しい懺悔だ。
“全部見ていた”、そういう男の顔には悲壮が溢れて、ここで再び男の視界が僕の世界とリンクする。

男は僕を真正面に捕らえて、そして言った。
「憎んでいいぞ。私を」
ぜひとも呪ってくれたまえ、と、そんな冗談みたいな台詞を、真顔で。
「私はね。もしかしたら戦争を止められたかもしれないんだ。けれど、そうしなかった。努力を怠った。
勝手に理解して、潔いふりをして、ただ衝動的に手首を切るがごとく、逃げ出した。
投げ出したんだよ。私は。全部。放り投げた。自分の命もね。
私は、最後の最後で濁流に流されてしまった。」
そうして男はすっと組んでいた足を解いて、席を立つと静かに、“すまない。”と頭を下げた。それはそれは深々と。

瞬間、僕の脳裏に浮かんだ、二つのおぞましき大虐殺。
一つはコジマ汚染による、不衛生に長い時間をかけて腐り落ちるコロニー。
一つは大量破壊兵器による、一瞬で吹き飛ぶコロニー。
前者は苦痛が長く続くが、時間がある分、希望もあるかもしれない道。
後者は苦痛は一瞬だが、希望は一切無い道。
そして彼は後者を選択した。諦めたのだ。全てを。だからせめて――、と、彼は自らの手で。

僕は問う。
「後悔しているのですか?」
男は答えた。
「後悔している」
ゆっくりと顔を上げて、椅子に再び座りなおして。
「――そのとおりだ。私は、後悔している。
結論から言って、私は間違えたんだよ。最後の最後で。間違った選択だと知りながら、ソレに従った。
 裏にあったのはたぶん嫉妬かな。
 あいつに対する、あいつのみに対する黒い感情がどうしても拭えなくてね。
 最後の最後で、対立してしまった。そうするための付け焼刃な大義名分は、確かにあった気がするが、そんなモノはもう思い出せない。
 ただ間違えた事だけを覚えている。
 私と彼らの物語は、私の裏切りで終幕した。
 結局、世界は何も変わらなかった。」
それは、僕の世界が始まるずっと前の物語の、その顛末だった。

「だが、そこから始まる物語があった。
 まるで世界が別の答えを探すかのように、腐っていても地球は回るし、日々は紡がれて、そうして、終にスイッチを切り替えた奴がいたわけさ。
 私やあいつ、あるいはNo.1とか、それを出来るだけの力を持ちながら、誰も出来なかったソレを、やってのけた者がいた。
 ―――君だよ。
 あの日あの時、君はYESとクリックしただろ? アレが全てを変えたのさ。
 分かるかな。
 君の存在は、それそのものが鍵なんだ。
 君は正しい扉も間違った扉も開けられる、万能の鍵なんだ。
 君は普通じゃないから。
 あいつと同じだ。
 けれど違うのは、君は道を選べるという事なんだ。」
道を、選べる―――。
男の言葉を僕は頭の中で反芻した。何度も。何度も何度も。反芻した。

「ちょっとだけ、不毛な話をしようか。
 思うんだが、端から戦争なんて起きていなければ、そもそも殺したなんだっていう、こんな葛藤はありえない。
 ならば、真に責められるべきは戦争を始めた連中。あるいは、そもそも兵器を作ったやつ、と、そう思わないか?
 もしそうなら、全人類責められるべきだ。
 クレイドルを見ろ。あの中での経済活動はすべて企業へつながっている。
 そして戦争をしていたのは企業だ。つまりあの時代、戦争に荷担してないやつなんていない。
 いいかい、突き詰めれば誰だって、人を傷つけ虐げて押しのけて踏みつけて、生きている。いつだってね。それは平和になった今でもだ。
 本当は、誰しも反省しなければならない」
それは、前言通りの本当に不毛な話であった。砂上の楼閣。
僕は無言で俯いた。

男の言いたいことはわかる。そういう考えもあってしかるべきだ。
でも、それで納得して立ち上がれるほど、僕は強くはないのです。
果たしてこの世は残酷だ。
僕はいつでもそう思う。思っている。当然のように。
表情には、きっと出ていないはず。

誰も僕の悲哀を知らない。もちろん知らせるつもりもない。
内々にしまいこむ。箱を閉じて鍵をする。いつものように。
―――と。
「まったく、ずるいな君は」
まるで、僕の心を見透かしたように、男はそっと呟いた。
呆れたように、深くため息をついて、男は続けた。

「世界は確かに残酷だ。
 だがね、マイナスばかりでもないんだって、君は知っているはずだ。
 だってそうだろう?
 お前にだっていただろう。支えてくれた人や、助けてくれた人や、癒してくれた人。
 そういったプラスの面だって、人間は持ち合わせているんだ。本当はね、それで天秤は釣り合うのさ。
 無意識に虐げてしまっても、意識して誰かを助ければ、助けた誰かがまた別の誰かの支えになって、バランスは取れるんだよ。
 だがそれが時として大きく傾いてしまうことがあるんだ。
 人間は完全じゃないから、人間の社会が完璧な道理はない。
 そして傾く天秤を、溢れた泥を全身に浴びながら正すのが、英雄ってやつの仕事なのだろうね」

聞いていて、胸がジンと熱を帯びる。
―――ああ、僕は今説教されているんだ。
それがなんだか懐かしかった。思い出が込み上げる。
かつての仲間、腕利きのごつい整備士、てきぱき凛々しい管制官。
温かいメイさん、楽しいエイさん、騒がしいダンに、かっこいいウィンさんと、優しい優しいセレンさん。
そして、あの人。
みんなの顔が浮かぶ。
けれど、平和になった後にも、あいかわらず、僕の世界はこんなに小さい。クレイドル一機の十万分の一にも満たない。
宇宙は光速を越える速さで、今も膨張してるって言うのに、僕の世界は広がらなかった。

誰しも反省しなければならない、と男は言った。
ならば、一番反省しなきゃいけないのは誰だろうか。
「さて、時に質問なのだが、君はどうしてリンクスになったんだ?」
これは核心だ。僕の弱さを巡る問である。
「…え、と」
幼心にありふれる青色ヒロイズム。とあるヒーロー(憧れ)の敵討ち。それとも義務感。あるいは、成り行き―――?
たぶん、全部だ。

最初は―――、本当に本当の最初は、でっけーロボットを縦横無尽に動かしたいと思っただけだった。純粋に。
そうして、悪いやつをやっつけて、世界を平和にするのはかっこいいことだと思った。思っていたんだ。
そう、あの人のように。
人に頼られ、感謝され、笑顔は絶えず、そして強く、いつかあの人のようになりたいと憧れた。
そうして共に悪いやつをかっこよく倒して世界を平和にしよう、と、馬鹿みたいに青臭いが、胸を張れる立派な志を持っていた。それが原初。

けれど。
ある日、あの人は戻って来なくって、大人たちは頭を抱えて、僕を囲う世界はとても暗く、使う者がいなくなって人殺し道具は埃をかぶった。
許せなかった。あの人を奪った人間を。
そしてそんな黒い感情の塊と同じくらい強く、何とかしなくちゃと思った。
それは残された人がいたからで、僕もそんな彼らの一員だったからだ。曲がりなりにも。
だから僕が跡を継ごうと思った。それまで僕は何の役にも立てていなかったから。
肩を並べることはもうできない。だが、目の前には空席が一つある。
幸いにも僕にはそれに座る最低限度の資格(才能)があった。
僕を連れて来た大人の思惑など知るものか。
“世界を変える”、それを僕は義務にした。それが二つ目め。

けれど、そんな熱意も、決意も、何の意味を無く、何も変わることなく、僕はまるで、少し外れたところで空転を続ける歯車のように、むしゃくしゃに日々を過ごした。
僕は子供だったから、どうしていいのか全然わからなく、格納庫は今日も重苦しく、それでも僕は世界をなんとか変えようと、絶対に外へ出てはいけない、と誰もに言われ、言われ続けて、その通り引きこもっていた格納庫から、その日外界へと踏み出した。

当ても無く、ただ地上を散歩した。といっても、遠くへは行けなかった。
息を吸うたび、歩を進めるたび、体は次第にしびれて、重く、さびた鉄くずのように、動かなくなっていった。
見渡す限り瓦礫の続く地上世界で、もはや歩くことすらおぼつかず膝を付く。
それでも退きたくなかった。少しでも前に進みたかった。それは僕の性分の問題だ。
勝つまで退かない。僕は、これでも頑固者なのです。

そんな性格が後押しする。
意地になって地面をはいずる僕の後頭部を、太陽は無言のままに照らし続けた。
呼吸がどんどん荒くなる。肩で息をする。通り押して、ひゅーひゅー喉が鳴り出した。
肺がおかしい。心臓もおかしい。目が、なんだかチカチカする。翠色をした、毒々しい光の玉が見えた。

そうして、外に出て一時間くらい。いや、実際はもっと短かっただろうけれど。
もう、一歩も動けなくなって、その場に倒れこむ。
最後の力で、何とか仰向けに、ごろりと寝返りをうった。
太陽を見たかったから。
真っ白に焼きつく視界で、誰か(みんな)の忠告を思い出す。
“絶対に外に出ては行けない”
それは僕を守るための言葉だった。
僕はいつだって守られてばかりだった。
そして、守ってくれる人がいないと、こんなにも弱くて、ちっぽけだ。
僕は太陽に手を伸ばす。必死に、それを掴もうと努力した。もちろん、掴める訳はなかった。
ダメか、とそんな弱音を吐こうにも、無様な呼吸音に隠れて、上手く声にできなかった。

伸ばした腕は何を掴むでもなく、いつまでも中空をふらふらとさまよって。
そして。
真っ白に焼きついていた視界が暗転した。
ぎゅっと誰かが僕の手を取り、握る。温かいと思う。
僕は焦点の合わない目で辺りを見回した。
必死に、ぼやけた視界の中で、いつからそこにいたのか、ぼろぼろになった鉄の巨人を見つけた。
僕の手を握ったのは、その桜色の巨人の主であった。

その日僕は瓦礫の丘で彼女と出会った。

瞬間――、カラカラと空回る歯車がガチリ噛み合う。
彼女は僕を世界につなぐ歯車であった。
そして全てが始まった。
僕は戦った。彼女の助けを借りて、みんなに支えられながら、僕は戦った。
そうして格納庫は次第に明るくなって、笑い声がまた聞こえるようになって、人殺し道具に被っていた埃は吹き飛んで。
僕は、あの人の跡を継ぎ、世界を変えようと――――。

「世界を変えようと、思って、ずっと―――」
声が、震えた。胸を掻き毟りたい衝動に駆られて、高鳴る心臓を押し込めるように、胸に置いた手をぎゅっと握りこむ。
僕は、続けた。上擦った声で、途切れ途切れに。
「“ずっと、平和を、夢、見て――”」

「本当に?」

男が口を挟む。
僕は答えない。
「無敵のネクストでハチャメチャに大活劇するのがただ楽しかったのではないか?強い自分に酔ってなかったか? 
 平和のために世界を変える、そんな大層な矜持を、君は常に持っていたというのか?」
「……それは」

思い返す、までもなく。それは、無くなっていた。
始まりにこそ持っていた道義を、僕はいつかに無くして、二つ目も掻き消えて、結局、最後までそのままだった。
僕の活躍でみんなは明るくなった。それは確かだ。
そうして、格納庫はまたいつかのように活気に溢れて、彼女だって優しいし、ネクストで戦場を駆けるのも気分爽快で、

―――だから、足裏で潰れる人のことなんて、考えもしなかったんだ。

戦場で存分に大暴れ。
スリルとともに自分の力に酔いしれて、ミッションこなして家に帰れば拍手喝采。
普段どおりの料理を前に、みんなで馬鹿みたいに大騒ぎ。
そうして今日もいい一日でしたと、温かいベッドで眠りに着く。
つまりはそう、僕は楽しんでいたんだ。戦争を。まるで、アクションゲームにはまるみたいに。

王小龍。あなたは明言しなかったけれど、僕の地獄行きは決定している。
そうさ、僕は娯楽でもってネクストに乗っていた。楽しいから、乗っていた。
それが、真実。

「ひどい人間ですね。僕は」
なんか、どっと疲れた。
床を磨くのも。今こうして話しをするのも。生きるのも。……生きてないけど。は、笑える。

そして、
「……なるほど。君はイレギュラーでありながら、まっとうな人間だったというわけか。」
男の感想。
まっとうな、人間……
「そうだろ? 史上最強の兵器たるネクストで飛び回る。楽しくないわけが無いじゃないか。男ならだれしも。憧れないやつはいないと思うね。
 しょげるなよ、バカモン。
 大丈夫さ。君はまだ大丈夫。なぜなら、君はネクストを降りたじゃないか。
 それは新しい一歩に他ならない。君はちゃんと踏み出していたんだよ。自分自身気づいていなかったとしてもだ」

僕は、なんで、ネクストを降りたのだっけ。
男は続けた。
「自己嫌悪がクールだとでも? ひとりで抱え込んで、沈んで、それで何がどうなる?
 君がしてきたこと、その罪は永劫消えないよ。何をしても、誰も許しちゃくれないさ。
 君は本当にまっすぐだ。それは場合によっては危ういことでもあるが、お前はちゃんと良い方向に踏み出しているよ。
 前に向かって。
 私と違って、未来を生きれるよ。
 悩む必要なんかないのさ。いいや、悩みなんてあって当然で、蹴飛ばして当然、それでも掻き消す事なんて出来なくて、だから背負わなくてはならない。
 まずは生きろよ。今を。それから悩めよ。
 そうして、押しつぶされそうになったり、立っていられなくなったなら、その時は誰かにすがればいいんだよ。
 繋がりは消えないんだろ?
 いつだって、人は変われるんだろ?
 諦めてどうする。
 君は、まだ間違えてる。
 ちゃんと気付いたじゃないか。
 受け止めたじゃないか。
 変わってきていたんだ。ちゃんとね。
 それなのに、これで終わりでいいのかい。
 君は見たはずだ。すべてが始まる前に。
 唯一、何にも縛られず、自身から世界を変えようって、挑んだ男がいただろう。
 その背中を、君は覚えているはずだ。」

世界を変えようと挑んだ男。
忘れるはずがない。それは僕のヒーロー。あるいは親と言ってもいいかもしれない。
まあ、そんなことを言えば、向こうはきっと嫌な顔をするのだろうけれど。
「世界を変えるには、自分が変わらなくてはならない。出なきゃ先へは進めない。
 いつまでも“縛られて”いるなよ」
からん、と床に転がるデッキブラシ。僕の体は震えていた。ぎゅっと、自分自身を抱きしめる。とても、恋しい気持ち。
「前を見ろ。
 流れに身を任せたままでいいなんて考えるな。誰かが何とかしてくれるなんて思うな。
 ただ依頼されるのを待つのはもう止めろよ。
 考えて。悩んで、迷っていいから。
 時に他人を頼っていいから。放棄するな。
 お前はお前だろ。お前に出来ない事など山ほどあるが、お前にしかできない事も山ほどあるんだ。
 選択しろよ。自分の意思で。責任を持って。罪を背負って。罰を受け入れろ。
 簡単に許しを乞うな。誰も許しちゃくれないさ。だから、自分で自分を許せよ。
 億万の命の上に手に入れた生活を、たやすく捨てるなんてそれこそがおこがましい。
 お前の世界はお前を中心に回っているんだ。みんなの世界はみんなを中心に回っているんだ。
 それは密接に関係し、重なり合ってる。
 自分の存在を知れ。お前が欠けることで、不幸になる人間がいることを考えろ。
 自分勝手はもう許されない。
 お前にも大切な人はいるだろ。」
僕は小さく、頷いた。
「お前自身だって、幸せになりたいんだろ?」
僕は小さく、頷いた。
「その人を不幸にしたくはないだろう?」
僕は小さく、頷いた。
「だったら、このまま終わって言いわけがないよな?」
僕は頷く。
男は笑った。満足そうに。
そして―――
「これからは、自分の道は自分で切り開けよ。
いつまでも、“こども”じゃあ無いんだからさ」

     /

扉が開かれた。病室の。
それはとても唐突なものだった。ノックすらなかった。まったく無神経な野郎は死ねばいい。
とっさに私は背を向けて、鼻をすすり、涙をぬぐって、けれどそれでもきっとひどい顔だろうから、そのまま元の席にへと戻って、顔は伏せる。上げる必要はない。
誰が入って来ようがどうでもよかったから、件の来客が誰かを確認することもないわけで。
その誰とも知れない来客が声を上げる。
「さて。
まだ三日なわけだけど、俺ってば割合せっかちで、そりゃ親友がこんなじゃ夢見もわりーってなもんで、そのせいでただでさえ少ない睡眠時間がもんもんとして寝れやしねー。おかげさまで絶賛寝不足、俺自身の能率低下も甚だしいし、アブさんはいい顔しないし、怖いし。」

いったい誰に向けて話しているのか。マイペース甚だしい芝居めいた狂言回し。はっきり言ってうざい。
その声と喧しさ加減に、合致するのは私のデータベースには一人だけであった。言うまでもなくダンである。
「そんなわけで、早速こいつをどうにかしようと思うんだわ。つーわけで」
パンパンと拍手が二回鳴る。まるで和風料亭で人を呼ぶかのごとく。
そしてそれを合図に、ガラガラと扉から白衣の人と移動式のベッドが運び込まれて。
「んじゃ、そこなベッドで横たわるアイツ、さっさと運び出しちゃって看護婦さん」
私とウィンをそっちのけに、そんなことをのたまった。

黙ってられなかった。
気がつけば私は立ち上がって、アイツに手を伸ばす看護師を無言のままに突き飛ばし、そのままダンに肉薄する。
「なんだよお前、こいつに何するつもりだ」
ああ、くそ。お願いだから、涙、流れないでくれよ。
私はダンを睨む。必死になって。
対してダンはさもめんどくさそうに、小指を耳の穴にぐりぐり突っ込みながら、私からすっと一歩距離をとって呟くように、誰もいないトイレで独り言を言うように、おそらくは彼自身の本心を、何にも包まず垂れ流した。

「うるせーなー。座って待ってりゃ戻って来るとでも思ってんのか? スキャンの結果は知ってんだろーが。これだからオペレーターは。お手上げの癖に、待つことに慣れすぎなんだよ。しゃしゃんなっつーの―――いて!」
それを遮ったのは、ダンの後ろにいた、書類を抱えたスーツ姿の女であった。後ろから、脳天にチョップ。
くらってダンは前のめり、まずったとばかりに顔をしかめて、バッと振り返ると、ツンとそっぽを向く女性に身振り手振りで大げさに弁明を図った。まるで喜劇だ。けれど笑えない。だってこれじゃあ、まるで私がピエロじゃないか。

「あ、や、ごめん、ていうか、さっきの全然違うからね!あなたのつつがなきオペレートにはいつも感謝しております、ホントホント。あ、お詫びに今度デートしませんか」
ぐおお、と右手を振りかぶる、スーツの女(ダンのオペレーターらしいが)。そして次の瞬間、パァン、といい音が病室に弾けた。
反動で半回転、よろりとこちらに向き直るダンの頬にはくっきりともみじマーク。
そんな迫真のコメディに、私は黙るしかなかった。

「えーっと、その。まあ、なんだ。スキャン結果は見せてもらったんだ。うん。それで、だ、あなたに手伝って欲しいことがあるんだすけど」
と、何事もなかったかのように、ダンは言った。しかも地味に噛んでた。同時にダンのオペレータが一枚書類を差し出した。
受け取って見ればタイトルに誓約書とあった。

「だから、何をするつもりなのかを聞いている」
「決まってる。こいつを起こす。目を覚まさせる」
どうやって?
「意識をサルベージする。直接、頭の中に入り込んでな」
言いながらダンは、とんとんと指先で自身のこめかみを叩いた。
「ふん。実に簡単に言ってくれるじゃないか。そんなの夢物語だろ」
「いーや、できる! リンクスの俺たちならな。AMSは何も機械につながるだけの代物じゃねえ」
胸ポケットから取り出したボールペンを、ビッと一直線に私へ向けて差し出しながらダンは言う。力強く。
「ただし、前例はない。研究の域を出ない。だからこれは実験だ。治療じゃない。賭けなんだ。最悪、繋がったヤツが目覚めなくなるってこともあるかもわからん」
だからこその誓約書。
確かに責任云々の記載がされている。私はちらっとベッドに目をやった。
そこには、くうくう眠る私の―――。

「そいつのために、あなたはどこまでできますか?」
顔のもみじも、さっきの漫才も、全部が全部、冗談みたいだが、そう言うダンの目だけは真剣であった。
是非もない。
「こいつのためならどこまでも」
「ではサインを」

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夢の続き。と言うか、とある世界のエピローグ。

そうして僕は喫茶まよいねこを後にする―――とその前に。
「最後にあなたの名前を聞いても良いですか?」
「聞いても無駄だよ。“目が覚めれば”忘却の彼方だ。私は君の世界に存在し得ないバグみたいなものなんだ」
「それでも聞いておきたい。だってあなたは“ベル”の時代の人なのでしょう?」
「察しが良いね」
「あなたがヒントを出しすぎただけです」
「……それに頑固だ。 分かった。平凡な名前だが。―――ジョシュア・オブライエン。それが私の名前だ」

「ありがとうございます。」
ぺこりと頭を下げる。
それはきっと、男の言うとおりすぐに忘れてしまうことなのだろうけれど。
それでも意味はあったと思う。僕にとって。それから、男にとっても。
ふと考える。
この会合、主導権はどちらにあった? 男がいるのは本当にこのさくらねこ? 招かれたのは果たしてどっち?

さて―――。
これにて奇妙な会合はおしまいだ。
僕は、僕が心(セカイ)に舞い戻ろう。そして境界を越えるのだ。
僕は踏み出す。
と。
「待ちたまえ。次は君の番だ」
男が呼び止めた。正論だった。
けど、それはちょっと、僕の世界においては蛇足っぽい。
それでも男は、ふっとニヒルに微笑して、
「君の名前を教えて欲しい」とそう言った。

果たして、この会合は“点”だ。
歴史と地続きの二大世界はこうして、時の狭間、幻想の空間において、交差して、衝突して、透過して、そしてまた別々の方向へと懸け離れていく。
もう二度と重なることはないだろう。もう二度と会うこともないかもしれない。
僕は振り返る。
そして遠ざかる彼の世界へ向けて
「僕の名前は―――」
静かに、さよならを告げた。


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