Written by マサ
一歩進むごとに、ぐちゃぐちゃと足元に泥がまとわりつく。先行する男は全身を重量感溢れるプレート製の騎士鎧で覆っているから良いかもしれないが、後からついて行く彼女の履物は靴。それもとても野山の荒れ地を行くのに耐えるような作りではない。
それでも、別に男について行くのを強要された訳でも無ければ、ただ彼女が『嫌がらせ』のために自発的について行っているのだから、文句は言えない。言ったところで置いて行かれるのがオチだ。ただ、幾らなんでも速さが違いすぎる。
「あるばぁ、ちょっと、休憩してもいいんじゃないの?」
彼女が必死に食らいついて行っているというのに、クルリと振り向いたアルバは息一つ乱してはいなかった。やはりこれが竜の学院引きこもりの魔女と、聖女直属でお付きの騎士の体力差か。納得したら余計悲しくなってきた。
「休んでいる時間はない。ここらはただでさえ冒険者を襲う盗賊団が出るという土地だ。見通しと足場が悪く、第三者の接近を音で感知出来る内にこの森を抜けてしまいたい。視認が容易になったら四方八方から襲撃されかねない」
兜を外すことなく随分と流ちょうに喋るものだ。ジャーリーが同じ事をやった時は息苦しさで魔法の詠唱すら滞ったというのに。
「出来れば休憩無しで一気に越えてしまいたい」
まったく、鬱陶しいほど冷淡な奴だ。聖女に仕える聖騎士っていうのは皆こんなものなのかな?
「でもさ、何でこんなところに来たのさ……? 草も谷も真っ黒で陰気な森だし、私はあんまり好きじゃないわ」
「黒魔女が良く言うな」
「魔女じゃないもん、魔術師だもん」
「同じようなものだろ」
女魔術師と魔女の間に昔は明確な区分もあったらしいが、今となっては似たようなものだ。魔術を行使する理力がある女性は皆魔女らしい。ドラングレイグの区分とやらも随分適当なものだ。まあアルバが魔女だというなら魔女でもいいけど。
「第一、接近してくる盗賊を倒すんでしょ? それなら私に任せなさいよ」
ズイッとアルバを押しやり、ジャーリーがパーティの先頭に出る。本来フロントは近接戦での能力に長けた騎士が請け負うのが常套だが、今回は視界の悪い霧の中で、見境なく襲いかかってくるだろう盗賊が相手だ。魔法に頼るが吉だろう。
「シレルタの馬鹿聖女も、アンタも、魔女を舐め過ぎなのよ。見てなさい」
そう言い捨て、ジャーリーは杖を構える。節くれだった木製の杖の中を、魔力が走るのを感じる。温かく、人間と魔力が求めあっているようだ。
そのまま魔術の詠唱を開始する。瑞々しい唇で小さく呟いた魔術式が、杖先から噴出する魔力に在るべき形を持たせる。それはジャーリーの頭上にふよふよと漂う5つのソウルの塊だった。
「これで近づいて来る盗賊団は皆返り討ちにしてあげるわ――だから少しペースを落とさない?」
無い胸を張ったのもそれまで。無い物を無理やり誇張しようとしたせいで、危うく足を吊りかけた。危ない危ない。本当に置いて行かれるところだった。
鬱蒼とした木々は地上の光を遮っていた。もはや日中であるはずなのに夜の様相を呈した森の中を、小さな背丈に三角帽、そしてふわふわ浮かぶ5つの光とその見るからに魔女の隣を歩く騎士の姿あった。
うん、このシチュエーションいいと思う。今の自分は間違いなくお荷物ではなく、アルバの隣で役に立っている。彼を籠絡するにもまずは安全な旅を2人で出来るっていう外堀からだよね。
「便利なんだな、魔術ってのは」
「別に、そこまで便利なものでもないわ。何せ神殿騎士や聖職の連中はほとんど魔力無効化する奇跡を使えるし、私は魔力のみしか使えないのに、あの馬鹿聖女もアンタもフォースや雷、挙句には肉体回復まで使えるじゃない。私に出来るのはせいぜい魔力の放出形態を工夫するだけなのに」
「なんだ? 拗ねてるのか?」
「拗ねてないっ! ただ魔術師には魔術師しか出来ない事があって――」
ジャーリーの言葉を遮るように、近くの水たまりに小さな波紋が広がった。果たして木の実か木の葉か、それともついに盗賊団が来たか――
「ふんっ、く、くるなら来なさい。魔女の力、見せてあげるわ」
杖を構えて魔力を準備する。ズルズルという何かを引きずる音が着実に迫ってくる。そして木陰から人影にしてはやたら大きな物影が現れたが――正直、拍子抜けするくらい変なモノがそこにはいた。
「「……キノコ?」」
形容するならでっかいキノコ。だがその大きさは小柄なジャーリーをさておき、一人前の騎士であるアルバ以上に大きい。
全く恐ろしそうには見えないが、なんか、顔が厳つい。
「焼いたら美味しいかな?」
「絶対不味いからやめとけ」
どう見ても明らかに交渉が通じる相手でもなさそうだし、さっさと倒してしまうことにする。
既に展開していた5つのソウルの塊と、ジャーリーの杖先から迸った青白いソウルの矢が全て無抵抗のキノコにヒットする。見るからに動きの愚鈍そうなキノコだし、まあこんなものか。
「ほら見た? これが私の実力よ」
渾身のドヤ顔をアルバに見せるが、アルバの方は全くジャーリーを見てすらいなかった。兜で表情がうかがえないせいで、何を考えているのかも分からない。
アルバのノ―リアクションに首を傾げそうになったジャーリーに、アルバが突然駆けこんで来た。
「余所見をするなっ!」
一喝と共にジャーリーの体が跳ね飛ばされる。
驚きの中でジャーリーの視界には更に驚く光景が飛び込んできた。全身プレートアーマーのはずのアルバが、キノコに殴り飛ばされて中を舞っていた。
「……ッ!」
小さく息を吐いて、アルバが地面に伸びる。一体どんなパンチ力をしていれば、拳一発で鎧装備の騎士をノックアウト出来るのか、おかしいにもほどがある。
「おい馬鹿キノコ――よくもそいつの事を思いっきりぶん殴ってくれたね……」
頭の中でか細い何かが切れる音がした。おそらく自重とか温存とか、そんな概念だ。
「お返しさせてもらうよ!」
魔力をジャーリーの限界域まで高める。本来休みなしで撃つにはかなり限りのある魔法だが、アルバをぶっ飛ばされた手前、我慢してやる気もない。
「貫け――!」
節くれだった木製杖から、弓兵の強弓もかくやという速度で、人大さえも呑みこむ太さのソウルの槍が迸った。青白い突撃槍がキノコに風穴を開けるも、まだキノコは自立して向かってくる。こうなったら手加減なんてしてられない。
「砕けろ糞キノコ! 潰れろ! 弾け飛べ!」
2発、3発、4発。青白い光がキノコを射抜いてもまだ倒れない。流石に極大の魔術4連発は肉体への負荷も大きい。連続詠唱もあって、ジャーリーの息が乱れる。
「さっさと、くたばれー!」
ジャーリーからキノコに一歩近づく。良く見れば柔らかそうな見た目の割に、拳は赤黒く、岩のようにゴツゴツとしている。あんなものに殴られたら、小柄なジャーリーなどどこまで飛ばされるか分からない。
だが、ジャーリーは魔女だ。騎士と殴り合う未確認生物相手に物理で立ち向かう程愚かではない。高速での詠唱に応えて踏み込み間際に杖全体が青白いオーラを帯びる。
「鱠切りにしてあげる――これで!」
更に一歩踏み込みながら、魔力で形作られた刃を振り抜く。重さの無い刃でも、対象を撃ち抜くソウルの槍をそのまま斬撃に転用したような一撃は、迫っていたキノコを一刀の元に切り伏せた。キノコが仰向けに倒れ込む。
「アルバ!」
とはいえキノコの遺体確認なんて今はどうでもいい。巨大キノコの岩のような拳のアッパーカットで伸びているアルバの方がよっぽど重要だ。
「問題ない。もう既に回復は掛けてある」
アルバの左手には既に聖鈴が握られていた。どうやら聖女の騎士の本領発揮らしい。
「それよりも拙い、あのキノコは囮だったか」
「囮、どういう事?」
「足音が聞こえないのか、来るぞ!」
木立の中を駆ける足音は聞こえない。だが不自然にくしゃりと潰れる落ち葉が敵の位置を教えてくれた。斜め左前の木の裏――そこにめがけて青白色のソウルの大剣で切りつける。ねっとりとした他人のソウルの感触が、ジャーリーのソウルの刃に確かに触れた。無機質ではなく紛れもなくソウルを持つ者の反応だ。
木の裏から転がり出て来る黒い陰。その揺らめく黒い姿は何者かの誓約の下呼び出された報復霊だ。肉迫されては危険と判断して、瞬間的に撃てるだけの魔術を撃ち切る。ソウルの大剣、強いソウルの矢、浮遊するソウルの塊まで繰ってようやく一体を蒸発せしめたが、倒すのに20秒は掛かってしまった。見ればアルバも2体の報復霊に肉迫されていた。
隙を見て2体一度に切り伏せるのは流石の力量だが。
「ソウル体ね……。何でそんなものが?」
「どうやらこの森の主は異世界の住人さえ盗賊団に加えちまうらしいな。仕方ない」
そう言い残してアルバが聖鈴を取り出し跪く。
「どうする気?」
「少し待ってくれ――……」
アルバが奇跡の物語を唱え始める。だがそれは肉体回復でも無ければ雷を以て敵を討つ奇跡でもない。じゃあこれは一体……?
「敵意の探知を掛けたが――これは酷いな。森の南側はうじゃうじゃ居やがる」
ジャーリーには見えないが、アルバにはこの森を徘徊する報復霊たちが探知出来ているらしい。それもアルバが「うじゃうじゃ」と言うからには相当な数だろう。
「崖伝いに西へ迂回して、闇霊を排除しながら湖まで降りるぞ。ここから先歩いてる余裕はない。行くぞ!」
「ちょっ、そんな強引な……!」
「走れッ!」
アルバに右手を引かれ、ジャーリーも歩きにくい暗い森の中を走りだす。確かに姿を正確に視認出来ないものの、ソウル体の気配はある。アルバに言う通り2人や3人では済まないだろう。
囲まれれば近接戦闘能力のないジャーリーはアルバの足手まといにしかならない。そんなのはごめんだ。無垢な聖女をギャフンと言わせるためにも、アルバを籠絡するためにも、まずは彼との旅があってこそだ。
「そこを、どけぇッ!」
ジャーリーの右手を握ったまま、アルバが右手一本で大曲剣――ムラクモを抜く。細工など何もないただ重く無慈悲な一撃が目の前に立った2人のソウル体を切り倒し、霧散させた。だが――
「多いとは思っていたが、一体何人いるんだろうな、この盗賊団」
やられた2体の後ろからは既に新手が1ダース程到着している。もはや悪い夢でも見ている気分だ。何で後続でラインダンスしながらまた新手がやってくるんだろう……。
「ジャーリー、手を借りれるか?」
「いいけど高いよ? 払える?」
「私に払えるものなら何でも出してやる」
「じゃあ一晩私と……。その、み、みだ……。堕落した関係を……?」
どうしてここで噛むのよ! 結局直接な事も婉曲な事も言えず、酷く遠まわしな言い方になってしまった。これが黒魔女と言われた魔女の誘引の術か!
「生憎だがそれは断る。報酬は別のモノにしてくれ」
そしてアルバもアルバで断りやがった。それに何で『堕落』だけでジャーリーの意図している事まで分かった? 実はむっつりだろ、この騎士。
「むぅ……。まあいいや、じゃあもらうものは考えておいてあげる」
それ以上、言葉は不要だった。ただお互いに背中を任せて、自分の前180度の報復霊をただ切り伏せるだけ。森の中にムラクモの重くも鋭い剣閃と、振るわれるソウルの大剣の燐光だけが明滅する。
「これ、どれくらい、いるの?」
「さあな! 探知も切れた今、正確な数も、全然分からん!」
思った以上の数だ。おそらく常備の魔術だけでは数が足らないだろう。ソウルの燐光と剣閃が煌くごとに数体のソウル体が消滅するも、ほぼ変わらない数がまた目の前に立ちはだかり、2人の歩は全く進まなくなった。
そしてアルバの方はまだしも、ジャーリーの魔術には魔力の限界がある。さっきからずっと全開放出の大盤振る舞いだ。普通にやったのではジャーリーの魔力はあっという間に空っ欠になってしまう。
仕方なく袋から出した草を齧ると、青臭い独特の風味に口腔と喉を支配される。やっぱり不味いわね。黄昏草って奴は。
だが、どれだけジャーリーが気張っても、そもそも無限に異世界から召喚される闇霊の盗賊団を相手に、魔術で抗し続けるのは不可能だ。いずれ魔力は尽きる。
万が一のためにずっとチビチビとため込んできた黄昏草も1ダース全て使い果たした。それでなおまだ2人を囲うように2周り程の取り巻きがいるのだから始末に悪い。
「これで、ラスト!」
ジャーリーの叫びと共に、小さなソウルの矢が闇霊を撃った。だが倒れる様子はない。ラストと言うのはジャーリーの魔術の打ち止めだ。
そしてその限界はアルバにとっても同じだった。
「ッチ、ヤバいと思っていたがまさかな……」
ピシリと嫌な音を立てて、アルバの手にある分厚い刃にヒビが走る。おそらく次に彼がフルスイングすれば剣は木端微塵になってしまうだろう。2人揃ってジリ貧だ。だがそれでも限界まで血路を開いて逃げて来ただけのかいはありそうだ。木々の間を抜けるところまでは行く事が出来たのだ。
「ジャーリー。このまま西側の崖から飛び降りるぞ。上手く行けば一息に湖の畔まで降りられるはずだ。奴らは誓約に基づいている以上、この森から抜け出しては来まい」
「でもどうやって囲いを抜けるの……?」
「簡単な事だ。今から俺の指す方に全力で走れ、俺が道を開けてやる」
そう言われても、まさかジャーリーが旅路を邪魔しようとしている相手の言う事に従えと? 正直、彼には聖女関連のいざこざで恨まれているかもしれない。別に直接的に何かした訳でも無ければただ主であるシレルタを馬鹿聖女呼ばわりしているだけだけどさ。
「大丈夫だ。私を信用しろ」
果たしてその『信用しろ』に死んだ者が、ここドラングレイグだけでどれほどいるか。ただ今のジャーリーにはアルバの言葉だけが望みだった。魔力の切れたジャーリー単身で盗賊団の囲いを突破する術は無い。
「行くぞ、3,2,1――」
仕方ない、彼がやると言った以上、信用してやる。
チリンチリンと音を立て、聖鈴が揺れる。
「信用するわ」
「ああ……。放つ――フォース」
走りだしたジャーリーの眼前で、報復霊の一団が突如吹き飛ぶ。この飛び方はフォース系統の奇跡のものだ。今なら報復霊達の2重の囲みも、飛び込みの要領でかき分けられる。
「そのまま行け、私も直ぐ行く」
だがそう叫ぶ間にも、報復霊達の囲いは更にアルバとの距離を縮めている。
今やヒビが入り砕け散りそうな大曲剣では、奴らを切り伏せる事も出来ないはずだ。
「安心しろ、とっておきは最後まで取っておく性質でな」
アルバがさも余裕そうに聖鈴をチラつかせる。
単なるブラフかとも思ったその瞬間、ジャーリーの目にも追えない速さで不可視の力場が広がった。おそらく今もっとも複雑と言われる神の怒りの原型だろう。
彼に群がったソウル体の一団が全て蒸発し、消えて行く。同時に駆け出してきたアルバがジャーリーの手を掴んで、更に西へと駆ける。
「シレルタ様直伝の大奇跡の1つだ。ただし今の状態であまり回数は放てないからな――行くぞ。追っ手はまだ大量にいる」
アルバの言う通り、既に後方からも前方からも木々の間を埋めつくさんばかりの報復霊が駆けこんでくる。おそらく次に衝突すれば、既に魔力が切れたジャーリーも、剣が砕けそうで、奇跡の多用も出来ないアルバも、戦闘力が無いままやられるだろう。
もつれそうになる足をジャーリーが必死に動かす。次第に木々の存在が薄くなり、開けた地形に出る。どうやら森を抜けられたのか?
「ここじゃ危険だ。さっさとこの森からおさらばするぞ」
そう言ってアルバが指さすのは、ただの崖だった。どう見ても行けば落ちる自殺コースだ。下を見ても鬱蒼とした黒にしか見えない。
「でもここ足元が……」
「躊躇ってる時間はない、飛ぶぞ」
「えっ、でも……」
繰り返し底を見るも、底が見えないのではどうしようもない。
せめて七色石でもあれば落として反応を見るところだが、そんな一部でだけ利用価値の高い物を常備している訳がない。
「チッ!」
アルバの舌打ちと、ほぼノータイムで鈴が鳴る。アルバの最小限の所作にジャーリーが反応するよりも早く、不可視の力場がジャーリーの顔に向けて迫っていた矢をはたき落した。貴重な神の怒りの使用回数が更に逼迫されていく。
しかしついに敵もついに飛び道具か。いよいよどこに逃げたらいいのか分からなくなってきた。谷底? それは流石に論外だ。
「こうなったら背水のなんたらね……」
魔力は尽きたが、ジャーリーの手元にはまだ短刀(ダガ―)がある。果たしてこんな小振りなナイフ一本でどこまで盗賊団と戦えるか分からないが、少なくとも底も見えない闇に墜落して無残な最期を遂げるよりはマシだろう。
どれだけいるかも分からない盗賊団に向けて一歩踏み出した瞬間、ヒュンという風切り音がした。だが肝心な音の出所が分からない。方向の予測さえ直ぐには出来ない。
「馬鹿野郎!」
周囲を見渡して弓かボーガンの射撃地点を割り出すよりも早く、金属の冷たく硬質な感触がジャーリーの胸の下あたりを打った。アルバの腕――プレートアーマーの腕部分だ。
そして意味も分からないままに足場が無くなる。
ほぼ丸1秒思考が停止していたが、落下が始まった時には既に理解出来た――アルバの奴、ジャーリーを谷底に投げ捨てやがった!
「ばかああああああああああ」
谷底まで一体どれだけあるのだろう? 落下抑制があれば助かったのか? 果たしてどれくらい痛いだろうか? 落ちている間に色々な疑問が湧くが、何一つ解消することなく、ジャーリーは地面に激突した。
というかあんまり高くもなければ、痛くもなかった。丈の長い草がクッションになったらしく、外傷さえない。どうやら底なしに見えたのは光も届かない土地のせいか。
自身の無事にジャーリーが安堵しているところに、鎧武者が落ちて来た。
「みぎゃっ!?」
「ああ、悪い……」
幸いにも鎧が直撃する事は避けられたが、降ってきたアルバはほとんどジャーリーを押し倒すような姿勢だ。むしろ良く直撃しなかったものだ。魔術師は神を信仰しない性質だが、この時ばかりは思わぬ幸運に感謝したかった。
もっとも、落ちて来られていきなり頭突きさながらの至近距離に平静を保てと言う方が無理だけど。
「……えっと、かお、ちかい……」
顔と言ってもアルバの素顔は兜の下だ。ただ荒い息使いだけが組み敷かれたジャーリーの耳にも聞こえて来た。ハアハアと荒い息はまるでよく――違う、そんなものじゃない。
見れば背中にはさっきまでなかった棒状のものが刺さっていた。
「ちょっと、アンタ大丈夫?」
「微妙なところだな」
声は飄々としているが、背中に刺さっている何かの傷は誤魔化せない。傷口から流れ出す血液は紅いサ―コートを更に紅く、ジットリと鮮血で染めて行く。かなり危ない出血のし方だ。
「ッ! ヤバいな、これ……」
震える声でそう話すアルバの背中には、明らかに人に向けるにはオーバーキルな、対竜か、もしくは異形の存在を討つために作られたようにも思える太矢が刺さっていた。こんなもの使う方も、食らって生きている方もどうかしている。
「何ではたき落さなかったの……。さっきのアレがあれば――」
「さっきお前に飛んで来たアレを落としたのが最後だったんだよ。あの1射は叩き落とせないからお前を崖下に落とした」
なんなの、それ。
だとしたらそんなの、馬鹿以外何物でもない。
「馬鹿、何で私なんか庇ったのよ……」
「まともな防具も持たない奴よりも、騎士鎧を装備した私が壁役になった方が耐久性に優れていると言うだけのことだ。それとも何だ? シレルタ様の騎士が身を守る術もない魔女を盾にして逃げればよかったのか?」
「それ、答えになってないから……。でも……」
その後に続けたい言葉は中々出せない。今ジャーリーに必要なのはアルバにジャーリーを追わせることだけに、素直になったら負けだ。何に負けるのかは知らないけど。
プレートアーマーに刺さった矢をとりあえず抜き出す。慎重に抜き出せば何とか矢尻まで折ることなく抜けたが、何だろうこの矢尻、血とは違う粘り気のある液体がこびり付いているし、その液も酸とは違う独特の臭気がある。
「これは……毒?」
「おそらくな。しかも結構強い奴だ。目が霞みやがる――」
聖鈴がシャンと優しい音色を奏でる。
アルバの詠唱と信仰に応え、奇跡の力が舞い降りるが、そこまで見目の変化はない。
「でも、お前のおかげで矢尻はきちんと抜けたことだ。まあ毒については仕方ない。休息を取って毒が抜けるのを待とう。かなり酷い落ち方をしたが、何とか篝火は見つかった事だしな。結果オーライだ」
確かに黒い森の下層まで転がり落ちて、その果てに何とか篝火を見つける事は出来たが、正直に言えばそれを結果オーライとジャーリーは思えない。
彼の怪我と毒、魔力補充策の全喪失。それらはジャーリーが無理をしてさっさと森を抜けてしまえば回避出来た可能性がある事を想えば、篝火のありがたみも薄れてしまう。
「生命湧きは既に発動したから、後は消耗を抑えるだけだ。私は寝る」
そう言ってアルバは横になる。だが寝る時まで兜を脱がないというのはどういう了見か。
直ぐに寝た彼がうなされ出したのは、それから一刻も経たない頃だった。
この際多少の無茶は仕方ない。半ば無理やり兜と取り、甲冑を脱がせ、アルバの背中に負った傷の状態を見る。だが惨状はジャーリーが思った以上のものだった。
「酷い怪我……」
甲冑まで貫いた矢傷は、伴った毒のためか未だに癒える様子も無く、今もゆっくりと血を流していた。流石に生命力を湧きあがらせる奇跡も、瞬く間に毒に苛まれる傷口を癒してはくれないらしい。
流れ出す血液と森の下層のジットリと湿った冷たさは、確実にアルバの体から熱を奪っているようだ。触れた彼の体は、湖水のような冷たさだった。
「体、冷たくなってる」
ジャーリーとアルバのすぐ目の前にはさも温かそうに揺らめく火があるのに、この篝火には生憎と放射する熱がない。そもそも不死の骨に灯り、特別な松明以外は火を移す事も出来ない事から推察出来る通り、呪術の火よりも深遠な謎を湛えた火だ。
今この場において、ただ明るいだけの篝火では、毒に体を蝕まれ、冷えてゆくアルバの体を温める事は出来なかった。
せめて武器になるような火があればと思うも、火炎壺なんて便利だが重いものを常備しているはずもなければ、ジャーリーに呪術師の心得はない。今ここで無から熱を生みだす手段は無かった。せめて松明でもあれば――
「あっ……!」
――いや、人の体を温めるのにちょうどいい、人肌の暖かさはあった。誰の――というのはジャーリーも説明に苦心するので割愛するが。
「うん、別に下心はないから……。いや、ちょっとはあるかもしれないけど、今そんなことは関係ないし……。でもちょっとだけあの馬鹿聖女に悔しい想いをさせるのも悪くないんじゃないかな? それにいっそのこと既成事実でこいつを堕落させるのも……。いや、今はそうじゃなくて……。そう言うのはもっとこう、温かい雰囲気で……」
一体誰に向けて言い訳しているのかは、ジャーリーにも分からない。
「し、仕方ない。コイツがこんなことになったのも、私のせいだし……」
仕方ない。覚悟を決めよう。庇われた恩義に報いもしないのは魔術師の名折れだしね。
「こーいうときは、はだかであたためるって、いうよね?」
そっけない風に言ってみるが、当然アルバは返事の1つも返さない。というよりも返せる状況にないはずだ。
「……見ないでよ」
もっともそう言っても今のアルバにそんな余裕はないだろうけどさ。ただ、流石に異性の目の前でローブを脱ぐのはちょっと――いや、かなり恥ずかしい。
篝火の灯が洞穴の壁にジャーリーのシルエットを映した。
陰の中の姿とはいえ、何とも頼りない細さだ。アルバの太い腕の前には片手で制されてしまいそうな細い腕に、ぺったんことは言わないまでも、お世辞にも豊かとは言えない胸元。ジャーリー自身が一番がっかりしたい気分だ。
あの馬鹿聖女のたゆんたゆんが今だけは恨めしい。あれか? 温室育ちだから大きくなったのか?
「別に体が触れても何ともない。体が触れても何ともない。別に胸を押し当てる気なんかないんだから何ともない。多少何かあっても事故だから……」
見る人が見たらイケない場面にも見えるかもしれない。何せ動けない騎士の上に、魔女が覆いかぶさるように体を合わせているのだ。
多分誤解されたら状況を説明しても信じてもらえないだろう。まあいいか。それはそれで、外堀から埋める既成事実にはなるだろうし――不本意ではあるけど。
ピタリ、と体が触れ合う。触覚が鋭敏になっているのか、厚い胸筋越しにアルバの心臓の鼓動まで、小さな胸に感じる。
「冷たい……。氷みたい」
体が機能を抑えたがっているのか、アルバの体は触れたジャーリーがドキリとするほど冷たかった。仕方ない。ジャーリーは腕に力を入れてよりギュッとアルバの体を引き寄せようとする――こうしてるとまるでアルバに抱っこされてるみたいだ。
「アルバ、温かい?」
返事はない。ただのうめき声だ。
それでもさっきと違うのは、少しずつだが心臓の拍動数が過剰から元に戻って来ていることや、背中の傷口からの出血が収まり、少しずつ顔色も良くなってきていることか。
どうやら奇跡の力と自然回復だけでほぼ峠は越えてしまったらしい。ジャーリーの看病も意味が無かったと思わせられるあたり――やっぱり奇跡は憎い。
「まあいいよね。私にだって少しくらい看病した役得があっても……」
やっぱり結構疲れていたらしい。段々とアルバの体も生命力を取り戻してきたせいか、いつしかジャーリーが温められる側になるくらい、温かくなっていた。そうなると抑えられないのはジャーリーの眠気だ。そもそも疲れるまで森を散策し続けて、報復霊をなぎ倒し続けたのはジャーリーも一緒なのだ。
柔らかく小さな房がアルバの胸の上でふにふにと潰れて形を変える。だが自分たちの今の姿を省みる余裕もなく、いつの間にかジャーリーは眠りに落ちていた。
その眠りには黒の魔女と呼ばれて以来、始めてみる安穏な夢が、おまけとして付いていた。
ジャーリーが起きた時も、まだ周囲は暗かった。そもそも日も出ない森の中だ。
目を覚ましたジャーリーが自身のあられもない格好に驚くのを、既に全快したアルバは兜を外したまま苦笑いで見ていた。いや、何の笑いなのよ。
「俺は何もしてないからな。それとちゃんと服を着ろ、しどけないぞ」
「……本当に何もしてないの?」
「ああ、神に誓おう! 第一、私を籠絡したかったら、シレルタ様みたいな胸の大――豊かな女性になってからくるんだな」
「むぅ……。それが本音? 歪んだ忠義が隠せてないみたいだけど」
「残念ながら本音だ――って、何だその目は? 別に胸で主を選んだ訳ではないがな」
まあどう見ても完全に墓穴だし。
「はいはい、聖騎士様は巨乳好きね。1つ勉強になりましたぁ」
とりあえず腹も立ったし、精一杯皮肉ってやる。どうせジャーリーは純粋培養の聖女様とは比べ物にならないくらいの虚乳で、薄い胸だし。
「でもな、シレルタ様とはまた違うが、お前の事も大事だとは思っている。戦友とかそういう感情だがな」
「それはどうも」
ぺったんこを指摘した後にそんな事を言われて、まともに受け止められる訳が無い。
だがツンケンするジャーリーをよそにアルバはそのまま話を続けて行く。真剣な調子に、ジャーリーも少しだけ背筋が伸びる。
「ありがとう。多分お前が一緒にいなかったら盗賊団に囲まれても何も出来なかっただろうし、多分野垂れていただろうさ」
「そんなの、別にいいのに……」
むしろ早期に森を抜けられなかったのも、アルバが矢傷を受けたのもジャーリーのせいだ。筋違いな礼にむずかゆさを覚える。
「それで、1つお前に頼みたいことがある」
「うん、聞くよ」
暗い森の中の、暗い洞穴の中で、篝火だけが2人を照らしていた。陰差すアルバの表情は真剣で、それだけにジャーリーも茶化す気にはなれない。
「一緒に来てほしい」
アルバの真剣なその言葉を、ジャーリーはただ黙って聞いた。
促す訳ではないが、まだ先がある。そしてその先は必ずしもジャーリーにとって望み得るものではないだろう。
それでもいい。ただ黙って次の言葉を待つ。
「シレルタ様の病を治すためだ。長い旅になるだろうが、ついて来てくれないか?」
簡潔にしてそれが全て。アルバは叙任を受けた瞬間からあの聖女に全てを捧げたのだ。
その命も、お偉い聖女様の病を癒す術を探すために、誰も与り知らぬところで危機に晒されても仕方ない物として扱われる。それをアルバ自身が容認していては、ジャーリーには何も出来ない。
たとえ魔術や闇術で強行してアルバの純潔を奪ったとしても、彼の精神を堕落させる事は出来ないだろう。彼は全くの高潔とは言い難いが、その忠誠は確かだろう。
「ま、しょうが無いよね――でもついて行くわ。別にアンタの事が心配なんじゃなくて、ただあの馬鹿聖女様の吠え面かく姿を見たいだけだからね」
籠絡するのを諦めたわけじゃない。ただこんなのも悪くないかもしれないと思っただけだ。愛情でもただの敵対心でもなく、共通の目的のための関係。それがあの澄まし顔の聖女のためだと思うと少し腹が立つけど、今は言いっ子なしだ。後で清算してもらうからね。
「じゃあとりあえず、言っておいた報酬だけ貰っちゃおうかな?」
それに、彼が堕落しようとしまいと、今の彼はこうしてジャーリーの隣にいるのだから。
言い訳をさせてください |
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