Written by へっぽこ


こうして私は病室を後にする。

寝たきり首輪付きをベッドごと連れ立って、案内された先は病院の地下、薄ら寒い霊安室であった。
壁一面に入り込む形で、引き出し状に設置されている死体安置箱の、うち九つが引き出されていて、なにやら改造を施されたらしいコード群がまるでクモの巣のように、床をおおっぴらに覆いつくしては、部屋の中央に鎮座する小型冷蔵庫大の黒い六角柱に繋がれている。
そしてその六角柱の周りにはあれこれ、ごてごてと剥き出しの機械群が無造作に並べられ、病院にはおよそ似つかわしくないエンジニアと思しきツナギ姿の男がなにやら作業の真っ最中であった。

ふと見た解剖台らしき長机の上にはこれまた仰々しいパソコン……のような何かが一セット。繋がる五つのモニターのうち四つは、わけのわからない暗号文で塗りつぶされ、残る一つは真っ白に焼きついていた。
全ては一見して突貫工事甚だしい、無骨で素朴な出来栄えで、死体安置所は今やこれ異常ないマッドな研究室へとなりさがっていた。
ダンはベッドからあいつを抱き起こして、コードの延びる引き出された死体安置箱の一つ、一番と書かれたラベル代わりのガムテープが張られたそれに彼を横たえた。

「コフィンエンジン」
と、ダンが言う。
「シンクロを主とするAMSを一段掘り下げた、多人数の意識集積と統括、そして潜入を目的とするプログラムを走らせるシステムの総称だ」
言いながら、ダンはあいつの入っている一番の箱の隣、二番の箱に手をかけた。そこには、誰とも知らぬ女性が横たわっていた。
「ハードもソフトも、イカしたネーミングまで、全部彼女の作品なんだよ」
と、ダンは彼女を見つめながら言う。
“彼女”それは。
「……アブ・マーシュ」
ウィン・Dが呟く。というか、彼女も“作戦”に参加するようで、どうやら、先の勧誘はウィン・Dにまで及んでいたらしい。
「なんだ面識があるのか」と、ダン。
「いいや、初対面だ」と、ウィン・Dは首を振る。
しかし白い難民を受け入れた事実と、現在のダンが乗っているネクストを見れば、後ろにいる天才が誰であるかは察しは付くというもの。

「まあいいか。さて、そんなわけで。このシステムだけれど、管理には彼女の頭脳が必要でな。そして繋がることのできるのは、ネクストを起動できるだけのポテンシャルの持ち主――と、ナニカサレタ人間だけっていう汎用性の無さで、未完成もいいとこなんだけども。」
ともかく、とダンは装置の概要を早々に切り上げて。
「彼女が待ってる。ブリーフィングは“中”でするから。着替えがすんだら早速“中”へ入ってくれ」
言いながらジャケットを脱ぐと、患者衣のような衣服(というかそのもの)に着替えを始めた。
同じものをダンのオペレータが両手に携えてやってくる。
差し出されたそれを私は受取って、室内片隅に設置された仮設更衣場へと促す彼女をもっぱら無視して。
ヒールを捨て、時計を取って、シャツのボタンを外して、タイトスカートを下ろして、ストッキングを脱いで、
「下着も脱いだ方がいいのか?」
ブラのホックを外して、パンツのゴムに指をかけながら聞く。
「あーえっと、はい、一応、お願いします」
と、若干引き気味にどもるオペレータをよそに私は着替えを続行、ぺらぺらの布切れを張り合わせただけのような患者衣をまとう。
最後に髪留めを外し、自由になった髪を両手で首筋から後ろに、流すよう払った。

すでに着替えを済ませたダンは、いつの間にか五とナンバリングされた箱の中に身を沈め、そこから顔だけを出して。
「あんたらはそれぞれ六番と七番の箱を使ってくれ」
一にはあいつ。二にはアブ・マーシュ。三と四には――。
「箱の中にあるヘッドセットをつけて、ていうか、通常のAMSと同じ要領で“眠れ”。それじゃあ、また中で」
と、簡潔に。それだけ言ってダンの顔は箱の中に消えた。

使用する箱の番号はウィンが六番で私が七番。
箱の中には若干の粘度を持った無色の液体が流動しており、横たわると耳の裏までがそれに浸かる形となった。その液体は生温かった。
ヘッドセットをつけると、ぱちゃぱちゃ、とか、こぽこぽ、といった液音の一切が消えた。
代わりにとばかり、無音であるがゆえの耳鳴りが頭の中を駆け巡って、もう、ずっと忘れていた感覚を掘り起こされて、――圧迫される。
人の形を考えると、どうやっても収まらないであろう箱の中に、無理やりに手足をもいでギチギチに押し込められるかのような、そんなイメージ。
空気すら、この場においては隔壁だった。自己と現実(からだ)が乖離する。
ああ、私は、今から戦いに行くのだ、と、その時感じた。
きっと、これが最後の戦争になるだろう。私にとって。
そんな予感がした。

――――さあ、眠れ。

     /

>0階層にはアブ・マーシュがログインしています。
>0階層にはメイ・グリンフィールドがログインしています。
>0階層にはエイ・プールがログインしています。

     ◇

>0階層にダン・モロがログインしました。
>0階層にウィン・D・ファンションがログインしました。

     / →0階層にセレン・ヘイズがログインしました。

入ってまず私は“体”と意識のずれを確かめた。手をぐーぱーぐーぱーしてみる。ラグはない。
AMS自体、とても、久しぶりであったので、少しだけ不安もあったのだが、どうやら滞りなく繋がることができたらしい。
「やっほー」
という声。見ればエイ・プールが手を振っている。
その傍らでは、なにやら思案顔のメイ・グリンフィールド。一度、こちらに視線を寄越すと、にこり笑って、さらり片手を上げてみせた。
一番から四番までは満席だとダンが言っていたが、アブ・マーシュとあいつを除いた残り二席はどうやら彼女たちであるらしい。
一寸先にログインしたダンは、すでに彼女たちの側にいて談笑している。その光景に私は―――。
ぽん、とウィンが私の肩を叩いて、私は促されるそのままにエイたちと合流した。

私は。
私たちは今、まっしろな空間の只中にいる。
上も下も真ん中も。まっしろ。
ただひとつ、ぽつんと置かれた普通に普通なオフィスデスクの、その机の縁に腰掛けて、片手に煙草を燻らせながら、組んだ足をぶらぶらと、所在無く、退屈そうにする女。アブ・マーシュの姿がそこにはあった。
一瞬、こちらを見遣り、ウィンの姿に眉をひそめ、ダンを表情険しく睨む彼女であったが、すぐ諦めたように、また退屈そうな顔をするそんなアブ・マーシュと、対面する。
1対5の形。管理者は彼女であり、この場においては親と子の関係にあたる。

「―――君は夢を見たことがあるかい?」
と、アブ・マーシュは唐突に切り出した。
私は「ある」と答えた。が、聞いているのかいないのか。
ともすればうつろに、あるいは先の問いは、彼女にとってただの独り言のようなものだったのかもしれない。
アブ・マーシュは語る。視線を誰にも合わせようともせず、中空を物憂え気に見つめながら。
「夢を見ているとき、いや、“夢の中にいるとき”、そこには主体があっただろう。夢の内容は問わないよ。どんな荒唐無稽なものでも、破廉恥極まりないものでも、この際内容はどーでもいい。舞台の支離滅裂さは関係ない。重要なのは、夢の世界はいつだって一人称だってことだ。お菓子の森にいる“私”。対悪魔の戦場を駆ける“私”。そんな意味不明な世界を遠く俯瞰する“私”。
 つまり、そこには確かに主体が存在するんだよな。」
吸うタバコの伸びた灰が崩れ、ノイズと共に消える。彼女は続けた。
「私はね、精神には核があると思うんだ。それは自我や意識とは関係の無いもの。
 悲しいと思っている一方で面倒くさいと思ったり、こうしようと思って実際にはああしてしまったり、とか。
 人間は一枚岩じゃあ決してないからね。複雑に、ひどく入り組んでる。
 ほら、腸とか特にさ」
ぽんとおなかを叩いてみせるアブ・マーシュ。けらけらと笑う。
「けれどね、いくら複雑に入り組んでいると言ったって、そこにはやはり核となるものがあると思うんだ。
  私は。
  私と言う存在を、“わたし”足らしめる核が、自分の中にあることを知っている」
煙草の煙でわっかを作るアブ・マーシュ。それはそれは退屈そうに。ぷかりと浮かぶ、白い浮き輪。

「……すまない。能書きはいいから。作戦の概要を教えてくれないか」
私は首を一度左右に振り言った。しかし。
「ふん。せっかちだな。ダンしかり、リンクスってのはみんなこうなのか?」
やれやれだ―――と、飄々呟くアブ・マーシュはあくまで淡々と、ペースを乱すことなく。
左手を持ち上げて、「リスト」と呟いた。
ザザ、とノイズが走って、それは“構築”された。
何も無かった彼女の左手には今、灰色のファイルが一つ。
組上げられて、彼女はそれにさらり目を通し、そのファイルと私たちを交互に見やり、なにやら納得しいしい、ふんと頷いて、そのままひょいとファイルを投げ捨てた。
ファイルは彼女の手を離れると同時に分解され、―――分解され分解され分解され、ノイズと幾何学模様なモザイクを空中に撒きながら消失した。

「結論から言ってしまうと、あんたらにはその、“意識の核”を探してもらう。首輪付きを首輪付き足らしめる意識の核ってやつ。それがきっと、ヤツの精神世界のどこかにある。それを見つけ出せよ。見つけてみせろよ。」
“――カスミ・スミカ”
台詞の末に名前を呼ばれた気がした。それも、とうに捨てた古い名で。
いや、気のせいかもしれない。うん、勘違いだろう。アブ・マーシュの説明は続いた。
「ま。核を見つける。と。口で言うのは簡単なんだがね。」
足を組みなおし。
「―――いいかい。ここで問題になるのは、その核ってのがどんな形で、あるいはどんな生き物であるかは分からないってことだ。
 まんま本人、人かもしれないし、全然別の物かもしれない。どころか、形なんて無いのかもしれない。空気とか、音とか、風。そんなものであるかもね。ヤツが“僕だ”と称する何かを探すのさ。」
正直、私はイライラしている。
先に進まないことに対して、アブ・マーシュの態度に対して、イライラしている。
いらいらいらいらいらいら。

「……ああ、さっき夢の話をしたね。思うのだけど、夢の中で出会う他人とは、一体何なのだろうね。自分の中にいる自分以外。それって―――」
「いいから。さっさと始めよーぜ!」
と、アブ・マーシュを遮り、切り出したのはダンであった。
はーいはい、とアブ・マーシュ。
ノリ気じゃないのは目に見えてるが、それでもダンの言うことには逆らわなかった。
ぽいと投げ捨てたタバコは、空中でモザイクに飲み込まれて消えた。
そして、今の今までタバコを摘んでいたその指でもって鳴らされる、パチン、と、いう音。
アブ・マーシュは、そのまま、その腕を真横に伸ばして。
ぴっと人差し指を伸ばして――。
指し示す先。見れば、いつからそこにあったのか、いや、今この瞬間に現れたのだろう。
そこには、鋼鉄の扉が立っていた。

なんとも、重たそうで、堅牢で。入ること、開くことを良しとしない意思を感じる。
「“向こう側”で首輪付きの核に触れろ。ラインが通れば引き抜ける。引っこ抜くために、私でもって、私を介して、こうしてフィルタリングしてヤツに繋がっているんだ。今いるここは私の中だ。この空間こそ、私の夢なのさ。そして、あの扉の向こうが首輪付きの中になる。」
真っ白い、この空間が、アブ・マーシュの中、なのか。アブ・マーシュは続けた。
「君たちは生ける釣り針だ。それは意識のね。
 だから忘れないで欲しい。糸が切れると引き抜けない。
 ああ、それから――もう一つ」
アブ・マーシュの後ろ。それは突然に。
まるで、彼女の背から羽が生えるかのように広がる、ひとつ三十インチほどのモザイクの連なり。

「知っておいて欲しいことがある」
それらモザイクひとつひとつがモニターと化す。
ひどい砂嵐に頭がずきずきする。どす黒い感情がアブ・マーシュの背負う“モニター”から溢れている。
そして点る映像。垂れ流れる数多のシーンを背景に、薄ら寒い笑みを湛え、アブ・マーシュは冷たく冷たく言い放つ。
時間と場所の入り乱れる無数の光景の中で、

「私は首輪付きが大嫌いなんだ」

私は、白いカラスの失墜を見た。

―――ぱつん。
と全ての映像が閉じられる。と同時にモニターもあっさりと消え失せた。
見ればアブ・マーシュの片手にリモコンが握られている。赤い電源ボタンに親指が乗っていた。
そのリモコンも、アブ・マーシュの手を滑り落ちると、地面に到達するより早くノイズにまぎれて消失した。
「でもね、今の世界は好きなんだ。
 だから“君たち”を失いたくない。」
瞬間、アブ・マーシュと目が合った。が、次の瞬間にはまた所在投げに視線を泳がして。ただその口だけははきはきと動いていた。
「均衡が崩れるのは恐ろしいよ。平和は大事だろ。何よりね。
 ……私はね、首輪付きなんて、もう終わっちまった存在よりも、本当は君たちを優先したいんだ」
君たち。それに私は含まれていない。

わかっている。アブ・マーシュの言っていることは正論だ。
その昔世界を相手に戦ってきた彼らにとって、この作戦は驚くほど個人的な、小さい小さい戦いだ。
大義は無い。これは個々の、突き詰めれば私欲の戦いに他ならない。
「そういうわけだから、向こうに行く無謀な輩には“首輪”を付けさせてもらう。それが私との繋がりだ」
カタカタとバーコードが浮かぶ。ちょうど、私と彼女の中間あたり。
ノイズとモザイクに隠れて、姿を現した小さな円卓のその上には、赤い首輪が五つ、並んでいた。

「このコフィンエンジン。本当はまだまだぜんぜん未完成なんだ。燃費悪いし、そも電力が足りていない。病院の非常電源を全てこちらに回してもまだ不足している。自前の簡易式ジェネレーターを用意はしたがパワー不足は否めない。
 それから熱の問題もあってね。搭載されているラジエーターではそもそも長時間の使用に耐えない。
 まあ、もともと長時間入り込むことは危険行為だ。取り込まれるか、混ざるか、逆に取り込んでしまったり、とか。
 ともかく。自分自身を失しては問題外だから。
 忘れるなよ。時間の流れは相対的で、個人個人まちまちで、およそ知覚はできないだろうが、それでも有限だ。
 リミットがくれば結果や過程がどうであれ、引き戻す。強制的にね。
 了承はとらない。権限は全て私にある。私がやばいと感じたらこの作戦は終わり。嫌だと言うなら、私は手を貸さないよ。
 とはいえ。もちろんやれるだけのことはするさ。」
ふう、とこれ見よがしに息を吐いて、
「それがダンの命令だしね。」
と、彼女は下を向いたまま言った。

「……さ。了解したなら、リードを預けて首輪を付けたまえ。
 その首輪が要なんだ。安全装置を兼ねている。首輪で持って、私はここであんたら全員をトレースしモニターする。
 必要なら“呼んで”くれてかまわない。オペレーターと思ってくれればいい。
 用意できるものは用意しよう。君たちを送るように、私の知識を送ることで、ある程度は物体も構築してあげる。ただし、向こう側では首輪付きの常識に縛られる。だから、何でもかんでもってわけにはいかない。“中”はヤツの感覚に依存する。ヤツの常識が、一切のルールだ。
 それから、仮に。万が一、向こうで死ぬようなことがあったとしても、安心していい。安全装置が働く。接続が切れるだけで意識は引き戻されて終了だ。問題はない。
 ―――ただし。」
と、言を切って、アブ・マーシュは人差し指を立てた。

「ただし、それはラインが私と繋がっている場合に限られる。そこだけは注意しろ。潜りすぎて、糸が切れたら引き上げられない。
それに深く潜れば、“逆流”を招く。
 これはもう概念の話で、実際にはあんたらの感性に頼るしかないんだが、忠告はしておく。
 
“一線は越えるな”。

 いいね。やばいと思ったら引き返せ。その行動、逃げの思念はそれだけで自我を保つ盾になるよ。
 深海の魚はどうあっても釣り上げられない。諦めは肝心なんだ。以上。――質問は?」

私は無言のうちに、赤い首輪をつけました。
ウィンも。メイも。エイも。ダンも。みんな首輪をつけました。
少しだけ息苦しく感じたが、きっとすぐに慣れるでしょう。
「――よろしい。それじゃあ、まあ、気を付けて」
ぱん、と一つ、高らかに。
拍手が鳴らされて、鉄の扉が開かれる。
不思議なことに、開いているはずの扉の向こう側が見えない。
濃い霧がかかったように。ぼんやりと揺れている。
私は踏み出した。

そうして。
私たちは、彼の中へと踏み込んだのだ。

      /* →第1階層にダン・モロ、他4名がログインしました。

扉を抜けると、そこは喫茶店であった。振り返ると、すでに扉は消えていた。
ねちょっとした感触が足裏を伝って、見れば床にはくっきりと赤い汚れが残っていた。しかも生乾きである。

やれやれ。あまりにいきなりで、初っ端からこれかと思うと気が滅入る。
のど元まででかかったため息を飲み込んで、オレは一度あたりを見回した。
床のそれを除けばそこは、以前来店した時のほぼそのままであった。ただ一点を除いて。
見覚えがある。一度来ただけだけど、柱にはくっきりとオレのサインが刻まれていた。
ふむふむ。
気まぐれに玄関の扉のノブを回してみる。鍵は掛かっていないのに、扉はびくともしなかった。
オレはノブから手を離した。

喫茶店まよいねこ。
どうやら、それが現実にもっとも近いあいつの表層風景であるらしい。
まさに現在のステージ。たしかにエントランスにはふさわしいかもしれない。
ただし、ここにあいつの姿はない。何かそれにあたるものも無いようである。
気配が無い。何も。
あるのは赤い血だまり。たったそれだけ。
それはつまり、あいつが今を生きていないってことの証なのだろうか。

「早速だが、階層を一つあげよう」
と、オレは言う。
皆一応にこの喫茶店をうろつきながら、赤い足跡を残しながら、見て回って(特にウィン・Dははじめて来たのではなかろうか)、しかし異論は無いようで。
「玄関。そこの扉を開けて欲しい」
と、オレは続けた。
「あんたにな」
指を刺す。セレンに向けて。

「誰が開けるか、それは重要なこと?」
メイがふとした疑問を口にする。なかなかに鋭いようで。
「ああ重要だね。当然だ。ここはすでにあいつの夢の中なんだ。オレたちは今あいつの心に土足で入り込んでいるんだよ。波風立てたくないなら、あいつに最も近しい存在に先導してもらうに限る。なにせ――」
なにせ、オレには開けられなかったんだ、とはこの際言うまい。
「いや。ともかく、セレンさん。あんたに先導して欲しい。あいつを一番知っているのはあんただろ。違うか?」
その問いに一瞬、セレンの泣きそうな顔を見た、気がした。
平然として、あるいは平然を装って、こくり頷き玄関へと歩むセレン。

と。
唐突に店の角のスピーカーが、がーぴーとノイズを吐いた。
《あー。あー。テステス。聞こえてる?》
無線越しのような不明瞭さでもって、アブ・マーシュの声が店内に響いた。
「あー聞こえているよ」
どこに返事をして言いかわからないので、とりあえず天井に向かって返事をしてみる。
《さっき渡し忘れていたんだけど、カウンターにヘッドセットを用意したわ》
「これのこと?」
カウンターに一番近かったエイ・プールがイヤホンタイプのヘッドセットを摘み上げた。

それから。各々それを装着し、
《回線は常にオールフリーで開けておく。それがあれば私だけじゃなく、リンクしてる全員の声が聞こえる……はず。ま、上手いこと連携をとってくれ》
と、アブ・マーシュはそれだけ言って口を噤んだ。
「あーあー」と、エイ・プール。
「ほんとだ聞こえる」と、メイ・グリンフィールド。
涼しげに目を閉じて、無言で相槌を打つウィン・D。
そんな三人をよそに、セレンはさっさと玄関口へと歩みを進め、それに気が付いたオレたちも彼女に習った。
セレンの背中についていく。

本当のことを言うと。
セレンの手は借りたくなかった。
自分で何とかしたかった。でも、とてもじゃないが無理だった。やはり扉は開かなかった。
オレは、勝手に親友のつもりでいたけれど、向こうは案外、どうとも思っていなかった、のかもしれない。
真相は知れないが、割とショックだ。けれど、そんなことでしょげるオレではないし、そんなことで“親友と思っている”というオレ自身の考えを白紙にするつもりもない。

別にいいさ。
これから。
こいつが目覚めた後にでも、心の中に入り込めるくらいに仲良くなればそれでいい。
まだまだ、何もかも始まったばかりじゃないか。脱落なんて許さない。
オレの筋書いた物語にはあいつの存在が必要なんだ。確固たる“脇役”としてな。

では階層を下げよう。より深くへ。
セレンがドアノブに手をかける。
ゆっくりと。

その、
   ―――、瞬間であった。

稲妻めいたノイズが走る。その強烈さに、片手を頭に持っていき、耐える。
見れば扉がノイズとモザイクに侵食されていた。扉が溶けている。
いまだ開けてもいない扉、それ自体にぽっかりと穴が開いている。
その向こう側にはひたすらに闇が広がり、何も見えない暗黒にただ赤々とした点が二つ、浮かんでいるのみであった。
穴は広がっていく。見る見るうちに、そして、そこから何か、得体の知れないナニモノかの、――あれは、腕?
腕。
それは鉄の腕。
穴から唐突に伸び、ドアノブへと伸ばしかけていたセレンの手を掴む鉄の腕。

まるで肉をそぎ落とし、骨だけになった骸骨のよう。
金属特有の光沢を発する鉄色で、指の周りには赤と青のコードが血管のように巻きついていた。
腕の持ち主の姿が虚空より浮かび上がる。
「よう。――“オペレータ”」
腕だけではなかった。顔も体も、現れた男は半分が機械でできていた。しかも崩れかけている。
「いや、今はもう“元”なんだっけか」
左胸は鉄のアバラが丸見えで、隙間から赤い心臓がのぞいていた。まぶたの無い右目が赤く光っている。
「相棒が待っている。ついてきてもらうぞ」
バチ、という炸裂音が響く。
「――ッ」
瞬間セレンは力なく、鉄の男にしなだれるように倒れこんだ。

スタンガン。
いや、そんなものを持っているようには見えない。どうやらアレは自身に流れる電気を掴んだ腕から流したらしい。
セレンの腕がだらりと垂れる。意識は飛んでいるようであった。
セレンを片手で抱き留めた機械男の、その上あごと下あごをつなぐピストンが上下する。
男の口がゆがむ。邪悪に。機械男は笑っていた。
かろうじて肉の残っている左頬の、口先からぶちぶちと小さな断裂音が聞こえた。
口が裂けていく。それでも御構いなしに、機械男は笑っていた。楽しそうだった。心底、楽しそうであった。

男の笑いの中で、オレはこの異様な光景を呆然と眺めて――。
バン、という銃声に身をすくめた。
バン、バン、バン――。
続く銃声。撃ちながらにオレの横を駆け抜けるウィン・Dの背を見てハッとする。
電光石火、誰より早く、彼女は動いた。そして、彼女を追うように続くエイとメイ。
「ハハハハハハハハハハハハハハハハハハ」
機械男は笑い、ウィンの銃撃に頭や首からネジやボルトをぼとぼとと落としながらも、笑い、セレンを抱きかかえたまま、後ろに倒れこむように、溶けた扉の向こう側、闇の中へと溶け込んでいく。
「セレン!」
ウィン・Dは叫び、腕を伸ばして肉薄する。が、ダメだ。届かない。その手は、何を掴むでもなく空を切り、そして。
機械男はセレンを抱えて扉の向こう。追跡するウィン・Dは勢いそのままに、飛び込むように扉の穴へと溶け込んでいった。
続くエイとメイがそれを更に追いかけようとし、
「きゃん!」
がつん、という衝突音が響いた。
「あいたた」とエイ・プールがないている。
蕩けていた扉は今や平然と、もとの姿を保っていた。まるで壁のように。穴開きチーズはけやきになっていた。

タッチの差であったが、明暗ははっきり色濃く、立場は分かたれた。
引き込まれたセレンと、潜り抜けたウィン・Dと、タイミング悪くドアに体当たりするかのようにぶつかったエイ・プールと、その手前で何とか急ブレーキ、ドアノブをまわすメイ・グリンフィールド。
がちゃがちゃと乱暴にされるドアノブであるが、それは強固に。
「何で!? ダメ、開かない!」
頑固なまでにメイ・グリンフィールドを拒んでいた。きっと、それはエイ・プールでも同じだろう。
エイ・プールがぶつかった衝撃でカランカランと、さっきまでおとなしかったドアベルが鳴っていた。
その音はどこかあの機械男の笑い声のように聞こえた。

鼻を抑えながらエイ・プールは。
「いったい、どういう」
と。
《―― い、ど いうこ だ! セレ とウィ ・Dはど  行った!?》
エイ・プールに重ねるように、イヤホンをつけた左耳から飛び込んできたのは、ノイズ交じりに途切れ途切れの、切羽の詰まったアブ・マーシュの声だった。
その声を聞いて、ふと思いついたらしいメイがドアノブを離して、片耳のヘッドセットに手を当てながら、
「ウィンさん聞こえますか? 聞こえたら返事をして下さい。ウィンさん!」
呼びかける。しかし応答は無い。そのたおやかな声は、ただただここにいるオレたちの左耳イヤホンに廻るのみであった。
《――馬鹿な。切れて、る。》
アブ・マーシュの声にかかっていたノイズが晴れる。しかし、彼女は多くを語らなかった。

リンクが、切れたのだ。今やもう二人を引き上げられない。
引き上げるには、もう一度、彼らを見つけて繋ぎなおすしかない。
《ウィン・Dは。ウィン・Dだけは、絶対に繋ぎとめておかなきゃいけなかったのに》
まだ、始まったばかりなのに、いや、まだ始まってすらいないじゃないか、いやいや、そう思っていることが甘いのだ。
ここは当に夢の中で、あいつの中で。
《失敗した。セレンやメイやエイはどうでもいい。でも、ウィン・Dは格が違う。影響が大きすぎる。》
オレたちを前に本音を。それは声ではなく、心のままに垂れ流し、繋がるオレたちに染み込んでいることすら気付かず狼狽するアブ・マーシュ。
しかし。
そんなアブ・マーシュの乱心も、今のオレには届かない。

オレはオレの不甲斐無さに、否、自身の不甲斐無さにすら気付くことなく、今の状況にただ、“なんてことだ”と阿呆みたいな感想を持つばかりであった。
その感想は、誰に宛てたものでもない。
引き込まれたセレン・ヘイズでも、届かなかったウィン・Dでも、追いつけなかったエイ・プールでも、開けられなかったメイ・グリンフィールドでも、トレース仕切れなかったアブ・マーシュでもない。
オレ自身。一歩も動けなかったということが、“なんてこと”なのだった。

どうして、動けなかった。
位置的に、一番セレンに近かったのはオレなんだ。なのに。足は動かなかった。
息すら忘れていた。
膝が今頃になって笑いだす。歯がカチカチなっていた。
何だよこれ。何なんだよ、あいつ。
見たことも無い鉄の男。それはほんの数秒の邂逅であったのに、オレは圧倒されてしまった。
あ、まず――。

口を押さえる。
長らく、忘れていた感情が、這い上がってくる。
いや、這い上がるも何も、すでにどっぷり浸かりきっていた。
オレは恐怖していた。そして、恐怖していることにすら気付けず。
恐怖の対象が別の獲物に向いているのをいいことに、傍観した。
いや、その実、観えてすらいなかったかもしれない。
思考は停止していた。ただ立っているだけ。
何も観えていない。何も聴こえていない。何も感じない。何もできない。
足の震えが止まらない。
忘れていた恐怖という感情の重みを思い出す。

「オレは、こんな……」
無意識に後ずさる。
それは敗北に他ならず、そして恐ろしいことに、ことこの世界にいたっては、そんな弱者を、決して逃がしはしないのだった。
一歩。
後ずさって、後ろに踏み出したその足は、いつのまにか広がっていた血だまりに。
ずるりと、
「ぅわ」
足をすくわれ、滑稽にも後ろへ滑り転んだオレは、
―――ばしゃん。
と、なぜか床ではなく、溢れる液体の中に沈み込んだ。

ぬるぬるした赤い液体が体に絡み付いてくる。
視界が一面赤く染まって、もはやここは喫茶店にあらず、エイもメイも誰もいない、“誰もいない”、赤い海であった。
赤い空間に、たっぷりの赤い汁。
もがけどもがけど体はみるみる沈んでいく。ばしゃばしゃとオレは無我夢中に暴れる。
上も下もわからず、訳もわからず、ばしゃばしゃばしゃばしゃ―――。
ふと、ぐに、という感触をもって足が底についた。そうしてやっとこさ上と下の概念を得、立ち上がることができて、すっくと立ってみれば、液体は腰まで。またその水位はどんどん下がっていった。
はあはあとこれ見よがしに荒い呼吸を何とか整える。やがて干上がっていく液体はついに底にまで達し、―――オレが今立っている地を赤裸々にした。

それは、―――億を超える死体の群だった。
石畳ならぬ肉畳。
「ひ」
小さな悲鳴が聞こえた。オレの中から。
込み上げる吐き気に膝を突きかけ、しかし地面の気持ち悪さに崩れることを無意識に拒否する。
震える足にぐっと力を入れて絶える。
けれど途方も無い吐き気に反射で下を向いてしまった視界の中で、自身が足蹴にしている死体と目が合ってしまった。

それは、他でもない、“オレ”自身の亡骸でだった。

逆流が始まっていた。
オレは、あいつに、××されたのか?
頭をよぎる最悪(きおく)に目がくらむ。
息、息を、吸わないと。
―――ぅ、ぁ。

「あああああああああああああああああああああ―――あ、あれ?」
そうして、“オレ”は“目が覚め”た。
いや、まるで目が覚めたみたいだ、と表現した方が正しい。
気が付くと、眼前の赤は薄いオレンジへ。砂塵で霞む、広大な砂漠が広がっていた。
しかもオレの視点は地上より十メートルの高さを保っている。否や、それはオレの視点ではなくメインカメラ。
正しく、オレは今“いつかの砂漠”にACネクスト“アッシュ”でもって佇んでいた。
風が止む。
砂塵が晴れていく。
目の前に現れたのは廃ビルの林で、抜けた向こうにいるのは考えるまでも無く―――。

絶望が。呼応した。
“オレ”の絶望が、“オレ”の人生最大の恐怖を引き寄せたんだ。
なんとかなるさって、ずうっと言い聞かせてきた自分を打ち砕いた、逃れられない死の恐怖。
あの時は、時間を稼ぎに稼いで何とか耐え凌いだけれど、今、オレの隣には誰もいないんだ。
ヘッドセットはノイズしか拾わない。オペレータもいやしない。
目から垂れる何か。胃から込み上げてくる何か。
そして、オレは。
今、この場から逃げたい一心で。
ただ、ここにいたくない思いのままに。
無我夢中で。
コックピットに備え付けの、緊急用の拳銃を両手で握り、震える銃口を咥えた。

鉄の味がする。
まるで血をのような。鉄の味がする。
歯が銃身に当たってカチカチと音を立てた。
それから、オレはぐっと目を閉じた。
頭は、もう、赤色一色に塗り固められて、思うようにモノを考えることもできない。
オレは、負けたんだ。
あいつに。
そして。
静かに引き金を―――。

《この―――、ヘタレ野郎があああああああああああああああああ!》

カチン―――と、落ちた激鉄はしかし雷管を叩くことは無く。
代わりとばかり、耳を劈く罵倒にキンキンと頭が痛んだ。
銃弾が装填されていなかったようである。否、“抜き取られた”ようである。
滑り落ちた拳銃。
口の中を漂っていた鉄臭さがなくなった。
凍っていた心が、溶けていく。

耳鳴りがする。きっと、誰かさんが叫んだせいだろう。
《逃がさないぞ。もう誰も。誰のリンクも切らさない。お前もだ、ダン。聞こえているね?》
果たして、オレは一人じゃなかった。繋がりは、消えてなんていなかった。
声が聞こえる。アブ・マーシュの、声が聞こえる。
《―――なあ、ダン。かっこ悪いこと、あんまりしてくれるなよ。それは“今のお前”じゃないだろ。今のお前は、もっとずっとカッコいいだろ。》
ヘッドセットのノイズが消える。オレは涙を拭い、込み上げたモノを飲み下す。
『やっぱり、無理なのかな』
かつての自分の声がした。
《諦めるな》と、彼女は言う。
《ふん。これが例のアレか。オペレータとしては不足だが、全力でバックアップしてあげる。今こそ、その絶望を打ち砕け。いいか、もう一度言うぞ、諦めるな!》

思いのほか、熱い声。熱い言葉と心意気。
それは、いつか彼女が言えなかったものであるように思えた。
折れかけた誰かを、今度こそ支えて見せると、精一杯。
そんな感情が第五次元から流れてくる。
死んだように冷たかった肢体が熱を帯びる。
死んだように冷たかった精神が熱を帯びる。
危うかった。本当に。敵への恐怖から、世界(あいつ)の負感情に飲み込まれるところだった。
「サンキュ。アブ・マーシュ」
《フルネームで呼ぶな、恥ずかしい》
「ごめん」
《簡単に誤るな、気持ち悪い》
「……」

深呼吸を一つ。

さて。
さて、思い出す。オレの芯たる“ピラミッド”。
オレの中の、ヒエラルキー。トップに召しますヒーロー様、親友様と仲間たち。そして、最下層のオレ自身。

そうだ。確固とした順列、優先順位をはっきりさせているのがオレなんだ。
仲間のために、決して強くなくともネクストを降りなかった大戦時と、難民ひっくるめての大博打。
全てが全て、自分をないがしろに、自分以外を重んじての行動だった。
オレはいつだって、自分を殺してきたんだ。それがオレの自負だったはずだ。
自己犠牲の博愛主義者、というのはいいかげん、いいかげんな表現ではあるけれど。
今更、自分の死体にビビッてどうする。かっこ悪い。
今更、自分のヒエラルキーをもろとも壊して、銃口咥えてどうする。かっこ悪い。
そんな独りよがりは、違うだろ。
ああ、違うとも!
全然、こんなのはオレじゃない。
溢れる恐怖と、渦巻く絶望を、輝く友情で押さえ込め。

『――あんた、どう思う?』
それはいつか問うた若かりし日の自分自身。いや、今だって十分若い。エネルギーも満ち満ちている。オレは今でも人間だ。
ここは“誰か”の夢の中。
最大の敵は迷いと恐怖と、できないって決め付けてしまうことだ。
「なあ、どう思う?」
試しに今のオレは聞いてみる。かつて誰かに同じ事を聞いた。
《自分で考えろ》と、アブ・マーシュは答えた。
――なるほど。そんな答えもありかもね。
大きく一度、深呼吸。
見開いた両の目で、この先に佇むであろう巨大な目玉を背負った正体不明の鉄塊――絶望を捕捉する。

さあ行こう。
やれ行こう!
皆から受取った答えを押し出して、オレがオレであることを、今こそ、見せ付けてやるんだ。
負けてたまるか。
「負けて、たまるかああああーーー」
ちょっとだけ無様な雄たけびに、自分自身、心に灼熱の炎を灯して、アッシュのブースタに火を入れる。
がっくん。と、鉄の肢体(からだ)が動き出す。

―――その刹那。ふと音が消えた。
ホワイトノイズ。一瞬にして、あたりの動きが緩慢と、中空を舞う砂粒は秒速5センチにも満たない。
視界を覆う砂漠の艶やかなオレンジが、モノクロ灰色に落ち込んでいる。
時間が止まりかけているかのような、けれど思考だけははっきりとして、そして理解する。
オレは今“ノイズ”の中にいる。
動き出そうと、踏み出しだした瞬間、世界を覆ったノイズ。
静と動。迷いと決意に挟み込まれた栞のような、合間の時間。隙間の空間。
本筋を何光年も離れ、宇宙が一巡するほど遠い時から、それは届けられたのだ。

「怖くねーのか?」
と、誰かがオレを問いただす。
そりゃ怖い。ホントは逃げたいさ。
でもさ―――。
オレは答えた。胸を張って。
「ここで逃げたら、カッコ悪いだろ?」
重要なんだぜ。かっこよさって。
ああ、思い出した。
オレは、かっこいいと思う自分を追及したいだけなんだ――というオレの核を、精一杯抱きしめる。
「ナルシストめ」
と、質問主が悪態をついた。
ヒーローって得てしてそういうものなのだと、オレは思うよ。

クラウン形に飛び散る水の一滴。
そんなイメージが頭に浮かんで、隙間の世界は跡形なく。
砂が弾ける。
色が戻る。
モノクロはカラーへ。
サウンドは一段と大きく。
エンジンの回転とブースターの爆轟が鉄の体に速度を与えて。
廃ビルの林をアッシュは疾走する。

―――接敵まで、あと十秒。

     /* →第??階層にウィン・D・ファンションがログインしました。

精一杯、伸ばした腕、開いた手を戻して握る。
またしても、届かなかった。いや、またしてもと言っても“前”がいつの事であったかはもう思い出せないのであるが。
プツ、と、何かが切れた音がした、気がした。

潜り抜けた先。
扉の向こう側は宇宙であった。
とはいえ私は宇宙など言ったことがないので、ただのイメージの問題にすぎないというのが本当のところ。
何も無い、真に何も無い空間に、道が組み上がっていく。
それは積み木のように、部品部品がどこからともなく現れて、組み上がっていく。
そんなつぎはぎコンクリート道路に、私の足先が触れた瞬間、重力の存在に気が付いて、今の今まで自分が中空に半ば浮遊していたこと知った。

落下、といえるかどうかは微妙であったが、ともかく道路に着地。衝撃を四つんばいになっていなす。
その間も“場”の構築は進んでいく。道路の次は壁と天井。
カタカタ、ガシガシ、と、少しづつ組み上がっていく。
それは一本道の、なんの変哲もない地下トンネル“ギア・トンネル”であった。
先の喫茶店と同じ。ここは、彼のかつて通った道なのだろう。
しかし、今はそんな場についての考察は不要だ。

「おっとミスったね。まさかついて来れると思わなかった」
セレンを抱きかかえる機械男と対峙する。依然セレンは意識を失ったままだ。
私は“いつも”護身用に腰に挿している45口径を再び抜いて男に向けた。
しかしそれは、男を止めるに足る抑止力には程遠い。
機械男はハッと蔑むように声をあげ、
「この体に、そんなちんけな弾丸が通ると思うのかよ。まして――」
言うより早く、男の体をセレンもろとも、無数のノイズが覆っていく。
紛れて、明滅するモザイクの連なりが肥大化していく。
《――まして、この場において、いまだ生身であることに何の意味があるのかね?》
男の肉声が外部スピーカに切り替わる。
三次元幾何学上に広がったノイズとモザイクは今や見上げるほど大きく。
ただのキューブから削り出される線形、無秩序は少しずつ安定系へと収束し、およそ全長10メーター。

《面倒だ。あんたにゃここでご退場願おうか》

ノイズが晴れていく。
それは、一体のネクストだった。
鎖に縛られた女のエンブレム。
「……オールドキング」
敵の名をこぼす。
男は答えない。
ただ機械的に、振りかぶられる鉄の拳。
もはや逃げる余地は無い。
回避も防御もかなわない。
それでも、目を逸らさない。

幸いにも、私は人を相手に戦ったことが無いのであるが、しかし雑多な戦場では、もしかしたらただ歩行の一踏みに、人をそれこそ磨り潰したことがあるかもしれない、と、漠然思った。
叩き潰したことは無いが、踏み潰したことならあるのかも。
だが後悔はない。

だって。
だって、“私たち”がしてきたことは、決して無駄なんかじゃなく、間違ってなんていなかったのだから。

私は私たちを肯定する。
それを自己中心的だと嘲りたいならすればいい。
ただの自己満足じゃないかと糾弾するがいいさ。
むろん、いるであろう被害者に、もちろん同情はするけれど、私は決して謝らない。
私は存外、嫌な女なんだよ。
なればこそ、やられるならば、最後まで。嫌な女を貫こうじゃないか。
歯を食いしばれ。

高らかに掲げられたリザの鉄腕が、落ちる。天井が崩れ落ちてくるかのような錯覚を伴うほど。
ちっぽけな生身の人間(私)にとって、それは圧倒的な暴力だった。
目前に迫る重力加速度を上回る速度で振り下ろされる鉄腕を、私は睨み続ける。

そして。

「―――え?」
そして私は。
瞬間弾ける鉄の腕を見た。

彼(か)の鉄腕が、私の眼前で砕け散った。
それは閃光。私を死へと誘うネクスト(リザ)の振るった暴虐の拳をなぎ払う青色。
野郎の腕を根こそぎぶち抜いたレーザー。
機械男はその衝撃とダメージに絶叫し、踵を返して、いつの間にか出来上がっていたトンネル奥へと機体を走らせていった。
時速千キロ。
到底追いつけないそのスピードを前にしながら、けれど私の目はすでに違うものを見ていた。魅せられていた。
半ば呆然と、その場にしりもちをついて、見上げる。

もしかしたら。
初めてかもしれない。
そのレーザーを直に、この目で見たのは。
「……助けて、くれるのか?」
自然、私は“それ”に語りかけた。
……そうか。
思えば、ずっとずっと。お前は私と共に在ったのだったね。
傍らで膝を付いて、コアからフットペダル付きのアンカーを伸ばす、それは、私の――。
「レイテルパラッシュ」

おかしな話であろうと思う。
操縦者無しのネクストが人を助けるなんて、現実じゃありえない夢物語だ。
―――ああ、なるほど。
今は夢の中であったか、と、思い出す。
「存外、メルヘンだね」
それは、あいつに宛てたものか、それとも自分に宛てたものか。そんな言葉が口から零れた。
私は立ち上がって、アンカーに手を伸ばした。

中(コックピット)はいつもどおりで、私は私の席に付き、静かに彼女(レイテルパラッシュ)を自分にする。
肩のアクティブ状態のハイレーザーをスタンバイに戻して、私は腰を上げた。
歩く。
しゃんしゃんと、軽快な、いつもどおりの動き。
それから背のブースターを点火し、稼動脚を滑らせて、スピードを徐々に増していく。
トンネルを奥へ奥へ。
機械男の姿はもう陰も形も無いが、追いかけなければと漠然思った。

長い長いトンネルを進む。
三分と進まぬうちに、代わり映えの無かったはずのギア・トンネルは、みるみるその姿を変えていった。
追走するノイズとモザイクが、いつか私を追い抜いて。
飲み込まれた壁や床、天井の四面はまるで変形するかのように、カタカタとデザインを変えていく。
狭まる道幅と、比例して高さを増す天井。
そして晴れるノイズ。消えるモザイク。
いつの間にか、“道”は塗り変わっていた。
アルテリア・クラニアム。
それは忘れるべくも無い。
この長廊は、クラニアムに続く道である。
まるで、あのときの再現だった。

ノイズ。音、そして声。

『まもなく、クラニアム中枢だ』
フラッシュバックする。紛れも無くそれは過去の私。
かつて二人で進んだ道の、ここは再現なのか?
でも、今は一人だ。
ブースターと床の摩擦に、決して静かではないのだが、あたりは閑散と、冷たくて、言いようも無い不安が込み上げた。
困ったことになった、と思った。

この世界には敵がいる。
間違いなく。
この道の奥にはかつて私たちが屠った世界の敵が二人いる。
一対二。
機体こそ違えど、敵の片割れはランク一位の影である。タイマン張ってやっと勝てる相手。
残念だが、冷静に考えて今の私に勝ち目は無かった。
せめて隣に誰かいてくれたら、と、当然のように思う。
私は走らせていた機体を静止させた。
それは、私が彼に声をかけたいつかの場所と同じところであった。

『あなたには、感謝している。うれしかったよ』
そう、本当に嬉しかったんだよ。

彼との共闘を思い出す。
戦闘モードを起動中、彼は一切しゃべらない。それでも、連携はなぜか上手いこと取れていた。
欲しいところに手が届く。その阿吽の呼吸が心地よかった。
寡黙さの中で膨れる、私の彼に対する勝手なイメージ。
ぽっと出の傭兵が企業を潰す。そんな歴史が遠からずあったから。
だから私は、きっと彼もそれなりの修羅場を潜り抜けたいわく付きの兵隊さんで、ネクストこそ最近になって手に入れたもので、その実、私の先を生きてきた人生の先輩なのでは、って、そんな虚像を持っていた。

“舌を噛んだら痛いじゃん”。そいつは、さらりとそう言った。そんな理由に肩の力が抜けた。
そうして虚像は崩れたが、親近感は加速した。
今はもう立場が違うけれど、今の彼の生き方には、私は存外思うところがあるのです。
だからこそ会いに行った。
だからこそ、ここまで来た。
借りを返すとか、そんな外側の理由は私にはない。
純粋に、私は私の理想のために、彼を助けることに決めたのです。

とはいえ。
命を懸けることは許されない。
悲しいことに世界にとって私はいまだ必要な人間であるから、私個人の願望で私という存在を失うのは、それはそれでなかなか素敵(メルヘン)な生き方だと、憧れたりもするのだが、私の理性がそれを許しはしないのだ。
「まったく、困ったことになった」
右耳に据えたヘッドセットは、相変わらずノイズばかりで、アブ・マーシュからの応答は無い。
何気なく首輪を撫でる。糸は切れている。ってことは、だ。死ぬと戻れない……?

やれやれ。
ならばこのまま、この場にとどまり続けるのも選択としては悪くない。
同じく踏み込んだ誰かが駆けつけてくれるかも知れないし。
あるいは、いっそ逃げちゃうとか?
そのアイディアにふふふと笑みが零れた。
「それもいいね、私らしくないって所がさ」
私の立場を踏まえた策としては、好みではないが十分有用であろう。

私は踏み出した。

「……さあ、行こうか」
誰に言い聞かせるでもなく呟いて。
メインブースターを再点火する。
《システム、戦闘モード起動します》
コックピットには、そんな乾いた声が響きわたった。

          /* →第一階層にメイ・グリンフィールド他一名が取り残されています。

目の前の扉は硬く閉ざされて、鉄人もウィンもセレンも向こう側。まったくもって疎外感を禁じえない。
なんで私らだけ取り残されるのですか。理不尽です。
そう思うでしょう?――と、振り向いたそこにダンがいない。
おいおい。ちょっとちょっとそりゃあ突拍子過ぎやしませんか。ずるいずるい。
これでは、まるでダンより私たちが格下のようではありませんか。

アブ・マーシュにダンの行方を問いただす。
《繋がってはいる、が、今、探してる。》と、それだけ。彼女の声は熱を帯びていた。出会いの席での余裕はどこへやら、とか。
《すまん。ちょっと“減らす”》アブ・マーシュは言う。
それは私たちへのラインを薄めるということ。どうせ、この場から出て行くことは叶わないと踏んだのだろう。
私たちよりダンに集中した方が効率的だと。……いや、それはちょっぴり卑屈かな。
ただ彼女はダンにご執心ってだけで、私たちに意識割くほど余裕も無いって、そんな理由でもラインを減らす理由には十分だろう。
そうして。ぞろぞろと小さく流れていた、取り様によっては悪口めいたアブ・マーシュの心内が聞こえなくなった。

「えらいことになったものね」
エイさんは言う。両手におぼんを携えて。
私は喫茶店隅の丸テーブルに座って、片手のカメラを弄びながら答えた。
「ええ、ホントに」
「ところで紅茶を入れてみたのだけど」
「お気遣いどうもありがとう」
ティーポットと二つのカップがのるおぼんをエイさんは机に置いて、それから彼女自身も席に着いた。エプロンをつけたまま。その姿は、主婦そのもののようで。
「なかなかどうして、素敵な着こなしですね、エイさん。」
そんな声かけにエイさんはでしょでしょと笑う。笑い返す私。

それから紅茶を一口。その香ばしさはなかなかのものであった。
「紅茶の方もおいしいです」
「ありがと。練習、したからね。二人で!」
殊更二人と言う単語を強調しいのエイさん。残念、私は突っ込みませんでした。
あーあ。と彼女はのけぞって天井を見上げた。
木製のファンがくるくると廻っていた。

それにしても。
「それにしても。こんな状況で平然とお茶して、それでおいしいなんて、どうなのでしょうか。人として」
傍らに広がる赤池を見詰める。ここで起きたことを考えると、普通はこんな暢気はありえないのではなかろうか。
自分の、非普通性が如何程であるか、私にはもうわからないのだった。
「んー。確かに、そうかもね」
総じて明るかったエイさんの顔が陰る。ああ、そういえば彼女は見ているんだ。血だまりに臥す、死体と瀕死の彼の姿を。

一人死んだぐらいじゃ驚かないほどに、私たちは鍛えられてしまった。まったく。
「私は怖いです」
ふと、口をついたのはそんな溜息めいた独白だった。
「でもさ。それに気が付いているってのは、私はいいことだと思うよ。いいじゃない。真っ当に心が動かないなら、意識でカバーすればそれで。」
あっけらかん、とエイさんは言う。
人より悲しみが薄くとも、人並みに祈りを捧げることに意味はあるのだと、彼女は言う。
「それもそうね」と、私は彼女に同意して、紅茶をくっと飲み干した。

「ところで」と、私はこれからのことに言及しようと、切り出そうと、して、
―――リン、リリリリリン、リリリリリン。
それは突如鳴り響いた電話の呼び鈴にかき消された。
リリリリリン、リリリリリン、リリリリリン。
カウンターのレジ隣に置かれた黒電話が鳴っている。
「おや?」と、首をかしげるエイさんをよそに。
リリリ―――。
「はい。もしもし」
私は受話器を取りました。


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