Written by ロストネーム=ナナシ


 
 
 
 高度7000mの空を飛び続ける、居住型の超巨大航空機クレイドル。
 一昔前に起こった二つの大きな戦争と、今日まで企業同士が繰り広げている経済戦争によって汚染され、多くの人間が健全に生きられなくなった地上の代わりに用意された天上の箱舟。
 身勝手な戦火と汚染が届かないこの空で、命のやり取りとは無縁の生を望む数千万の人間を抱える、にはちょっとばかり狭いかもしれない大きなゆりかご。
 そのクレイドルは何機かで編隊を組み、渡り鳥の如く仲間と共に地球を延々と回り続ける。
 たまにぼっちもいるけれど、そういう時はほぼ間違いなく仲間が作られて、順々に空へと上がって群れに加わる。
 それが今この時まで、繰り返されている。
 
 そして現在20まで運用されている編隊の一つであるクレイドル03、その1号機にある「CL1-S4-C97」――本体ブロックから見て左側一個目のケイヴ。
 その最上段窓側真ん中辺りの、専有面積100平米の3LDKという、全クレイドルの中でもこれ以上ないくらいの一室が、わたしの今の実家だ。
 
 クレイドル03の正式運用が決まって人々の入植が始まった最初期、当時のBFF社がここを否応無しにわたしたちへ割り当てた。
 その時はほぼ無理矢理な決定と指示になにくそと思ったのだけれど、わたしが主な生活の場を地上に戻してからは、その扱いがいかに手厚いものだったのかを痛感した。
 女性が二人だけ、しかも一人は車椅子乗りで、前戦争で壊滅したレイレナード社に関係していた家族に向けるには、破格もいいところの高待遇だ。
――そりゃ監視とかの名目もあるだろうけどさ、それにしたってやりすぎでしょ、これ。
 なんて、昔は全然気にしなかった事を今更思いつつ、第三と第四のセクションのほぼ全域を見渡せる自宅のバルコニーでガーデンチェアに深く腰かけながら、牛乳瓶のフタを開けた。
 タオルを首に掛け、安定の部屋着である薄い白Tシャツに紐締め式の水色ハーフパンツという姿で、クレイドルの天窓から入る日光を浴びながらシャワー上がりの一杯だ。
 乾ききっていない水滴がシャツにしみこんで、少し透けている。その部分に空調システムが生み出すそよ風が当たって、ひんやりと気持ちいい。
 やー、なんて贅沢な事だろう。今ではなかなかできないこの至福のひと時を送れる事をお天道様に感謝して、冷え冷え牛乳をごくごくと、一気に飲み干した。
 
「――かぁー! うまいっ! やっぱ何処行っても朝はシャワー上がりに牛乳ですよ。たまりませんよ」
 
 なんて言いつつ空っぽになった瓶をぎゅっと握り、火照った喉を通るつめた~い牛乳特有の喉越しと舌に転がるまろやかな味から来る快感を心からかみしめる。
 朝が早いからか、周囲には誰もいない。他の部屋のバルコニーにも、セクション同士を繋いでいる連絡橋にも、最下の大通路にも。
 朝っぱらからプライベートスタイル丸出しで一人騒いでるわたしは、はたから見たらオカシイ人に見えるかもしれない。いや、十分にオカシイと自覚はしてるからそれはもう今更か。
 それでもさっきの一言は独り言じゃない。れっきとした語りかけ、会話の端だ。
 向けた先は、白くて丸いガーデンテーブルの上に置かれた小型のタブレット端末で、その中にいる小さな友達。
「ね、ビューちゃん?」
 画面を見て、その子を愛称で呼ぶ。画面外に隠れていたのか、画面端の枠に手が掛けられる。
 そしてこちらの様子を覗き込むように、見た目幼性ガン振りな丸っこくて可愛らしい顔がゆっくりと出てきた。
 暗いベージュのセーターに焦げ茶のミニスカート、足元は服の上下と同じ色の組み合わせなソックス&ローファという地味、というよりも凄く大人しい印象になる格好。
 両端が垂れ耳わんこの様に跳ねている茶味掛かったショートヘアに、大きくて透き通るようなエメラルドの瞳。
 その頬はほんのり赤くて、少し不安げな、それでいて焦っているような表情をしている。多分何かを恥ずかしがっているのだろうけど、何だろう。
 そう思っていると、周りをきょろきょろと確認する仕草を取って、その小さな体で画面上に飛び出し、頬の赤みはそのままにちょっと怒ったような顔になって口を大きくぱくぱくする。
 そして自分の服とスカートを何度も指差した。お尻から生えているちょっと長めなケモノ系尻尾がピンと立っているのは緊張している証拠だ。
――あー、「そんな格好で外出ちゃダメ!」ってことか。まったく、今更硬い事言うんだから。自分はほぼ間違いなく世間が気にしない場所にいるのに、何故か人の目をしょっちゅう気にするんだよなあビューちゃんは。
「大丈夫大丈夫、誰もいないし出てこないって。いいじゃん別に、わたしが恥ってもビューちゃんには関係ないし」
 どうせ見たって向こうも対して面白くないだろうしね。と、そうやってちょっと反論する。
 するとビューちゃんはムッという表情を浮かべ、何処からともなくホイッスルを取り出す。
 あ、やばい。思った瞬間、彼女は上体をのめらせ、尻尾がぷるぷる震える程思いっきり吹いた。
 同時に、タブレットから防犯アラームがけたたましく鳴り始める。
 危機を伝えるには最適だろう甲高くて不快な大音量は、至近にいたわたしの耳をつんざき、周囲の静寂を一気に破った。
 ビューちゃんの凶行に怯みながらも、直ぐにタブレットのスピーカーを手で押さえ、なおも響き続けるアラームの音を出切る限り抑える。音量変更、はこうかがないみたいだ…。
 こんなの近所迷惑もいいところだ。この音でお母さんはおろか周辺の部屋に住んでいる人が起きるかもしれない。
 何事かと外に飛び出してくる人すら出るかもしれないし、うっかり保安員出動とかになってしまったら大事だ。
「わっ、分かった、分かったって! あーもー!」
 流石に騒ぎになるのはごめんだと、急いでリビングへ戻って柔らかな白ソファにタブレットを放る。さらに傍にあったクッションでスピーカーを覆う――前に音は止んだ。
 振り上げた白いクッションを頭上に掲げたまま、ビューちゃんの前で沈黙する。
 いらない汗をかいて熱くなった体に開けっ放しの戸から入ってきた風が当たり、汗が冷える感覚をもってわたしはようやく我に返った。
 詰まっていた息を思い切り吐いて、クッションを抱いてソファにどすっと座る。
 真横にはソファの背もたれと座る部分の境目の隙間に角が刺さった状態のタブレット、の中にいるビューちゃん。
 胸の前で腕組みをして、いかにも「怒ってるよ」的な顔でこちらを見ていた。
「……ごめん、悪かったって。ホント、ごめん」
 クッションに顔を半分埋めながら、ビューちゃんに対してそっと謝る。
――でもさ、あれはちょっと、タイミング悪い。そう付け足したかったけれど、それは留めおくことにした。
 当のビューちゃんはぷいっとそっぽを向いて、その後すたすたと画面外へはけて行ってしまった。
 気まずいけれど、何に対して謝ったのかを聞かれるよりかはいいかもしれない。
 ビューちゃんは時たまこんな風に爆発するのだけれど、それが何をトリガーとしているのかが未だ分からない。
 だからというわけではないけれど、今までも何度かこうして地雷を踏んでいる。
 あの子の怒りモードは割と直ぐに収まってくれるのが救いだけれど、本当、何がいけないんだろう。
 一番近くにいるのになー……と頬杖ついて考えていると、リビングと廊下を隔てるドアがかちゃりと言う音と共にゆっくりと開く。
 きゅるきゅるという車輪の音を立てながら入ってきたのは、一台の車椅子とその乗り手。
 わたしと同じ濡れ烏色の癖の無い素直な、それでいてわたしとは真逆の長髪。
 寝巻きだろう白のルームワンピースを着た姿はとても40代とは思えず、その清純な容姿は、美魔女というよりかは美聖女と言った方がふさわしい。
「騒がしいと思ったら……知らない間に帰ってきてたのね」
 わたしを見つけるなり、車椅子の乗り手は呆れた口調でそう言った。
 うん、この状況は今まで何度も引き起こしているから、この対応は凄く残当、じゃない順当だ。
「あー、うん。……起こしちゃった、よね。やっぱ」
「そうね、あんなもの鳴らされたらね。どうせまた喧嘩したんでしょう? 二人とも相変わらずね」
「あははー、面目ありません」
 もう慣れっこだけど、なんて心の声が聞こえてくるような答えに、ただただ申し訳なくなる。
 かっくりと肩を落とすわたしに、彼女は鼻で軽く息を吐く。まあ毎度毎度大抵の確立でこんな事やってりゃ呆れるのも当然だろう。
 けれど、それでも、ひとしきり呆れた後は、昔と変わらない、柔らかく包み込んでくれるような、温かな微笑みを浮かべてくれた。
 昔からそんな優しさに甘え、包まれてきた。だから今も変わらず、安心してここに帰れるのかも、なんて思う。
「おかえりなさい、真理」
 ただ一言。帰ってきたのだから、当たり前と言えば当たり前の挨拶なのだけれど、でも久しく聞いていなかった掛け替えの無い言葉。
 それを聞いて、どこかで無駄に残っていた心の張りがすっと抜ける気がした。何せ、幾年振りだったから。
 でも、安心した。だからわたしは、当然に満面の笑みを添えて、応える。
 
「うん。ただいま、お母さん」
 
 
 
 
 
ACfA_UBERGD_02.『Dearly Beloved』
 
 
 
 
 
 騒がしい朝を過ごした後、わたしは久しぶりに味わうお母さんお手製の朝食にありついた。
 ブロッコリーやトマトとかの野菜一盛りとウィンナーが二本付け合わされた、少し多めの炒り卵がメイン。そこにアオサ海苔入りの白味噌汁が付く。
 特にこの味噌汁はかなり美味しく、曰くお母さんのおばあちゃん直伝のものなんだとか。
 そして白飯は昔から変わらず食べている有澤領産のナナツボシというお米を茶碗盛りで。やや締まった固めの御飯が一家全員のお気に入りだ。
 当然だけど、全部お箸を使って食べる。だけどお母さんの話だと、このクレイドルではこういう食事は結構珍しいらしい。
 ちなみにサラダ用ドレッシングはシーザーとゴマドレの二種類が大体用意してあって、今日はお母さんがシーザーでわたしがゴマドレだ。
 うん、やはりゴマドレシーザーは大正義。異論は認めん。
「地上の暮らしはどう? 苦しくない?」
 ブロッコリーのふさふさな部分だけをかじり取り、もしゃもしゃしていたわたしに、お母さんがふいと聞いてきた。
 それに反射的にすぐ答えようとして、ウッと思い留まって取り合えず口の中のものをよく噛んで全部飲み込む。下手したら色々飛ばすところだった。やばいやばい。
「正直それ程でも、ってカンジかな。そりゃ確かに色々やばいトコあるけどさ、安全とか健康とかは今の所大丈夫。生活自体も苦しくないしね」
「ここよりは?」
「流石にそれ言われちゃうと」
 痛いけど、どうしようもない所を突かれた事に苦笑いを浮かべ、人差し指でこめかみを掻く。
 実際地上の生活環境はクレイドルと比べると相当劣悪だ。
 一つ前の戦争、リンクス戦争が終わる前までは多少なりとも見られた各地の草木は重度のコジマ汚染によりことごとく失われ、その大半が瓦礫や廃墟の埋もれた砂漠に変わった。
 人々が住む事のできるコロニーは昔以上に数が少なくなり、しかも居住可能な汚染水準は以前では考えられないほどに引き下げられている。
 結果、汚染の影響による障害や疾患が目立つようになり、その様相は過去と比較したら到底目が当てられなくなるレベルだ。
 状況を重大に捉えた幾つかの企業が汚染対策に取り組み、さらにその一部が今も効果を挙げているから、一番やばかった時よりかは凄くマシになったのだけれど、それでも酷いことに変わりない。
「でもまぁ、お母さんがここで暮らしてるだけ良いよ。わたしは、ほらこの通り、元気いっぱいだからねっ! ……けほっけほっ」
 地上でもこれまでに大きな病気無し健康そのものでぴんぴんしてる事を、無い胸を張りながら力強く叩いてアピールする。が、むせた。少し強く叩きすぎた。
 そんなわたしの様子がツボに入ったのか、お母さんはちょっと吹き出して笑った。
 わたしも落ち着いた後、釣られて笑う。こうやって笑い合うのもいつ振りか。
 今日という日を過ごしたら、また暫くこういうのは無いんだなあと思うと、この一時一時がとても貴重に感じた。
 だけど感傷に浸ってばかりでもいられない。うだうだしてると無駄に時間が過ぎるだけになっちゃう。折角取った時間で、そうなるのはカンベンだ。
「で、話変わるけどさ、今日どうしよう?」
「え?」
「いや、実を言うと、特に理由があって来たわけじゃなくて。……その、時期が時期だから、一度顔見せに帰ってこようかなって……」
 わたしの言う時期、それのことがことだから、少しバツが悪くなって声のトーンが下がる。一瞬お母さんの表情がかげったような気がした。
 でもその件に関しては、とりあえず触れない。お母さんも辺に触りたくないはずだから、とりあえず話を進めた。
「それで、まあ、とりあえず部屋の片付けくらいはしようと思ってたんだけどね。でもそれ以外特に考えてなくてさ。……お母さん、今日何か用事あったりする?」
 いや我ながらノープランもいいとこだけどもと心の内で省みつつ、お母さんに聞いた。
 ただ流石に約束もなく半ばサプライズじみた帰省じゃ予定も何もないよね、とも思った。実際お母さんは考え込むような仕草で、渋い顔をしている。
 思い立ったが吉日と、ばばばっと会う用意して飛び立った時は『会うだけ会ったら後流れでいけるっしょ』とか考えてたけど、実際やってみるとそうはなかなかそう上手くいかないな。
 まあ主目標は達してるわけだし、それだけでも来た意味は十分あったんじゃないかなって――
「特にないわね」
「へ?」
「空いてるわ、今日。たまたま、一日」
「……マジで? 出島?」
 幸運。電球の代わりにその単語が頭上に浮かんだ。
 というか予想GUYな答えに驚いて、何時の時代か分からない文言で聞き返してしまった。いくらなんでも、古すぎる、これは。
「そう言う真理はいつまでいられるの? 今日も泊まっていくわけじゃないでしょう?」
「あー、うん、日が落ちるくらいにはシャトルに乗りたいかな。……でもまあ、ちょっとくらいなら引き伸ばしても」
 いいかも、とわたしが言う前に「ブブーっ」っていうあからさまにNGってカンジのブザーがタブレットから鳴らされる。
 見ればビューちゃんが腕でバッテンを作って頭の上に掲げていた。おまけに彼女の横にはわたしの今日の予定表。
 いや、何でそんなものが。ちょっと、わたし聞いてないんですけど。え、ビューちゃん何時の間に。
「ちゃんとスケジュールを守りなさい、ですって。良いマネージャーを持ったわね」
「……まったくで」
 お母さんの言葉が嬉しかったのか、ぱあっと笑顔になってふりふりと尻尾を横に振るビューちゃんを見ながら、味噌汁をすする。
 うん、磯と味噌の味わいが鼻と舌にすっと通っていくコレがたまらない。
 わたしが黙々と箸を進める一方で、お母さんはビューちゃんがいるタブレットを手元に持っていき、知らない内にかっちり決められていたわたしのスケジュールを眺めている。
 が、しばらくもしない内に小さく頷いて、タブレットを再び机の上に戻した。
「いつも行くモールに、美味しいパスタを出すお店が出来たの。買い物がてらランチしに行くのはどう?」
 
 
 
 
 クレイドルの玄関口とも言えるターミナル・エリアを備えた中央ブロックは、当然最も人々と物が行き交う場所になっている。
 各企業の事業所や営業所の大半は中央ブロックにあり、同時にそれらに勤めている人や地上から連絡・業務に来た人向けの商業施設も同じくそこに集まっている。
 一応各ケイヴ、各セクションにも最低限の商業施設はあるけれど、中央のそれと比べたら到底及ばない。
 本気で生活に彩が欲しいのなら通信販売で取り寄せるか、この中央ブロックにまで足を運ぶ必要がある、というわけだ。
 もちろん中央が遠くになればなるほど、それは難しくなる。支柱の中を通るエレベータを介しなければならない下層や上層の区域などは尚更だ。
 でもそれでも、数少ない娯楽を得るために度々時間を掛けて中央へと赴く人は多い。
 コロニー以上に閉塞された空間において、中央の大規模商業エリアはそこまでの価値と魅力があるオアシスだってことだ。
 そのオアシスの中層部に設けられたショッピング・モールの第一階層にわたしたちはいる。お昼時を少し過ぎ、いい具合にお腹がペコペコになるくらいの時刻。
 お母さんの思った通り一番混む時間帯を避けて例のパスタのお店に入る事が出来たわたしたちは、オープンテラスの席で深皿にそれぞれ盛られた二種類の生パスタとナポリピッツァを頂いていた。
「うーん、ちょっと多かったかしら。量が少ないって聞いていたのだけれど」
「いやこんなもんっしょ。わたし結構食べるし…………んんっ! おいひぃー!」
 お母さんの心配を払うように、頼んだパスタの一つであるキノコとホウレン草のクリームパスタをフォークにするすると巻く。
 その半分を自分の小皿に移した後、残り半分をかぷっと口に入れ、生パスタのもちもち食感とコクたっぷりの濃厚クリームソースを味わう。
 いやあこれは当たりですわ。思わず口にものが入ったまま率直な感想を飛ばしっちゃうくらいにはイイ。一応口はほぼ閉じだったから物理的に何か飛んだりはしてない。
 そしてもう片方はと言うと、ここの店イチオチだというアメリケーヌソースのクリームパスタ。
 ソースの赤色の元になっているエビもぷりぷりで、その甘味とコクを取り込んだ味わいたっぷりのソースをパスタにからめて口に含めば、たちまちその味わいが頬の内に広がって、舌をとろけさせていく。
 イチオシと言うだけあって、その美味しさがこの店の人気を支えていると言われたら何度も頷いて納得できるような説得力に溢れている。
 とかなんとかもう色々思っちゃってるけど端的に言い表せば、ホントマジ美味いっすマジで。
 生クリーム使っているパスタって点でダブっちゃってるけど、そんなの全然気にならなくなっちゃうほど美味しいのですはい。
「ん、本当に美味しい。……これはちょっと再現できないかも」
「もう、まーたそうやって舌コピしようとする。そんな簡単に真似されちゃ立つ瀬無くなっちゃうよ、この店」
 じっくり舌で転がして味わった後、難しい顔をするお母さん。新しい店に来る度にまず自分で作れるレベルなのか確認するのは流石と言うかなんというか。
 でも大抵何とかしちゃうお母さんに「再現できないかも」と言わしめるこの店やっぱ凄いな。まあ初見だっていうのもあると思うけど。
「そう言えば、真理はいつものご飯はどうしてるの? ちゃんと自分で作るようになった?」
「……相変わらずレンチン系女子で通してます。出前や外食もそこそこに」
「……今は、違うのかもしれないけど……女の子でそれは…」
「ち、ちがうもん。できるけどやらないだけだもん。やろうと思えばちゃんとできるもん。決してメシマズとかじゃなく」
「そうなの? それなら良い……いや、良くはないわね」
 痛い所をぶすぶすと刺され、ピッツァを頬張ったままお母さんから目をそらす。苦しいけど、何とか嘘は言ってない。……嘘は言ってないゾ。
 まあ料理をすること自体は別に嫌いじゃないのだけれど、毎日やるかっていうとそりゃ面倒っちいし、その分を趣味やら訓練やらにつぎ込みたい。
 出来ることなら将来は家政婦スキル持ちかバトラークラスな婿でも取りたいものなのである。勿論“わたし好みのタイプに限る”の但し書きはつく。
「何にしても、食生活はちゃんとしなさい。体調管理は、この上なく大事なんだから」
「あ……うん」
 後ろ半分の言葉を言った時、お母さんの声色が少し低くなった。多分、親としての心配と、先人としてのアドバイスの意が混じり合ったからだ。
 そう思って自分の首筋についているAMS接続用ジャックを意識する。
 これと同じものが、お父さんにもついていた。そして、お母さんにもついている。
 立場の違いはあれど、これがあったからこそお母さんとお父さんは出会ったのだと、よく言って聞かされた。
 だからと言って、わたしがこれをつけなければならないという事はなかった。
 無傷の身体にわざわざメスを入れてまでこれをつけたのは、これを使ってやりたい事があるからだ。
 決意は10代半ばを過ぎた頃に。そして幾年を費やした下準備を経て、ようやくその為のスタート地点に立った。今日はそこから走り出す前の、リンクスとなる前の最後の一日だ。
 だからと言ってコレといったイベントがある訳でもない。生きてさえいればまたここには来られるし、お母さんにだって会える。
 そりゃ、また暫くは会えないけれど、そんなのは今更なわけで。
「それにっ、そんなだらしないとボーイフレンドもできないんじゃない? そろそろ一人ぐらい紹介してほしいのだけれど」
「んー? ……そうだねー、別に候補がいない事はないんだけどねー……」
 少しよどった空気を変えるように切り出された軽い恋バナに、フォークに巻いたパスタをぱくっと口に運びながら、わたしは少しだけ考える。
 やる事柄当たり前だけれど、リンクスの業界は屈強……ばかりって訳じゃないけど、やっぱり男の割合が多い。
 勿論女性でも活躍しているリンクスは、わたしの大の親友、あるいは恋人な子を始め結構いるのだけれど、比率で言えばその差は歴然だ。
 年齢層もむさ苦しいオッサン共からわたしと同年代の若者まで多種多様。
 一部を除いた人たちとは結構話す機会があるのだけれど、わたしにオッサン趣味は無いから、そういう目で見る対象は自ずと同じ世代からちょっと年上までの奴らになってくる。
 ただ、その辺年代の話せるクラスの連中は何故かどいつもこいつも曲者揃いで、一緒に模擬戦やら世間話やらバカ騒ぎやらをする分にはいいのだけれど、正直付き合うとかどうこうとかは全く考えられない。つーか、無理。間違いなく。
 割とまともな方でも、ロイさんは軽めに見えてウィンさん一筋だし、クソ雑魚のダンはとんでもないヘタレで情けなさ過ぎ。
 それにあいつはメイさんとくっつけた方が何となくいい気がする。もったいないけど。もったいないけど!
 で、周りがそんなのばっかだから、いっそ同業じゃなくてそこら辺の良さそうな物件を見定めてバシっと決めてしまおうって常に目をぎらぎらじろじろ光らせているのだけれど、成果未だ出ず。
 うん、どう考えてもわたしの気に入るイケメンじゃないお前らが悪い。そーだとも、わたしは悪くねぇっ。
――と、まあこんなものなのだけれど、今お母さんに言った通り、別に候補になってる奴がいないってわけでもない。
 艶やかな朱色に染められたアリーヤを愛機とするリンクス、ハリがその一人で、現時点では最有力の婿候補だ。
 同年代で話は通じるし、割とイケメンでリンクスとしての腕前も中々。基本的にぶっきらぼうだけど肝心な所で女の子への気配りは忘れない。
 ついでにムキになった時とかにカワイイ面も見せてくれる――と、基本要項プラスこっちの好みを中々に押さえている。
 ただまあ、あれでいて草食系なのか、慣れていないのか、それとも朴念仁的な補正があるのか、からかい気味に挑発しても全然ノッてこないし、遊びに誘っても片っ端から弾いてくるしで、付き合いが良いとはとても言えない。
 何つーかわたしから、というか他人と距離を取りたがっているように見えるんだよね。その癖にはよくバームに出入りしてるけどさ。
「いやー、まだまだ時間掛かるかなー。そういうのって流石にしっかりしたいからさ」
「まあ、別に焦れとは言わないけど……でもチャンスは逃しちゃダメよ? 身体じゃあんまり攻めれなさそうなんだから」
「……いやそれお母さんが言う?」
「………くっ」
 お互いにお互いの枯れた土地を見合って、ちょっとしてからお母さんが後ろ斜め72度くらいに顔を背けながら苦悶の声を小さくこぼした。
 いやいや何でそこで自爆したのさ。分かり切ってたでしょ。わけがわからないよ。
 っていうかむしろわたしがそれやりたいんだけど。この身体、割とかなりお母さん譲りなんですけど。
 てか、これ知ってるよね。
 わたし、ぶっちゃけお母さん以下なんですけど。背丈がお母さんより若干低いとかそーゆーの踏まえても。
 
 
「……さて、これからどうする? もうちょっと休憩してからでもいいけれど」
 お母さんが自分の取り分を食べ終えてから十数分経った頃、そう言ってきた。
 わたしはお母さんが御馳走様する数十分前には取り分を全て平らげていて、それからは胃を休めつつパスタをマイペースに楽しむお母さんを悠々と見ていたから、すぐにでも動ける余裕がある。
 いやホント、自分の出した話題で盛大にコケてきた時はどうしようかと思ったけど、その後のお食事自体は楽しく美味しく過ごせたからよかった。
「うんん、わたしは大丈夫。お母さんもいいなら行こ。限りある時間は大切にしなきゃ」
「そうね。じゃあ行きましょうか。お金払ってくるから、ちょっと待っててね」
 お母さんは車椅子の車輪のロックを慣れた手つきで外し、電動力を使わず手でハンドリムを回してテーブルから離れ、わたしも次いでパイン材のガーデンチェアから腰を上げる。
 そしてずらしておいたお母さん側のチェアを元の位置に戻しておく。こういうちょっとした気遣いは大切だよね。
 ……ってかわたしの分はわたしが払わないと。そう思ってキャッシャーの方を見るも時既に遅し、お母さんはしっかりとわたしの分まで払っていた。
 というか、また払わせてしまった。こういう機会がある度に何やかんやで奢ってもらってしまっているが、流石にこの年になってくると若干申し訳なくなるというか、後が若干怖いというか。
 まあ後者はお母さん相手だから大丈夫だろうけど。
 そんな心配なんてつゆしらずのすまし顔で悠々戻ってきたお母さんは、わたしの前に車椅子を移動させてにこっとした笑みを持ってうながす。「押してって」ということである。
 勿論それに応えないなんて事はない訳で、当たり前にお母さんの後ろに回って車椅子のグリップを握る。
 ほんと、お母さんが電動力とコントロール用のレバーを使っている所って見た事ない。付いている意味があるのかどうかも疑問。いや多分一人の時には使ってるんだろうけどさ。
 とにかく、次の目的地はモール、すぐ近くだ。
 
 
 
 
 クレイドルのモールには、クレイドルに住んでいた頃はかなりお世話になった。
 ひいきにしていたお気に入りのお店もいくつかあるし、気の知れた店員も結構いる。
 割と長い間来る事のなかった場所だけれど、幸いにわたしが知っている店の殆どはそのままになっていた。
 それなりに変わっているのは他のトコばかりで、わたし好みそうなお店も増えてそうな雰囲気だ。
 わたしとお母さんはその最中を適当にぶらぶらと立ち回る。
 お互いちょっと気になるお店があったら、入っていってさっと見て回る。見るだけ見て、大体は買わない、ウィンドウショッピングという奴である。
 まあちょっとした小物や服くらいは気に入った奴をちょこちょこ買ったりはした。あと足りない、足りなくなりそうな消耗品とかもぽろぽろと。
 特にシャンプーやリンスその他諸々のケア用品を扱う店に入った時はお母さんとの談義が熱くなった。
 特に何でもなく、単に使っているものが違っただけなんだけれど、お互い頑固なものだから、どっちが良いかで張り合いっこ。
 結局お互い使っているものを使ってみる事で落ち着いた。ただし、ヘアケア類は除いて。
 そういうののお母さんの愛用品は、わたしも前に使ってたものだったしね。昔と変わらないものを、ずっと使ってるんだって思った。
 あとお母さんはシャワーでなく湯船を好み、そして入浴剤にうるさい。有澤製の高級入浴剤コーナーを通った時、そりゃもう溢れる程に称賛と文句の両方を聞かせてくれた。
 わたしもどっちかと言えば湯船派だけれど、一人暮らしで湯を張るのはちょっとメンドいからシャワーが殆どだ。
 今回お母さんが気に入っている入浴剤を買ってくれたから、帰ったら久しぶりに湯船に浸かってみたいな。
 
 そしてまたモールをしばらく歩いていると、今まで静かだったビューちゃんがぴこぴこぴこーんとブザーを鳴らし、見ればひとつ上の階層に向けて指をさしていた。
 顔を向けてみると、そこには見覚えのある看板があった。
 フォースサラウンド。そこそこ長い歴があり、現在最大手の音響機器メーカー、その直営店だ。
 種類問わない楽器の大半が揃えられるし、消耗品の類も余程特別なものでない限りはこの企業の品で間に合うくらいに優良で、特にこのクレイドル03店には随分な間お世話になった。
 主にギターの弦の補充やピアノの調律でだ。今でこそ自分でやってるけど、昔はギターもよくチューニングしてもらったっけ。
 覚えていた場所になかったからとうとう無くなってしまったのかと残念に思ってたのだけれど、なるほど移転してたのか。まるで気が付かなかったよナイスだビューちゃん。
 早速近くのエレベータで第二階層に上がり、はやる気持ちを前面に押し出してフォースサラウンドに突撃する。
 そしてお母さんに断りを入れて車椅子から離れ、いろんな意味で老舗っぽいごちゃごちゃ感を出している店の中に奥に駆け込んでいく。
 今日は、いるのだろうか。いや休みかも。もしかしたら別の人に変わっているかも。なんて、そんな心配事はすぐに消えた。
 店の中心部にある小さなサービスカウンターにいた、白ひげ蓄えた色黒のスキンヘッドおじさん。
 眠ってんのか起きてんのか分からないくらいの細目で見た目ぽけーっと店内を眺めている姿は、わたしが知っているそれからまるで変わっていなかった。
 本当に眠ってるのかも、と横からそろりそろり近づいてみようとして、直ぐにぬるっとこっちを向かれる。うん、やっぱ起きてたわ。
 わたしに気付くなり昔と変わらない仕方で「らっしゃい」と挨拶をしてきたこの人こそが、クレイドルにいた間わたしが持つ楽器の殆どの面倒を見てくれた、この店の店主さんだ。
 店主さんもわたしの事を覚えていて、幾年姿を見なかったけど何処か行っていたのかとか、楽器のメンテはちゃんとやっているか、あのクソみたいなギター少しはどうにかなったのかとか色々と話題を振ってきた。
 わたしもそれに答えつつ、お店が移転した経緯やら他に何か変わった事なかったかどうかやら、ついでに客足はちゃんと“あるのか”も聞いてみた。
 とりあえず最後のやつはめっちゃ渋く「ほっとけ」と言われて即切られた。
 ちなみに今でもピアノやギターは割とやっているし、メンテもしっかりしているつもりだ。
 なんせ聞いてもらってる相手が割といるからね。ピアノに関しちゃ最近はシンセ使う事も多くなってきてるわけだけど。
 そしてその話をしてた最中、店主さんが時々「ほぉー」だの「へぇー」だの相槌を打ちつつ終始ニヤ顔で聞いていたのが頭に残った。
 単純に元贔屓が元気に楽しくやってるのを嬉しがってるのか、青二才がいっちょまえな事言ってんなオイ的なのを皮肉ってるのか、どっちなんだろう。性格的には後者な気がする。
 そんなこんなで会話を弾ませていた時、端の通路から出てきたお母さんが見えた。
 お母さんもこちらに気付いたようで――そして目線をわたしの後ろ、店主さんに合わせて軽く会釈をした。
 店主さんも合わせて僅かに首を折り曲げる。顎があんまり引いてないのはそーいう柄なのか。
 お母さんがまた商品見物で通路の奥に消えた後「あの人と知り合いなのか」と店主さんに聞かれ、「お母さんです」と素直に答える。
 すると目を見開いてぎょっとした表情で「マジか」の一言。
 え、いや、そのマジかは一体何に対してなのさ、ちょっと。ああくそ適当にはぐらかされちったよちくしょー。
 
 そして、話し始めてからゆうに1時間くらいは経った頃、お母さんがそろそろ行こうと呼びに来てくれた。
 適当に店主さんとの話を切り上げ、一応何も買っていかないのは悪いから、ギターの弦の予備をいくつか購入する。
 今はクレイドルに住んでた頃使っていた弦とは違う弦を愛用しているから、これでいいのかと店主さんに確認された。
 うむ、それでいいのだ。そっちの方が単純なニッケル系の弦より音がくっきりはっきりしてる気がするからね。そーゆう違いが何となく分かるくらいには成長してんだよ?
 と、また長話になりそうな所をビューちゃんがブザー連打で制した。
 もう少し経てば日暮れが始まる頃となる。タイムリミットが少しずつ近づいていた。
 店主さんはささっと会計を済ませ、弦の入ったレジ袋をわたしに渡す。その時に「今度はギター、聴かせてくれよ」と言ってくれた。
 その今度は、一体いつになるんだろう。今のところ、次来る予定は立ってない。
 でも、その言葉のおかげで帰ってくる一つ理由が増えた。向こうもちゃんと覚えててくれるかな。
 
 
 
 
 フォースサラウンドで予想以上に時間を使ってしまい、タイムアップまであと少しとなった。
 一応見たいお店は大体見終わっていたから、お母さんはご満悦そう。わたしも内容に不満足は無いけれど、ちょっと無駄話しすぎたなと反省。
 ビューちゃんもスケジュール気にしてるし、ぼちぼちターミナルに向かおっか――そうお母さんに言うと、
「なら、最後に行きたい場所があるのだけれど。ターミナルのすぐ上だから、付き合ってくれない?」
 変わらぬ調子で、そう持ちかけてきた。
 断る理由も無かったから、半分無意識でそれを聞き入れる。ビューちゃんも特に異議なしみたいだ。
 お母さんはわたしたち二人が同意したのが分かると、わたしに車椅子から手を離すよう促した。
 そして電動機のスイッチを入れ、車椅子からクォーンって感じの稼働音が鳴る。
 へぇ、今の電動車椅子ってこんな音するんだ、すごいな。
「行きましょう。時間、あんまりないから」
「あ、うん、そだね。……え、そうなの?」
 左手でコントロールレバーを握り、右腕の腕時計を見ながらわたしを急かす。
 いや別にシャトルの時間までは余裕あるんだけど、そこまで時間掛かる事なのかな。
 疑問を投げようとしたけど、お母さんは既にレバーを前に傾けて車椅子を進めていた。
 しかも、そこそこ速い。健常者の早歩きと同じぐらいかそれ以上に速度が出ている。少なくともわたしが押すより全然速いのは間違いない。
 追いつこうと焦って駆け出そうとして、横切ってきた他人にぶつかりそうになった。一言さっと謝りを入れて、急いでお母さんについていく。
 お母さんの方は、人混みも何のその、車椅子を巧みに操ってすいすいと抜けていっていた。
 普通に足で歩くより移動力あるんじゃないかな。なんというか、アレに対して初めてズルいと思った。
 
 
 そうしてたどり着いたのは、中央ブロックの前部分。普通ならクレイドル運営の関係者しか立ち入らないだろう、中央部の僻地。
 モールから外れ、ここに来た時は、お母さんが何処に行きたがっているのか全く想像が付かなかった。まさか、流石に操縦区には行けないだろうし。
 頭にハテナを浮かべながら大人しくお母さんについていくと、黒くてでっかいドアが目に残るエレベータまでたどり着いた。
 中自体も相当な人数が入りそうな、特段大きい奴だった。
「今まで一緒に行く機会がなくてね。真理ならきっとっ……気に入ると思う」
 エレベータの中、お母さんが少し体を起こし、少し捻った上で大きく腕を伸ばして最上部のボタンを押しながら言う。
 見れば他のボタンは動いてないみたいだった。今行けるのはお母さんが押したトコだけだ。
 ゆったりとしたGをわたしたちに与えながら、エレベータは階を昇っていく。ほんの数階なのに、目当ての階に着くまでちょっと長く感じた。
 そしてお母さんが行きたがっていた階、そこに繋がったドアが開いて――
「……わっ、わっ! うわーっ! ナニコレ、すっごぉーいっ!!」
 わたしの目に入ってきたのは、だだっ広い空間の奥、見える枠一つなくひたすらに横へ長く続く展望窓の向こう、夕陽を浴びて煌めいているオレンジ色の雄大な夕焼け空。
 そんな景色を前にしてじっとしてられる訳もなく、わたしはすぐにエレベータを飛び出して展望窓の直前まで走った。
 間近に見れば、また凄い。眼下に見える雲すら黄金色に光り輝いて、その組み合わせはまさに絶景と言うしかなかった。
「クレイドル中央部、操縦区直上の展望スペース。昔は結構な人気スポットだったんだけれどね、今はこの通り」
 後ろからゆっくりと近づいてきながら、どこか懐かしげに言うお母さん。確かに、こんないい場所なのに今はわたしたち以外は誰もいない。
 小さな催しの一つでも開けそうな場所を、事実上貸し切り状態だ。
「どう? 感想は?」
「いや……凄いよ。すごい…! こんな風に見えるんだ。知らなかった」
「そう。良かった、気に入ってくれて」
 お母さんの問いに顔を向けず、食い入るように目の前の空を眺めながら答えるわたしの姿を見てそう思ったんだろう。お母さんの満足した声が聞こえた。
 そりゃそうだよ。こんなの、気に入らない訳ないじゃん。
 滅多には見れないだろう情景に息を漏らし、展望窓手前にそえ付けられた手すりに組んだ腕を乗せる。そして、ただぼうっと見る。
 お母さんも、そしてビューちゃんも、ただ静かに、みんなで同じものを見ていた。
 少しずつ、どこでそうなったか分からないような早さで姿を変えてゆく空と雲。特に日の光を受けて彩られた空の色は、夕から夜のそれへと変わっていく。
 茜と群青の階調、黄昏のグラデーション。いつか小さい頃に映画で同じようなものを見た気がするけれど、それと同じくらいか、それ以上に綺麗に見えて、多分ずっと目に焼き付くんだろうと思った。
 そういえばこういう光景の事を、あの二人は何て言っていたっけ。
「かはたれ時ね。懐かしい、ずっと見ていなかった」
 考えて間もなく、その答えはお母さんの口からふいと出てきた。何かがほんのちょっとだけ違う気がするけど、でも確かにそんなカンジだった。
「前にも、こういうの見た事あるの?」
「ええ、ここではないけれどね。真理がまだ生まれてなかった頃、あの人と一緒に」
 在りし日を、かつてあった今より幸せの日々を偲ぶように、お母さんはかはたれ時の空を――違った。そのずっと先の、悠遠の彼方を見やった。
 見えないもの、見えるはずのないものを見ている。もしくは、それを見たいと願っているように見えて――
 
「――私はね、真理。正直、今からでも止めたいの」
 
 唐突に、だけどゆっくりと、今までかはたれ時の遥か向こうを望んでいたお母さんの視線がわたしの方へと向けられた。
 少し悲しそう、いや寂しそうな笑みを浮かべていた。
「当たり前でしょう? 戦争に行きたがる我が子を、喜んで送り出す親なんていないわ。真理の言う目標だって、命を懸けてまで果たす事じゃないって思ってる。それよりもここで、普通の女の子でいてほしいって、生きててほしいって思ってるの。あの時から、今日までずっと」
 ひどく淡々と、落ち着き過ぎだとも言いたくなるくらい普通に、想いを語る。
 お母さんの言うあの時――多分、初めてリンクスになりたいと言う話をお母さんにして、最初で最後の、物が飛び交う大喧嘩をした――その時とは、全く正反対の諭し方。
 大なり小なり違う形ではあるけれど、同じような話は何度も聞いた。けど、このパターンは初めてだ。
 流れ星に向けるような、儚く切ない願い事を当てられてるようで、うっかり心が動いてしまいそうになる。
 だけど、お母さんと同じで、わたしもわたしで気持ちは変わらない。変えられない。それを、はっきりと、
「……ごめん、お母さん。それでも、わたしは」
「止まらないのよね?」
 伝えようとして、お母さんの言葉で制された。むしろ、先を言われた。
 完全に虚をとっつかれて口が開いたまま止まったわたしをお母さんは「ふふっ」と笑って、終わりかけの黄昏に眼差しを戻す。
「そうね、真理は昔からそういう子だったもの。普段は結構ふにゃふにゃしてるのに、一度決めたら変えない譲らないの頑固者。そんな真理が、お説教の一つや二つで止まる訳ないなんて、とっくに分かってた事なのにね。……ほんと、私たちによく似ちゃって」
――そう、思うでしょ? そんなお決まりの問いかけが自然に付いて来そうな、ここにはいない分かり切った誰かにも向けるような言い回し。
 それを聞いて、お父さんのドッグタグを軽く包み込むように握る。もう叶う事のないもしもを想像する。
 お父さんは、何て言うんだろう。やっぱり止めるかな。それとも褒めてくれるかな。多分、何も言わずに認めてくれるだけなんだろうな。
 在りし日の思い出と、夢と言うには幼過ぎる頃にお父さんへ語った憧れも一緒に想起しながら、そう思う。
「ねえ、真理」
 呼ばれて、同じく黄昏に向いていた意識をお母さんの方に移す。お母さんは手慣れたように車椅子を引いて、回して、体ごとわたしに向き直って、
「あなたが望むなら、行ってきなさい。そしてちゃんと帰ってきなさい。ずっと、ここで待っているから」
 静かで暖かな、それでいてしっかりとした微笑みを見せながら、そう言った。
 否定なんかなく、ただただ夢に向かう子の背中を押すように。その夢自体が歪んでいる行為だなんて分かっているのに。
 自分が愛した人はリンクスで、それを同じリンクスとネクストに奪われて、自分の子もまた同じ道を進みたいなんて言い出して。
 今の今まで気が気じゃなくてもおかしくないのに。
 それでもお母さんは認めてくれた。そして、帰ってきていいと、待っていると言ってくれた。
 気がつけばお父さんのドッグタグを包む手が握りこぶしに変わっていた。ふうっと息を吐いてから、優しく手の平を開けた。
「……分かってる。うん、分かってるよ。絶対、絶対帰ってくる。……当たり前じゃん」
「…そっか。そうね、当たり前ね。わざわざ言う事でもなかったかな」
「ホントだよもう。いっつもいっつも心配し過ぎるんだからお母さんは」
「もう、誰のせいよ」
 身に覚えありすぎの一言に、わざとらしく笑ってごまかす。すると釣られたのか、それともウケちゃったのか、お母さんも静かに失笑する。
 ひと時の重い空気が嘘のようになくなって、わたし達はまるで何もなかったように笑い合った。
 優しく輝くかはたれ時の空をバックに、方や静かで上品に可愛らしく、方や大口開けて豪快で快活に。
 こうなって、良かった。本当に良かった。笑い声と一緒に、今まで抱えてた色々な不安が飛んでいった。
 ああ、これなら。これならもう、何も怖くない。
 遠慮なく最高のスタートダッシュを決められる。もう、大丈夫だ。大丈夫なんだ。
 
 お互いに笑い終えた後は、また展望窓の外に目を向けた。
 空の光が少しずつ褪せていく。かはたれ時が終わり、夜がやってくる。
 それを、ただ見届けた。
 
 
 
 
 
 
「それじゃあ、ここでお別れだね」
「そうね」
 わたしが乗る地上行のシャトルの出発時刻、その1時間程前。わたしたちはターミナル・エリア内の保安検査場まで降りてきていた。
 ここから先は、このクレイドルから降りていく人しか入れない。映画やアニメのような「見送りはゲートで」なんて時代はとうの昔に終わっている。
 だから、お母さんはここで終点。その場に止まっているお母さんを後ろに、いくらか検査場の入り口へと歩を進めて、振り返った。
「今日、ありがとね。急だったのに」
「いいのよ。でも、今度はちゃんと連絡入れてね」
「……うん、そうする」
――その今度は、いつになるのかな。随分先の話になりそうで、少し寂しい気持ちになった。
 またしばらく、直には見れなくなるお母さんの姿を、目に焼き付けるようにじっと見つめる。お母さんも動かずに、ずっとわたしを見ていた。
 だんだんと、目頭が熱くなるのを感じる。色々な感情が、心をつんつん突いてくるカンジがする。
 あ、やばい、これ、泣き、そう。
「真理」
 細く、それでいてはっきり聞こえる声が耳に入って、堪えようとうつむき気味になっていた顔を起こす。
 目の前にはお母さんがいて、両手をわたしに伸ばしていて、引き寄せられて、
 そのままぽすっと、お母さんに抱かれた。
 中腰になって、頭はお母さんの顔の横。わたしを引き寄せた手は背中に回っている。一方わたしの腕はいきなりの事で固まって動いてない。
 言葉も出なくなったわたしを尻目に、お母さんはわたしの背中をやさしくさすったり、ぽんぽんしたりして、そして徐に、
「大丈夫よ。……大丈夫」
 耳元でそっと、そう呟いた。
 声にもならない声が、唇から零れ出す。震えて、ただ意味なく漏れていく。
 堪えがなくなって、涙が目から沸いてきて、やがて溢れて頬を伝わって流れていく。ぎゅっと瞼を閉じて、一気に払う。
 手をお母さんの肩に、背中に伸ばし、ぐっと身体を寄せる。頭と頭が擦れる程に近くなって、濡れた顔の上半分をお母さんの肩に押し付けた。
 しばらくそのまま、離れずくっついていた。お母さんは何も言わず、そのまま受けてくれていた。指で背中をとんとん、とんとんとしてくれながら。
「……ありがと。もういいよ」
 幾ばくかして、わたしはお母さんから身体を離した。実際は3分にも満たない短い間だったけれど、まるで何十分もハグしていたような、そんな気分。
 わたしが抱擁から抜けてすぐ、お母さんは少し後ろに下がった。元よりかはちょっと前だけれど、距離自体は元と変わらないくらいに。
 まったく、最後の最後まで手間掛けちゃったな。わたしには勿体ないくらいだよ、お母さんは。
 甘えきりな自分を鼻で笑って、わたしは再び保安検査場の入り口を向いて、歩き出す。
 
 
「――行ってらっしゃい!」
 
 
 後ろから、大きな声が聞こえた。何の事はない、家から子を送り出す時の、当たり前の言葉。
 ならと、少しだけ顔だけ見返して。まるでちょっとそこまで、あるいは学校にでも行くかのように。
 それの通り、帰ってくるのが当然だと伝わるように、満面の笑みで、答えた。
 
 
――行ってきまーす! と。
 
 
 
 
 


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